第18話 開かずの蔵(前編)
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王都の東、金物と革と木工の工房が肩を寄せ合う職人街の外れに、昔から「幽霊屋敷」と呼ばれる空き家があった。
夜ごと、どこからともなく、歌が聞こえるからである。
言葉のない、細い細い歌だ。子守唄だと言う者、弔いの歌だと言う者、ただ悲しい、とだけ言う者。一つだけ揃っていたのは「聞くと、なぜか胸の奥が締まる」という感想である。持ち主は何代も居着かず、家は空き家のまま古びて、子供らの肝試しの名所になっていた。
その幽霊屋敷が、とうとう取り壊されることになった。
そして解体の途中、壁を剥がした大工が、悲鳴を上げた。
壁の裏から、蔵が出てきたのである。
家の中に、もう一つの建物が丸ごと隠されていた。黒ずんだ石積みに、鈍く光る黒鉄の大扉。土地の帳面のどこにも、そんな蔵は載っていない。
――そして、歌は。
誰の耳にも分かるほどはっきりと、その蔵の中から聞こえていた。
百年の幽霊屋敷の正体は、壁の裏に眠る、歌う蔵だった。工事は止まり、職人街の酒場は、その話で持ち切りになった。
噂が王都を一周する前に、灰色の封筒が、リオの机に届いた。
『歌う蔵の件。今夜、事務所』
◇
夜の事務所で、彫りの深い顔の帳の主は、白紙の司書の資料を読み上げた。
「まず、蔵の素性からだ。扉の錠の下に、小さな刻印がある。歯車を咥えた鍵の紋。白紙が古い組合の名鑑と照合した。……錠前師ギデオン。百年前の職人だ。あの幽霊屋敷の建った年代とも合う」
「ギデオン……聞いたことは、ないです」
「錠前の世界じゃ、神様の名前だ。現存する『ギデオンの錠』は王城の宝物庫に一基、大聖堂の聖遺物庫に一基、あとは数えるほど。どれも百年間、破られたことがねえ。国宝扱いだ」
グラントは資料を机に置いた。
「その神様の、誰も知らなかった私物の蔵だ。中身の見当もつかん。ただの空き蔵かもしれんし、国が傾くお宝かもしれん。……で、依頼の筋は、うちの上だ。ヴェイル財団。窓口の元締めから直々の『調査と保護。中身がなんであれ、しかるべき形に収めること』。妙な連中に嗅ぎつけられる前に、な」
「財団は、そんなにこの蔵が大事なんですか」
「ギデオンの遺物なら、金に糸目はつけん。ああいう職人の仕事ってのはな、技術ごと保護してやらねえと、百年で世界から消えちまう。財団は、そういうものの守り役を自任してるのさ。……それに、噂ってのは、ろくでもねえ連中の耳にも入る。先に押さえるに越したことはねえ」
「歌の方は」
「それが分からんから、お前が行く。……無人のはずの蔵の中で、百年後に歌ってる何か、だ。祟りや亡霊の類なら神殿の領分だがな、百年、律儀に毎晩歌い続ける亡霊なんて話は聞いたこともねえ。十中八九、生き物だ。なら、お前の仕事だろ」
「もう一つの、錠と結界の方は」
聞くと、グラントは珍しく、にやりと笑った。
「決まってるだろう。――開かずの扉は、七番の領分だ」
◇
翌日の昼、リオは指定された工房を訪ねた。
職人街の外れの、錠前と時計の店である。軒先の看板には鍵の意匠。店の中は、壁一面の鍵と、数え切れない時計の振り子の音で満ちていた。
戸を開けると、帳場で店番をしていた若い弟子が顔を上げた。
「いらっしゃい。……ああ、窓口の方ですね。伺ってます。待っててください、親方を呼んできますんで」
弟子が奥へ引っ込むのを待つ間、リオは店を見回した。
不思議な店だった。壁の時計は大小何十とあるのに、振り子の音が一つに聞こえる。全部の拍が、完全に揃えてあるのだ。
そして壁の鍵の一本一本に、小さな古い名札が付いていた。あれはたぶん、売り物ではない。この店の主が今までに「開けてきた」錠の、鍵の墓標だ。
「おう、来たな。……大きくなったなあ、おい」
奥から出てきたのは、三十絡みの男だった。
細い作業眼鏡を額に上げ、腰の帯には大小の鍵束と、紙の札の束をじゃらりと提げている。指は細く、節が高く、話している間も、手の中で小さな錠前をもてあそぶように回し続けていた。
