第19話 銀霧の親子(前編)
お読みいただきありがとうございます。
新しいお話です。少し長い旅になります。
その週のリオは、南区の時計塔に営巣した嵐鴉の一家と立ち退き交渉をまとめ、川沿いの倉庫で「夜中に米袋が歩く」怪異の正体(米袋ごと引っ越し中の子鼠の大家族)を隣の空き倉庫へ案内し終えたところだった。
そして週の終わり、王都に大きな報せが流れた。
「密猟団、御用だってよ!」
昼の食堂で、カイルが瓦版を広げた。
「北の霧谷でこっそり狩りをやってた一味を、憲兵がまとめて捕まえたって。……おい、聞いて驚け。狙われてたのは銀霧狐だぞ」
「銀霧狐って、あの?」
セナが目を丸くした。
「建国譚の?」
「そ。王家の紋の、あの狐」
銀霧狐。
建国譚に曰く、霧の谷で追手に追われた初代の王を、銀色の狐が匿った。狐は魔法の霧を織って王の姿を隠し、追手の目をくらませ、霧の道だけを開いて、城の丘まで導いたという――王家の紋章に狐が入っているのはそのためで、銀霧狐は勅令付きの保護種である。狩れば重罪。だが、その銀の冬毛は、闇の市場でなら小さな屋敷が建つ値がつくという。
「銀霧狐は、確か王家の保護種の筆頭よ。狩るのはもちろん、毛皮を持ってるだけでも重罪のはず。……それでも狙うのね、獲る側は」
「捕まって何よりだわ」の前に、セナは低くそう言った。獣を飼う者として、思うところのある顔だった。
「なあ。……で、狐はどうなったんだ?」
カイルの素朴な疑問の答えを、リオはその夜、灰色の封筒で知ることになった。
『押収された銀霧狐の件。今夜、事務所』
◇
「状況はこうだ」
夜の事務所で、彫りの深い顔の帳の主が、憲兵団の調書の写しを机に置いた。
「摘発で押収されたのは、銀霧狐の母子。母親が一匹、仔が二匹。罠にかけられて、売られる寸前だった。ここまでは、良い話だ。……問題は、その後でな」
「その後」
「母狐が、檻の中で飲まず食わずだ。三日になる」
グラントは調書をめくった。
「憲兵の獣舎で保護してるが、人が近づくたびに、仔を背中に庇って威嚇する。餌にも水にも口をつけねえ。憲兵付きの獣医はもうお手上げだ。……このままだと、罪人は裁けても、肝心の狐が死ぬ」
「……仔を、守ってるんですね。自分の飯より」
「だろうな。で、依頼だ。筋は財団経由で、憲兵団から」
依頼書には、こうあった。
『銀霧狐の母子を、元の生息地である北の霧谷まで移送されたし。あわせて道中の世話を委託する。母体の衰弱著しく、時間の猶予なし』
「片道で三日の道のりだ。ミラが獣医として同行する。お前は、世話係だ」
「テイムは」
「使えるのか?」
グラントの問いに、リオは首を横に振った。
「今の母狐には、使いません。……衰弱して追い詰められた心に、契約の糸は結んじゃいけない。結べてしまうことが、あるからです」
嵐の中で針に糸を通すのは難しい。難しいが、心がすり切れて薄くなった時――糸は、通ってはいけない深さまで、通ってしまうことがある。ミラから最初に教わった、この芸の一番深い禁忌だ。
「触れて話を聞くのも、最小限にします。今のあの子に人の声を流し込むこと自体が、毒になる。……だから、糸なしでやります。時間をかけて、普通に」
「それでいい」
グラントは、珍しく深く頷いた。
「窓口が請けたのは移送だが、本当の依頼は『生かして帰す』だ。やり方は、任せる」
◇
翌朝、憲兵団の獣舎で、リオはその親子に会った。
石造りの獣舎の一番奥、藁を敷いた広い檻。その隅の暗がりに、銀色の小山がうずくまっていた。
