第18話 開かずの蔵(後編)
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第18話の後編です。
「整理するぞ」
夜の職人街、封鎖された解体現場の中でリッツが指を三本立てた。
「錠は解ける。読みは終わった。だが、結界が生きてる限り、錠には触れられねえ。結界を力ずくで消せば、錠が死ぬ。……つまりだ」
「歌に、止まってもらうしかない」
「そういうことだ。歌が止まりゃ、結界は緩む。緩んだ編み目なら、俺が壊さずに畳める。……頼めるか、通訳」
リオは頷いて、蔵の北側あの笛の穴の前に立った。
糸を細く撚って、穴からそっと中へ。
闇の中の一点に触れる。
――こんばんは。少し、話をさせてください。
歌は続いている。触れた糸の向こうから、警戒がひとつ揺れて返ってきた。けれど拒みはしない。百年ぶりの客を、闇の中の何かは静かに窺っている。
――どうして、歌い続けているんですか。
返ってきたのは、言葉ではない。温度と、記憶の断片だった。
大きな、しわだらけの手。作業台の灯り。鑢の音。その手の主が、闇の中の自分に向かって笑いながら言うのだ。
――儂が戻るまで、守りの歌を頼む。
それから、戸の閉まる音。
それきり、百年。
「…………」
リオは目を開けた。
約束だ。守りの歌を頼む、と言われた。だから歌っている。百年、戸の外に主の足音を待ちながら。
そして糸の奥の一番深いところの温度が、リオに教えていた。
――この子は、たぶん、気づいている。
百年は長すぎる。足音はもう二度と来ない。それを闇の中の小さな心は、とっくに知っている。知っていて、歌をやめられないのだ。
歌っている間だけは、まだ「約束の途中」でいられるから。
歌が終われば、待つことも終わってしまうから。
リオは糸の向こうへ静かに渡した。
――あなたの主は、百年前に、亡くなっています。
嘘はつかない。この子の百年に対して、それだけは礼儀だと思った。
歌が初めて掠れた。
――知っています、と。震える温度が、返ってきた。
――でも、約束が。歌を、頼まれたから。
「……うん」
リオは声に出して頷いた。それから、一番短い本当のことを渡した。
――終わらせに来たんじゃ、ないんです。
――あの人がこの蔵に残したものを、届けに来た人がいます。あの人と同じ、錠前師です。あの人の錠を、百年で初めて解いた人です。
――だから、扉を開けさせてもらえませんか。あの人があなたに何を遺したのか、一緒に、見ましょう。
長い、長い沈黙があった。
夜風が職人街を渡り、リッツの札が懐で微かに光り、野次馬の絶えた通りで蔵だけが歌っていた。
そして。
歌が――止まった。
百年ぶりの静寂は、耳が痛いほど深かった。
「……結界が、緩んだ」
リッツが静かに言った。
「編み目を畳む。十数える間、そのまま頼むぜ、歌い手さんよ」
◇
そこからのリッツは、別人だった。
軽口が消えた。
札を三枚扉の縁に貼り、指先で編み目をなぞって、結界を端から丁寧に畳んでいく。破るのではない。編んだ手順を逆にたどってほどいていくのだ。百年前の職人の手つきを、指先で再現しながら。
「……よし。結界、畳んだ。ここからは錠だ」
リッツは工具袋を開き、細い金の棒を数本口に咥えた。
「一段目。親切ヅラした罠だ。見えてる鍵形は嘘。嘘の裏の裏が本手……っと」
かち、と小さな音。
「二段目が本番だ。こいつは、リズムの錠でな」
「リズムの……?」
「一定のリズムで回し続けねえと、途中で戻る仕掛けだ。速くても遅くても駄目。振り子のリズムだよ。……うちの店の時計が、全部同じリズムで振れてたろ。あれはな、この商売の稽古なのさ。体に、狂わねえリズムを飼っとくんだ」
リッツの手が、動き出した。
一定の、完全に一定のリズムで、金の棒が回る。汗が顎を伝っても、リズムは揺れない。かち、かちかち、と錠の中で歯が進む音だけが夜に響く。
そして三段目。
「……嘘の矢印、貰ったぜ、爺さん」
リッツは彫りの矢印にひとつ笑いかけ、矢印と反対の側へ最後の一手を差し込んだ。
ごとり、と。
百年ぶんの重さの音がして、黒鉄の扉の錠が――落ちた。
「――開くぜ」
リッツの声は、少しだけ掠れていた。
◇
扉は、油の切れた低い唸りを上げてゆっくりと開いた。
ランタンを掲げて二人で中へ入る。
蔵の中は工房だった。
作業台がひとつ。壁の道具掛けには、鑢と鏨と細工鋏が油紙に包まれて整然と並んでいる。埃はあるが乱れがない。仕事場を綺麗に畳んで出ていった職人の、几帳面な背中が見えるようだった。
「……灯り、少し絞ってもらえますか」
リオは小声で言った。蔵の隅の闇が、灯りに触れるたび怯えるように縮んでいたからだ。
リッツがランタンを絞ると、闇の隅で何かがほっと緩む気配がした。
そして作業台の上に。
蝋で封をした手紙が一通と、布を掛けた何かが置かれていた。
手紙の表書きは、こうだった。
『この錠を解いた御仁へ』
リッツは手紙を取り、封を検め静かに開いた。読み上げる声は、途中から少しゆっくりになった。