リッツ・カーヴァン。表の顔は錠前と時計の工房主。裏では、十三番窓口の七番である。
この人も、子供の頃から知っている顔だ。事務所で会うたび、手慰みの錠前パズルをくれた人である。ただ、ここ二年ほどは王都の外の大仕事――どこかの神殿の結界の編み直しとやらで、留守が続いていた。
「二年ぶりですから。……お帰りなさい。神殿の仕事、終わったんですか」
「先月な。帰ってきたら早々にこれだ。……そういやお前、昔やった三段のパズル錠、まだ持ってるか」
「持ってます。三日かかったやつ」
「あれを三日で開けたガキは、後にも先にもお前だけだ」
リッツはにやりと笑い、それから、ふと思い出したように付け足した。
「ああ、それとラウルの旦那から聞いたぜ。丘の仕事、良い通訳をやったってな」
「……どうも。あの、それ」
リオは、彼の手の中でくるくる回る錠前を指した。
「ん? ああ、こいつは道具じゃない。癖だ。指が暇だと、機嫌が悪くなるんでな」
指の機嫌で錠前を回す人である。
「で、ギデオンの蔵だ」
リッツは錠前を帯に仕舞い、額の眼鏡を降ろした。その目が、急に職人のものになった。
「先に言っとく。俺は今日まで、ギデオンの錠を三基、間近で見てる。王城の一基は、保守も任されてる。……それでも、あの人の錠は、開けられる気がしねえ」
「開けられない守りはない、って人だと聞きましたけど」
「よく知ってんな。ああ、俺の持論だ。守りってのは人が編むもんで、人が編んだもんは、編んだ人間の気持ちを読めば必ず解ける。……だいたいな、守りと破りってのは、元から破りの側が有利にできてる。守る側は穴を全部塞がなきゃならんが、破る側は、穴を一つ見つけりゃ勝ちだ。だから世の中の錠は、いつか必ず破られる」
「じゃあ、百年破られてないギデオンの錠は」
「化け物なのさ。……ギデオンの錠が開けられねえってのは、腕の話じゃねえ」
リッツは、店の壁の鍵の海を、ぐるりと見た。
「畏れ多くて、開けたくねえのさ。……ま、それも今日までの話だ。仕事とあれば、開けるがね」
蔵までの道すがら、リッツはギデオンの逸話を一つ、聞かせてくれた。
「王城の宝物庫の錠を納めた時な、時の王様が戯れに命じたそうだ。『破れぬ証に、鍵を使わず、お前自身で破ってみせよ』と。ギデオンの爺さん、自分の錠を三日三晩眺めてな、四日目の朝に一言、『無理ですな』と言って帰ったとよ」
「……自分で作ったのに、ですか」
「自分で作ったから、さ。断っとくが、正規の鍵で回しゃ、ちゃんと開く錠だぜ。開かなきゃただの鉄の塊だからな。爺さんが無理だと言ったのは、鍵なしで破る方の話よ。抜け道を全部知ってる男が、その全部を塞いだ錠だ。世界で一番あの錠に詳しい男が破れねえんだから、そりゃ百年破られねえ」
リッツの声には、呆れと、憧れが、半分ずつ入っていた。
◇
夕方の職人街は、遠巻きの野次馬でざわついていた。
剥がされた壁の奥に、その蔵はあった。
黒ずんだ石積みは隙間なく、大扉は一枚板の黒鉄。扉の中央に、拳ほどの錠前が一つ、鈍く光っている。装飾はない。ただ、造りの良さだけが、静かに匂い立つような錠だった。
「……ほう」
リッツが、扉の前に立った。
それきり、動かない。眼鏡の奥の目だけが、錠の面を、彫りを、鍵穴の闇を、ゆっくりと舐めるように動いていく。
四半刻も経った頃、彼はようやく口を開いた。
「――几帳面な人だ」
「分かるんですか」
「彫りの深さが、全部の面で揃ってる。狂いが、髪の毛一本もねえ。それとこの人、たぶん皮肉屋だな」
「錠前で、そこまで」
「鍵穴を見な。正面から覗くと、鍵の形が見えるように作ってある。『鍵の形はこれだ、さあ作ってみろ』ってな。……で、その通りの鍵を作って差すと、たぶん中で仕掛けが噛む。親切ヅラした罠だ。性格悪いね、最高だ」
リッツは、心底楽しそうに笑った。
守りは、編んだ人間の気持ちで読む。彼の持論の実演が、始まっていた。
それから彼は、錠の下側の彫りを撫でて、ふ、と噴き出した。