銀霧狐――正式な種族名を、ミストウィーバーという。霧を、織る者。
実習林で会ったミストフォックスの近縁の、そのまた格上にあたる希少種だ。ミストフォックスが霧を「まとう」だけなのに対し、この種は狩りのための霧を自在に「織る」。絹のように編んだ霧で獲物を包み、その中では自分の毛並みが霧に溶けて、姿が消えるという。
毛皮が法外な値を呼ぶのは、美しさのせいだけではない。霧に溶けるこの毛皮は、闇の世界で「着る者を消す外套」の材料になると、まことしやかに囁かれているのだ。
母狐は、冬毛に入りかけの毛並みが、暗がりでも燐光のように淡く光っていた。なるほど、これは御伽噺になる毛並みだ。
だが、霧は、ない。
霧を織るには魔力が要る。飲まず食わずの三日で、この子にはもう、身を隠す霧を織る力さえ残っていないのだ。
だが今、その美しい体は、見る影もなく削げていた。
目の下が窪み、毛艶は乱れ、それでも――牙だけは、まっすぐこちらに向いていた。
背中の陰に、銀色の毛玉が二つ。仔狐たちだ。母親の尻尾の下から、真っ黒な目がこちらを窺っている。
「これで三日です」
案内の若い憲兵が、疲れた顔で言った。
「餌を替えても、水を替えても、駄目で。近づくだけで、あの牙でしょう。獣医の先生も、鎮静の薬を打つには弱りすぎてると」
「……分かりました。あとは、こちらで」
リオは檻の前にしゃがみ――そして、母狐を見なかった。
視線を檻の外の壁に向けたまま、持参した皿に水と、蒸した鶏肉を並べ、檻の格子の内側の、母子から一番遠い場所に、静かに置いた。
そして、立ち上がり、何も言わず、獣舎の反対の隅に座り込んだ。
「え、あの……近づかないんですか?」
「近づきません。今日は、たぶん明日も」
「は、はあ……」
「あの母狐から見えるところで、何もしない人間をやります。……しばらく、あの皿と俺を、見ててもらうので」
若い憲兵は、狐に負けず劣らず警戒した顔で、変な世話係を見ていた。
リオは壁にもたれ、目を半分閉じた。
糸は、使わない。
使わないが、読むことはできる。遠目の観察だけで、分かることはある。
威嚇の牙の向きは、まっすぐで、迷いがない。恐怖で乱れた威嚇ではなく、覚悟の決まった威嚇だ。母親の背中は檻の隅の壁につけてある。逃げ場を捨てて、守りの陣を敷いている。
――強い母親だ。
だから、飲まず食わずになる。自分が水を飲む一瞬も、仔から目を離したくないのだ。
なら、こちらのやることは一つだった。
目を離しても大丈夫な人間に、なる。
それだけの、時間のかかる、単純な仕事である。
◇
一日目、皿は減らなかった。
二日目の朝、水だけが減っていた。
リオは毎朝同じ時刻に皿を替え、同じ場所に座り、昼は座ったまま持参のパンを齧り、夕方に帰った。話しかけない。目を合わせない。ただ、害のない置物として、そこにいる。
三日目、鶏肉が半分減った。
先に音を上げたのは、仔狐たちだった。
母親の尻尾の下から、銀色の毛玉が一つ、ころりと転がり出て、皿の匂いを嗅ぎに来たのである。母狐が低く鳴いて呼び戻す。毛玉は戻る。だが、しばらくするとまた転がり出る。
子供というのは、どこの種族も、そういうものらしい。
見ているうちに、二匹の性分も分かってきた。先に転がり出てくるのは、いつも体の大きい方だ。怖いもの知らずで、皿までの距離を毎回少しずつ縮めてくる。小さい方は慎重で、母親の尻尾の陰から兄の冒険を見守り、兄が無事だと確かめてから、そろそろと後に続く。
大きい方が先陣で、小さい方が検分役。良い兄弟である。