「『――まずは、見事。儂の生涯最後の錠を破ったその腕前に、同業として敬意を表する。さて、厚かましい頼みがひとつある。この蔵には、儂の相棒がいる。名は、リラ。闇に棲み、歌しか持たぬ、心根の優しい生き物だ。行き倒れの儂を、歌で夜通し慰めた縁で、うちの結界の歌い手になってくれた。……儂が死ねば、この子は独りになる。人に慣れず、光が苦手で、歌しか渡せるものがない。だが、案ずるな。この錠を解けるほどの腕と根気、そして歌の主に気づいてやれる心根の持ち主ならば――この子を任せるに足る。どうか、良い聞き手になってやってくれ。蔵の道具と遺作は、全て御仁のものだ。ただし、相棒だけは物ではない。 錠前師ギデオン』」
読み終えて、リッツは長いこと手紙を見下ろしていた。
「……この蔵、宝物庫じゃねえ」
声が低かった。
「百年がかりの、里親探しだ。錠が審査で、遺言が出題だ。……この錠を解けねえ奴には、相棒を渡さねえ、ってな」
蔵の隅の闇が、じっとこちらを見ていた。
リラ。
百年歌い続けた歌い手の、名前だった。
◇
布の下から現れたのは、小さな灯りの匣だった。
手のひらに載るほどの、硝子と黒鉄の細工物。中に小さな灯りを点すと、硝子の細工が光を柔らかく散らして、匣の内側だけに心地よい薄闇を作る仕掛けになっていた。
「……闇の子のための、持ち運べる夜だ」
リッツが唸るように言った。
そして匣の底には、ゼンマイの機構が仕込まれていた。
リッツが検分し、そっとゼンマイを巻く。
こり、こり、と歯車が回り――旋律が流れ出した。
素朴な、少し訥々としたオルゴールの旋律だった。どこか物足りない、隙間の多い曲。単体で聴けば、未完成にすら聞こえる。
その隙間に。
闇の中から、歌が重なった。
リラの歌が、オルゴールの旋律の隙間という隙間をぴたりぴたりと埋めていく。二つで、一つの曲だった。最初から、そう作られていたのだ。ゼンマイの旋律は伴奏で、主旋律は――百年前から、この子の声だった。
蔵の中に百年ぶりの合奏が満ちた。
大きなしわだらけの手が作業台でこの機構を刻みながら、闇の相棒と合わせ稽古をしている光景が見えるようだった。
歌は悲しい歌ではなくなっていた。
リオの糸に触れる温度が、ゆっくりと、ゆっくりと、あたたかい方へ動いていく。
曲が終わる頃、蔵の隅の闇から小さな影が、初めて自分から姿を見せた。
薄絹を透かしたような、輪郭の淡い小さな小さなシルエット。それは作業台の上まで滑るように動いて、灯りの匣の縁にちょこんととまった。
百年ぶりの、家だった。
◇
後始末は財団が引き受けた。
蔵と錠と道具一式は、建物ごと財団の保護に入る。ギデオンの技術遺産として、いずれしかるべき形で世に残すという。
そして、遺言の指定通り――灯りの匣とその住人の行き先は、錠を解いた男に委ねられた。
リッツは作業台の前にしゃがみ、匣の縁の小さな影と目の高さを合わせた。
「なあ、リラ。あんたの主の結界、俺は畳みながら、編み方を全部この指で覚えた。……大した編み方だった。歌で編む結界なんて、俺は初めて見た」
一拍置いて彼は言った。
「――あんたの歌で、俺の結界を編ませてくれねえか。あの爺さんが、あんたとやってたみたいによ」
影はリオの方を見た。
糸の向こうから、問いがひとつ届いた。
――このひとは、いいひと?
リオはそのまま伝えた。
「『このひとは、いいひとですか』って。……俺に、聞いてます」
「おう、正直に答えてやんな」
「……いい人です。子供に錠前のパズルを配って歩くような人です」
「褒めてんのか、それは」
影がふると揺れた。糸の向こうの温度が、笑ったように弾んだ。
――合格、だそうです。
その夜、職人街の幽霊屋敷から百年続いた歌が消えた。
代わりに、しばらく経った頃から、錠前と時計の工房の奥で夜ごと小さな歌が聞こえる、という新しい噂が流れ始めた。
曰く、あの店の時計は歌うらしい。
曰く、あの店の親方が編む結界は近ごろ破れる気がしないらしい。
◇
――同じ頃、王都のどこか。
灯りを絞った部屋で、大柄な男が頭を掻いていた。
「面目ねえ。噂の蔵、財団が丸ごと押さえちまった。錠に触ることもできませんでしたわ」
「そうですか」
応じる声はどこまでも柔らかい。
「ギデオンの錠。……惜しいですね。ですが、警備の固いものを無理に押すのは、私たちの流儀ではありません。開いている扉から入りましょう。……次を、探します」
その「次」が何なのかを知る者は、まだどこにもいない。
◇
数日後、リオが工房を覗くと、店の中は相変わらず揃った振り子の音で満ちていた。
その拍の隙間に、ごく小さな歌が機嫌よく混ざっている。
帳場のリッツは新しい結界札を編みながら、鼻歌でそれに応えていた。
「おう、来たか。見ろよ、この編み目。歌入りだ。我ながら、良い仕事してんぜ」
錠前師の指の上で、淡い光の糸が歌に合わせて編まれていく。
百年前の技が、百年ぶりの相棒ごと、次の職人に引き継がれた瞬間だった。
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