「……おい、見ろよこれ。三段目の仕掛けの入り口、彫りで矢印が入ってる。『こっちだ』ってな。もちろん嘘の矢印だ。……これな、防犯じゃねえんだ。ここまで解いてきた奴を、笑わせる気で入れてる。百年先の同業への、悪戯だよ」
会ったこともない百年前の職人と、目の前の錠前師が、錠を挟んで笑い合っている。
妙な光景だった。妙で、少し、うらやましい光景だった。
「錠は三段仕掛け。んで、問題は錠じゃねえ」
彼は懐から紙の札を一枚出し、扉にかざした。札の縁が、ぼう、と淡く光る。
「――結界だ。それも、生きてる」
「生きてる?」
「結界ってのはな、編んだ術者が死ねば、緩む。魔力の供給が切れるからだ。百年前の職人の結界なら、とっくに腐って穴だらけのはずなんだよ。……ところがこいつは、今この瞬間も、ぴんと張ってる。誰かが、どこかから、魔力を注ぎ続けてやがる」
リッツは札を仕舞い、蔵を見上げた。
「注ぎ手の正体は知らんが、大したもんだ。この結界がある限り、錠に触ることもできねえ」
「結界だけなら、白紙さんに消してもらうことも……」
「おっと、それは駄目だ。一番やっちゃいけねえやつだ」
リッツは、錠の縁の細い溝を指した。
「見ろ、結界の編み目が、錠の中まで通ってる。結界と錠が、連動して組んであるんだ。結界だけ力ずくで消してみろ。錠が『守りが破られた』と検知して、中の仕掛けが全部噛み合って死ぬ。そうなったら最後、ギデオン本人が生き返っても開かねえ。……守りを二層にするだけじゃなく、二層を絡めてある。ここまでやるか、普通」
感心と戦慄が、半分ずつの声だった。
「……さて、どうしたもんかね」
その時だった。
日が落ちて、職人街に夕闇が満ちた、その拍子に。
――歌が、始まった。
細い、細い、言葉のない歌だった。蔵の石積みの内側から、糸のように立ちのぼって、夕闇に溶けていく。野次馬がざわめき、何人かが後ずさった。
リッツの札が、懐の中で淡く光った。
「……おい、見ろ。歌に合わせて、結界の張りが強くなってる。こいつが注ぎ手だ。歌が、結界を編み続けてる」
「歌が……」
リオは、蔵の扉の前に立って、歌に耳を澄ませた。
考える。
歌う魔物は、数は少ないが、いる。真っ先に浮かぶのは人魚型――だが、あれは水の生き物だ。水のない蔵の中で、百年は生きられない。鳥型の歌い手なら、餌も水もない石の箱の中では、ひと月と保たない。
つまり、体のある歌い手は、全部消える。
なのに、歌は生きている。百年、続いている。
――体のない、歌い手。
「リッツさん。この結界、歌は素通しで外に聞こえてますよね」
「あん? ……ああ、言われてみりゃ確かにな」
「なら、音の通り道が、どこかに編んであるはずです。歌を外へ出すための道が」
「……なるほど、そういう読みか」
リッツは札を出し、蔵の周りをゆっくり一周して、石積みの北側の一点で足を止めた。
「あった。編み目が一カ所だけ、笛の穴みてえに開けてある。狙って作った抜け道だ。……あんた、良い勘してんな」
歌のための穴なら、糸も通る。
リオは目を閉じて、細く撚った糸を、その一点から、そっと中へ。
糸の先に、体は、なかった。
毛皮も、鱗も、羽もない。温度のある体が、どこにもない。
代わりに――蔵の一番暗い隅の、闇の中に、ぽつんと一点、灯りのような「何か」がいた。
糸が、その一点に、ふ、と触れる。
流れ込んできたのは、百年ぶんの、静かな静かな待ちぼうけの温度と――途切れることのない、歌だった。
触れた瞬間、歌が、ほんの一拍だけ揺れた。
気づかれた。
けれど、歌は逃げもせず、止まりもせず、また同じ調子で続いていく。まるで、止まり方を忘れてしまったように。あるいは――止めてはいけない約束が、あるように。
「……いました」
リオは目を開けて、リッツに言った。
「生き物です。体はないけど、いる。闇の中に。……たぶん、百年前からずっと、あそこで歌ってます」
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