第19話 銀霧の親子(後編)
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第19話の後編です。
北へ向かう街道の旅は、静かに始まった。
荷台の巣箱の入口からは、時々、銀色の小さな頭が覗いた。決まって大きい方だ。流れていく景色を飽きずに眺め、鳥が横切るたびに首を伸ばす。小さい方は入口の奥から、兄の後頭部越しに、慎重に世界を見ていた。
母狐は、ほとんど姿を見せなかった。だが、ミラが夕方の検診で覗くたび、報告は良くなっていった。
「食べてる。眠れてる。……回復が早いわ。野生の底力ね」
一日目の夜は、街道沿いの林の際で野営になった。
焚き火を挟んで、ミラは早々に毛布にくるまり、リオは最初の見張りに就いた。
巣箱の入口に、銀色の影が座っていた。
母狐である。
仔たちを箱の奥に眠らせて、自分は入口を塞ぐように座り、夜の闇に鼻先を向けている。休んではいるのだろう。だが、耳は絶えず動き、夜の音をひとつずつ検めている。
眠りながら、守っている。
その姿を、リオは焚き火越しに、長いこと見ていた。
見ているうちに、胸の奥の、普段は使っていない棚のあたりが、きし、と鳴った。
「……なんか、懐かしくて」
気づけば、そう零していた。
「懐かしい?」
毛布の中から、ミラの声がした。眠っていなかったらしい。
「銀霧狐に、前に会ったことがあるの?」
「いえ。初めてです。……初めてなんですけど」
なんで、懐かしいんだろう。
子を背に庇う、あの構え。眠りながら夜の音を数える、あの耳。理屈ではなく、体のどこか深いところが、あの姿を「知っている」と言っている。
理由は、自分でも分からなかった。
「……なんでしょうね、これ」
「そう」
ミラは、それ以上聞かなかった。
ただ、毛布から出した手で、リオの頭を、くしゃりとひとつ撫でた。子供にするやり方だった。
「見張り、二刻したら代わるわ。……あんたも、ちゃんと寝るのよ」
◇
二日目の夜だった。
最初に気づいたのは、リオでも、ミラでもなかった。
巣箱の中から、低い、低い唸りが響いたのである。
リオは目を開けた。焚き火は熾火になっている。母狐が巣箱の入口に立ち、街道の南――王都の方角の闇に、牙を剥いていた。
「……ミラさん」
「起きてるわ」
毛布の中から、獣医の声が静かに応じた。
「南の茂み。三……いや、四人ね。囲む気だわ」
夜の街道を、松明も持たずに散開して近づく足音。手慣れた連中だ。そして狙いが路銀なら、わざわざ荷馬車の風下から囲んだりはしない。
狙いは、荷だ。
捕まったのは、密猟団の全部ではなかったのだ。売り物を取り返しに来る程度の残りは、いたということである。
「檻ごと貰ってくぜ」
茂みから、男たちが出た。四人。手には棍棒と、投げ網。
「大人しくしてりゃ、怪我はさせねえ。こちとら、傷物にしたくねえ商品なんでな」
「……商品じゃ、ありません」
リオは、焚き火の前に立った。
「あの親子は、家に帰るところです。通してもらえませんか」
「はっ、ガキのお使いか? 悪いが――」
男の言葉は、そこで終わった。
白いものが、地を這うように流れ出したからである。
霧だった。
巣箱の上に立った母狐の毛並みから、銀の燐光がほどけるように立ちのぼり、見る間に編まれて、幾筋もの白い帯になって男たちの足元へ走る。帯は膨らみ、絡まり合い、瞬きの間に、街道のその一角だけが、乳白の海に沈んだ。
霧を、織っている。
回復した銀霧狐が、初めて見せる、種の芸だった。
「な、なんだ!? おい、どこだ! 仲間の声が――」
霧の中で、男たちの怒号が方向を失う。
リオは静かに糸を撚り、母狐に一瞬だけ触れさせた。
――右の二人は、俺が。左は、網の人が。真ん中は、あなたに。
返ってきた温度は、短く、鋭く、了解、だった。
霧の中を、リオは走った。奇妙な感覚だった。視界は白一色なのに、狐の織った霧は、こちらの足元だけ薄い。道を、開けてくれている。建国譚の王は、百年前、こういう霧の中を城まで導かれたのだろう。
右手で棍棒を振り回す男の背後を取り、膝裏を払って転がし、慌てて起きたところの首筋に、当て身をひとつ。二人目は霧の中で仲間と正面衝突して、勝手に伸びていた。
左手の闇では、ばさ、と重い網の広がる音がした。
「はい、二人。……暴れる大型を道具で押さえるのも、獣医の仕事のうちなのよ。人間は大型より、よっぽど軽いわ」
霧の向こうで、ミラの声が涼しく言った。往診鞄に常備している、大型獣用の投網である。彼女の足元にも、狐の霧は道を開けていた。
そして真ん中。
頭格らしい大男だけは、最後まで崩れなかった。霧の中でも喚かず、棍棒を低く構え、背中を荷馬車に預けて、仲間の合流を待つ構えを取っている。場数の違いが見える立ち姿だった。
その男の眼前に、霧そのものから滲み出るように、銀色の狐が現れた。牙は、喉の高さ。同時に背後にはリオが立ち、左右の霧の奥では、仲間の呻き声が途絶えていた。
男は霧の中の形勢をしばらく読み――ちっ、と舌を打って、棍棒を地に捨てた。
「……読めねえ喧嘩は、しねえ主義だ」
気概のある、降参だった。
◇
