幕間 熊(就寝中)の搬出
お読みいただきありがとうございます。
とある酒蔵の一夜を、蔵で働く者の目から。
本編のどこかで一行だけ触れられた、あの依頼のお話です。
わしはこの酒蔵の蔵人頭を、かれこれ三十年やっとる。
旦那様は王都でも指折りの酒好きの侯爵様で、この蔵には五十年物の樽がずらりと眠っとる。一番奥の樽なんぞ、旦那様が生まれた年の仕込みだ。値段の話はやめておこう。わしの給金では、桁を数える気にもならん。
樽の並びは温度で決めとる。風の道は戸の開け方で作っとる。蔵というのはな、ただの倉庫じゃない。五十年かけて育てた、でかい生き物みたいなもんだ。
その自慢の蔵で、あの夜、夜番の若いのが悲鳴を上げた。
「か、頭ぁ!! く、く、熊!!」
「あぁ?」
「熊がっ! 樽の間で! 寝てます!!」
寝ぼけとるのはお前だろうと言いに行って、わしは提灯を取り落としかけた。
おった。
樽と樽の谷間の、一番風のない場所に、小山のような黒い毛の塊が、丸くなって、すうすうと寝息を立てておった。
大熊型の魔物だ。それも、でかい。立てば蔵の梁に頭が届くやつだ。
しかも、良い寝顔をしとった。五十年ぶんの酒の香を吸い込んで、この世で一番の寝床を見つけた、という顔だ。腹の立つことに、鼻まで良いらしい。
どこから入ったかは、すぐ分かった。裏の搬入口の戸が、留め金ごと押し開けられとった。冬眠の場所を探して山から降りて、うちの蔵を選んだのだ。
……気持ちは、分からんでもない。暗くて、静かで、床には五十年ぶんの酒の香が染みとる。わしが熊でも、ここで寝る。
だが、困る。大いに困る。
「や、槍だ! 衛兵を呼んで――」
「馬鹿もん!」
わしは若いのの頭をはたいた。
「この樽の谷間で、あのでかいのが暴れてみろ! 樽が三つ割れりゃ、うちの蔵の五十年が終わるんだぞ! 冬眠しかけの大熊なんぞ、突かれて起きたら手がつけられん。死人が出るわ!」
「じゃ、じゃあどうすんです!」
「どうするったって……」
起こせば、割れる。割れれば、終わる。放っておけば、春までうちの蔵は熊の寝床だ。
夜のうちに旦那様に報せると、旦那様は存外落ち着いて、一筆書いてよこされた。
「十三番窓口に頼む。朝までに、人が来る。……高くつくがな、あそこの仕事は確かだ」
「じゅうさんばん、まどぐち……?」
聞いたこともない屋号だった。金物屋か、口入れ屋か。
熊の搬出を請ける商売とは、いったい何なのだ。
◇
夜明け前に来たのは、覆面の若いのが、一人だった。
一人だ。
荷車を一台引いて、口元を布で覆って、目だけ出しとる。その目が、また眠そうときた。細っこい体で、得物のひとつも提げとらん。
顔を隠すのは、あの稼業の作法らしい。考えてみりゃ、道理ではある。よその家の恥や困りごとを片付ける商売だ。こちらの秘密を預かる側が、自分の顔も名前も差し出さん。……お互い様、というやつだ。
「……坊主。使いなら、本職の親方はどこだ」
「俺です」
「……冗談を言うツラでもなさそうだな」
正直、舐められたと思った。うちの五十年を、こんな若いのに任せろと。
だが、若いのは蔵に一歩入って、立ち止まって、ゆっくり見回して、こう言った。
「――いい蔵ですね」
「……あぁ?」
「暗さと、静けさと、床の匂い。風の通らない樽の谷間は、岩穴より上等だ。……あの熊、いい場所を選んでます。起こさず出すには、それより良い寝床だと、体に思わせるしかない」
わしは、少しだけ黙った。
この蔵の良さを、来て十歩で言い当てた者は、五十……いや三十年で、初めてだった。
それから若いのは、寝息の拍を数えるように、しばらく熊を眺めた。
「……入ったのは、昨夜ですね。眠りがまだ浅い。冬眠の本番に入る前で、良かった。深くなってからだと、春まで誰にも動かせません」
寝息を見ただけで、そこまで分かるものか。
「で、どうする気だ。まさか、担ぐとは言うまいな」
「歩いてもらいます」
「……寝とるんだぞ」
「寝たままで」
若いのは荷車から、小さな鍋と、蜂蜜の壷を降ろした。
◇
それからの仕事を、わしは生涯忘れんだろう。
まず若いのは、蔵の床を眺めて回った。樽の配置と、通路の幅と、床の傾きを、指でなぞるように確かめて、それから静かに言った。