四日目、皿の位置を、拳一つ分だけ母子に近づけた。
威嚇は、来なかった。
正確には、牙は見せた。見せたが、腰が落ちていない。飛びかかる気のない、形だけの牙だった。本気の威嚇と、義理の威嚇。その違いが分かる程度には、こちらも毎日見られている。
五日目の夕方、様子を見に来たミラが、檻を一目見て、ほう、と息を吐いた。
「……水を飲んでる。目の窪みが戻り始めてるわ。ぎりぎりね。ぎりぎり、間に合った」
継ぎの当たった作業着の獣医は、リオの隣にしゃがんで、小声で続けた。
「憲兵の獣医がね、『あの世話係は何の魔法を使ったんだ』って聞くのよ。何もしない魔法です、って答えておいたわ」
「実際、何もしてないので」
「何もしないことを五日続けるのが、一番難しいのよ」
六日目の朝、事件が起きた。
いつものように皿を置いて下がろうとしたリオの背中に、ふに、と柔らかいものがぶつかったのである。
見下ろすと、銀色の毛玉が一つ、リオの足元で尻餅をついていた。皿に向かって走って、曲がり損ねたらしい。
獣舎の空気が、凍った。
母狐が、立ち上がっていた。
リオは、動かなかった。仔狐を見下ろしもしない。拾いもしない。ただの置物のまま、静かに一歩だけ横にずれて、仔狐と皿の間の道を空けた。
毛玉は起き上がり、何事もなかったように皿に頭を突っ込んだ。
母狐は、長いことこちらを見ていた。
それから――リオが通い始めてから初めて、自分も皿まで歩いてきて、仔の隣で、鶏肉を口にした。
水だけは、数日前から飲むようになっていた。だが、餌を口にしたのは、これが初めてである。餌を食べる間、獣は一番無防備になる。その無防備を、この人間の前でなら晒してもいい――そういう判定が、たった今、下りたのだ。
食べながら、一度だけ、こちらを見た。
威嚇の目では、もう、なかった。
「……明日、出発できます」
リオは、獣舎の入口で待つミラに言った。
「檻は使いません。荷台に、木の巣箱を積みます。杉板で、入口は母狐の肩幅ぎりぎり、中は親子三匹で丸くなれる広さ。底に乾いた藁を厚めに。……夕方までに作るので」
「いいわね。なら、荷台の揺れ止めはこっちで組むわ。巣箱が揺れたら台無しだもの」
話の早い獣医である。
狭い入口と暗い中身は、狐の巣穴の作法である。広くて明るい檻は人間の安心で、狭くて暗い箱は狐の安心だ。
「あとは、入るかどうか。……あの子たちが、自分で決めます」
◇
翌朝、巣箱は檻の中に置かれた。
最初に動いたのは、やはり大きい方だった。入口に頭を突っ込み、中を検分し、するりと消える。すぐに小さい方が続いた。
母狐は、箱と、檻の外のリオを、長いこと交互に見ていた。
――今なら、いいだろう。
体力の戻った今のこの子になら、短い触れ糸は毒にならない。リオは糸を細く撚り、一瞬だけ、触れさせて、たった一言だけを渡した。
――霧の谷へ、帰ります。あなたたちの、家へ。
銀色の尻尾が、ゆっくりと、一度だけ振れた。
それから母狐は、静かに立ち上がり、仔らの消えた狭い入口に、身を滑り込ませた。
銀色の尻尾の先が、藁の中に消える。
「――出発です」
巣箱はそのまま、藁を敷いた荷台に載せられた。御者台にはミラ、荷台の隅にリオ。北の霧谷まで、片道三日の旅である。
憲兵団の敷地を出る時、あの若い憲兵が、直立して見送った。
「ご無事で! その、狐たちも……世話係どのも!」
世話係どの、という呼ばれ方は、初めてだった。
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