縛り上げた四人は、朝一番の早馬で憲兵に引き渡す手筈になった。
その前に、リオは頭格の男の前にしゃがんだ。
「……一つだけ。誰に頼まれて、銀霧狐を?」
「頼まれちゃいねえよ」
男は、観念した顔で、それでも隠す理由もないという調子で言った。
「裏の稼業の間で、噂が流れてたのさ。銀霧狐の冬毛の上物なら、王都のハスク商会が言い値で買う、ってな。注文書だの仲介だの、ご大層なもんは俺は知らねえ。噂を当てにして獲った。それだけの話だ」
噂。
出所の分からない、しかし具体的な商会の名前の入った、噂だった。
リオは、その名前を、胸の帳面に書き付けた。
◇
三日目の夕方、荷馬車は北の霧谷に着いた。
谷は、名前の通りだった。
夕暮れの谷底に、乳白の霧が湖のように満ち、風が吹くたび、岸辺の形を変える。銀霧狐たちの、故郷である。
谷の入口で巣箱を降ろし、蓋を開けると、大きい方が真っ先に転がり出た。続いて小さい方。二匹は湿った土の匂いを嗅ぎ、転げ回り、それから思い出したように戻ってきて、リオの足に、ふに、と頭をぶつけた。
最後に、母狐が出た。
銀の毛並みは、もう見違えるようだった。夕陽を受けて、御伽噺のとおりに光っている。
母狐は谷へ数歩進み、仔らを先に行かせて、一度だけ、振り返った。
長い、まっすぐな視線だった。
それから、深く、頭を下げるような仕草をひとつ。
リオも、同じだけ、頭を下げた。
顔を上げた時には、親子の姿は、谷の霧の中に溶けて消えていた。銀の毛並みが霧に溶ける、あの種の芸のとおりに。
帰る家がある者は、こうやって、霧に迎えられて帰るのだ。
「……いい仕事だったわね、世話係どの」
「その呼び方、ミラさんまでやめてくださいよ」
「あら、気に入ってるのに。憲兵くんの敬礼つきで、ね」
「思い出させないでください」
「いい仕事だったわ。……それは、本当」
「……はい」
◇
王都に戻って二日後、リオは覆面の姿で、とある商会の帳場にいた。
ハスク商会。表通りに面した、素材と毛皮の卸である。店構えは堅実で、看板に飾り気はなく、店の者の動きに無駄がない。
帳場の奥に、その女主人はいた。
四十絡みの、恰幅の良い女である。濃い茶の髪を後ろへきっちりと結い、袖には帳場用の腕貫。愛想笑いというものを、生まれてから一度もしたことのなさそうな顔が、覆面の来客を値踏みするように見た。
「――で。窓口の使いが、うちに何のご用です」
ロベリア・ハスク。それが、女主人の名だった。
「先日の、銀霧狐の密猟の件です。裏では『銀霧狐の上物はハスク商会が言い値で買う』という噂が流れていたようで。……その噂の出所を、洗っています」
「その話なら、憲兵にも財団にも、同じことを答えましたよ」
ロベリアは、面倒くさそうに、しかし淀みなく言った。
「うちは、合法の仕入れしか扱いません。密猟品と知って買う馬鹿が、どこにいます。捕まって商売を失う危険と、毛皮一枚の儲け。割に合わないでしょう」
「でも、注文はあった」
「ありましたね」
女主人は、あっさり認めた。そして帳場の抽斗から、一枚の注文書の写しを出して、覆面の客の前に置いた。
「三月前。仲介人経由の予約注文。『銀霧狐の冬毛の最上物、入荷次第、言い値で』。仲介人の名はそこに書いてある通り。ただし、うちが正規の流通で銀霧狐を扱えるのは、保護指定前の古い在庫だけです。新しい毛皮が『合法に』入る道はない。……つまりこの注文は、最初から空注文です。うちは受けて、放ってあった。それだけですよ」
「その注文の話が、裏で噂になっていた」
「でしょうね。噂ってのは、注文書一枚からでも湧くんです。どこかの誰かが、うちの名前に尾ひれを付けて流した。……迷惑してるのは、こっちですよ。おかげで憲兵だの財団だの窓口だのが、代わる代わる帳場に立つ」
淀みが、ない。
リオは覆面の下で、静かに読んでいた。声の温度、視線の揺れ、指の止まり。……嘘の徴が、どこにもない。この人は、嘘を言っていない。
言っていないが――全部を言っているとも、限らない。
怪しいのに、突ける嘘がない。エルム・シラードとは正反対の、これはこれで、嫌な手強さだった。
「ご協力、感謝します」
リオは注文書の写しを検め、席を立った。
几帳面な、定規で引いたような字の並ぶ注文書だった。……どこかで似た字を見た気がする、と思ったのは、気のせいかもしれない。
店を出る間際、背中に、女主人の声が届いた。
「――窓口の。ひとつ、言っておきますがね」
振り返ると、ロベリア・ハスクは帳場の算盤を弾きながら、こちらを見もせずに言った。
「良い毛皮は、良い山からしか生まれない。山を殺す獲り方をする連中は――私も、嫌いですよ」
本音なのか、商売の顔なのか。
読めないまま、リオは表通りの雑踏に出た。
◇
夜の事務所で、グラントは報告を聞き終え、短く言った。
「ハスク商会、か。……帳面に載せとく」
それだけだった。それだけの重さが、あった。
帰り道の空は晴れて、北の方角に、月が出ていた。
あの谷の霧の中で、今ごろ親子は、家の匂いの中で眠っているだろう。
眠りながら夜の音を数える、あの耳のことを思い出して――リオはもう一度だけ、胸の奥の、名前の分からない棚の軋みを聞いた。