「この列の樽、三つだけ、あちらへ。音を立てずに動かせますか」
「誰に言うとる。蔵人の樽転がしは、猫の足音より静かだ」
「助かります」
わしらが樽を寄せると、蔵の入口から搬入口まで、大熊が体を擦らずに曲がれる幅の道が、一本通った。
次に、蜂蜜だ。若いのは鍋で蜂蜜を人肌に温め、匙の先で、床に点々と、印を打つように垂らしていった。熊の鼻の高さを計ったように、道の要所要所へ。
「……匂いの道か」
「はい。起きた鼻が、考える前に選ぶ道です」
そして最後に、若いのは寝ている大熊のそばへ、すたすたと歩いて行った。
わしらは息を呑んだ。あの間合いは、腕自慢の猟師でも避ける間合いだ。
若いのは怖がりもせず、熊の頭のそばに、静かにしゃがんだ。
そして――何もせなんだ。
いや、何かをしとったのかもしれん。だがわしらの目には、ただしゃがんで、じっとしとるようにしか見えなんだった。時間にして、茶が一杯冷める程度。
ただ、一つだけ妙なことがあった。
寝とる熊の耳が、途中で一度、ぴくりと動いて、若いのの方へ傾いたのだ。
まるで、寝ながら、話を聞いとるように。
やがて、小山が、揺れた。
「っ……!」
全員が壁に張り付いた。
大熊は、のそりと頭を上げた。目は、まだ九割がた閉じとる。ふんふん、と鼻が鳴って、床の蜂蜜の匂いを拾った。
そして――歩き出した。
寝ぼけたまま、ぽてり、ぽてりと。蜂蜜の印を鼻で辿って、わしらの開けた一本道を、樽のひとつにも触れずに。
蔵の中の誰も、息をしとらんかった。
大熊は搬入口を抜け、外に待たせた荷車の、厚く敷いた藁の上に乗ると、そこでまた、丸くなった。二度寝である。
若いのが荷車の縁を軽く叩くと、車がわずかに軋んで、それきり、蔵には元の静けさが戻った。
「……郊外の岩穴まで運びます。冬眠の続きに、ちょうどいい穴があるので」
「お、おう……」
「戸の留め金、太いのに替えておいた方がいいです。あの子、場所は覚えてるので」
「お、おう……」
わしはそれしか言えなんだ。
樽は、一つも割れなんだ。ひびの一本も入らなんだ。
荷車を引いて行く背中に、わしはようやく声を絞り出した。
「に、兄さん! 名前は! 礼くらい言わせろ!」
覆面の若いのは、少しだけ振り向いて、眠そうな目で言った。
「――ただの、配送屋です」
熊の配送があるか。
◇
後日、旦那様のところに請求書が届いて、その話が帳場から蔵まで降りてきた。
金額は、樽一つの値にも届かん安さだったそうだ。五十年の蔵をまるごと守って、その値付けである。商売っ気があるんだか、ないんだか。
だが旦那様が膝を打ったのは、金額ではなく、品目の欄だという。几帳面な字で、こうあったそうだ。
『熊(就寝中)の搬出 一件』
就寝中、である。
起こさずに済ませました、という仕事の一部始終が、その四文字に全部入っとる。律儀というか、何というか。
旦那様は請求書の写しを蔵に下げ渡して、こう仰った。
「守り札の代わりだ。柱にでも貼っておけ」
というわけで今、うちの蔵の柱には「熊(就寝中)」の紙が貼ってある。
夜番の若いのは、あれを見るたびに笑う。わしはあれを見るたびに、ちっとだけ背筋が伸びる。
仕事というのは、ああやるもんだ。
その夜、蔵人一同でささやかな祝杯を上げた。夜番の若いのが覆面の兄さんの真似をして「歩いてもらいます」とやるたび、蔵が笑いで揺れた。
あの覆面の若いのが何者なのかは、とうとう分からずじまいだ。旦那様も伝手の先は明かされん。ただ、近ごろの王都では、ああいう妙な腕の連中の噂を、ちらほら聞く。困り果てた者のところに、どこからともなく来て、静かに片付けて、静かに帰るのだと。
まあ、何者でもいい。
うちの五十年は、守られた。
わしはあの夜から、晩酌のたびに、西の山の方へ杯を少しだけ上げることにしとる。
あの熊と、あの眠そうな目の兄さんに。
……どっちも、良い寝床で眠っとるといい。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
次回から本編を再開します。
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