第17話 最後の丘 〜老獣騎兵の最後の依頼〜(後編)
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第17話の後編です。
望みの丘は遠くになかった。
「この丘ですよ」
マーゴは家の裏手の斜面を杖で指した。
「若い頃、二人で毎朝駆け上がった丘です。軍を退いてから、麓に家を建てましてね。……どうせ余生を過ごすなら、思い出の見える場所がいいってんで」
家の裏から頂まで、緩い草の斜面が続いている。健脚なら四半刻の登りだ。
だが、今のブランには庭の柵までの数歩すら覚束ない。
「準備は、日暮れ前に」
ラウルは西の空を見て静かに言った。
「あの子の望みの丘は、夕陽の丘だ。……刻限には、間に合わせる」
◇
昼過ぎ、王都から荷馬車が一台丘の麓に着いた。
降りてきたのは、継ぎの当たった作業着のミラである。リオが昨夜のうちに文で呼んでおいたのだ。
ミラはブランを一通り診て、それからマーゴの正面に立った。
「獣医として、はっきり言っておくわね。走れば、心臓が保たない可能性が高い。走り切って、そのまま逝くかもしれない。……それでも、やる?」
「先生や」
マーゴは皺だらけの顔で笑った。
「歩けなくなって、寝たきりになって、ひと月長く生きるのと。夕陽の丘をひとっ走りして、その晩に行っちまうのと。……あんたが軍馬なら、どっちを取るね」
「…………聞いた私が馬鹿だったわ」
ミラは肩をすくめ、往診鞄を置いた。
「止めないわよ。寿命の使い道は、本人が決めていいの。私は、痛みだけ診てる」
それから、支度が始まった。
厩から、あの祀られていた鞍が降ろされた。
五十年ものの軍用鞍である。マーゴの手は、迷わなかった。革帯の順も、締め具合も、金具の向きも、手が全部覚えている。老いた騎兵は、鼻歌まじりに生涯最後の鞍を置いた。
その支度の途中だった。
丘の中腹の茂みが、がさりと揺れた。
野犬の群れである。六頭。郊外の丘に住み着いた群れが、老いて弱った大物の匂いを嗅ぎつけて来たのだ。
リオが立ち上がるより、早かった。
ラウルが、楽器箱の蓋を開けてもいない弦を指の腹で一度だけ弾いた。
――ん、と。
低い音が一つ、丘の斜面を渡った。
それだけだった。
六頭の野犬は走り寄る形のまま、まるで見えない手に首筋を押さえられたように順々にその場へ伏せた。牙は仕舞われ、耳は倒れ、六対の目から敵意だけが綺麗に抜け落ちている。
群れはしばらく伏せたまま瞬きをして、それから来た時の倍ほど大人しく茂みへ帰っていった。
リオは動けないままそれを見ていた。
今の一音は六頭の「拍」を同時に握った。
呼吸と、心臓と、敵意の立ち上がりの拍を、音の側から丸ごと押さえたのだ。ガルドが体でやることを、この人は音でやる。それも群れ全部まとめて。
立ったままの葬式、というグラントの言葉が初めて実感を伴った。
「……騒がせた」
ラウルは何事もなかったように、弦の調律に戻った。
◇
日が西に傾いた。
丘の草が金色に燃え始める刻限、ブランは柵の外に横たわり、その傍らにマーゴが立った。鞍は載っている。
ラウルは二人から少し離れた斜面に、椅子も譜面台もなく、ただ立った。
飴色の六弦を構え、弓を静かに乗せる。
「……始める前に、一つだけ」
葬送楽士はマーゴに向かって一拍の間を置いた。
「これから弾くのは、送りの曲ではない。あの子の体に、一番良かった日の走りを、思い出させる曲だ。……効いている間だけ、あの子の体は、あの日に戻る。長くは、保たせられない」
「充分ですよ」
「では――良い、夕暮れを」
弦の上を楽器の弓が動いた。
最初の音は、地の底から湧くような低音だった。
丘の草が音に撫でられて一斉に波打つ。空気の色が一段濃くなる。
二音目、三音目。旋律とも呼べないゆっくりとした音の連なりが、夕暮れの丘を満たしていく。
そしてリオは見た。
横たわっていた老馬の耳が、ぴんと立った。
白く濁っていた目に光が点る。霜のように白かった胸の毛並みが、夕陽の逆光の中で若い漆黒に透けて見える。
前足が地を掻いた。
震えもせず、迷いもせず、五十三歳の巨体が――すっくと立ち上がった。
リオは思わず息を呑んだ。
一歩、二歩と柵の外を踏むその足取りから老いの気配が抜けていく。関節の軋みが消え、着地が軽くなり、首が高く上がる。
音が、体に若い日の走り方を思い出させている。
体の記憶は薬より古い。そして音はその記憶の扉を、どこからでも開けるらしい。
「ブラン」
マーゴが呼んだ。
五十年前と同じ調子で、相棒の名を。
漆黒に透ける巨体が、身を低くする。乗れ、の形だった。
老婦人は杖を放り、鐙に足をかけ、驚くほど滑らかに鞍の上の人になった。体が覚えているのは、馬具の扱いだけではなかったらしい。
「――行くよ!」
蹄が地を蹴った。
◇
それからの光景を、リオは生涯忘れないだろうと思った。
金色の斜面を、黒い馬が駆け上がっていく。
蹄が草を蹴るたび、金の穂が舞い、風が割れた。鞍上のマーゴは腰を浮かせた騎兵の姿勢で、五十年ぶんの白髪を風に流している。
音が追いかける。ラウルの旋律は走りに寄り添って速度を増し、蹄の拍と完全に重なって丘全体をひとつの楽器に変えた。
そして、音の満ちた丘の上で風景が透けた。
夕陽が二重に見える。今日の夕陽の奥に、五十年前の夕陽が。伸びた草の奥に、あの日の若草が。駆けていく騎影の上に――軍服の少女と艶やかな黒馬の姿が、薄く、確かに重なっている。
音が丘の記憶を呼んでいるのだ。
誰の目にもそれは見えた。ミラが口元を押さえ、リオは瞬きを忘れた。
丘の頂で、馬は止まった。
夕陽を正面に騎兵と軍馬の影が、燃える空を背負って立つ。
マーゴの笑い声が、風に乗って麓まで届いた。少女の声だった。
重なった幻の中で、軍服の少女がこちらに手を振った――気がした。瞬きの後には、もう夕陽と騎影だけが残っていた。
◇
日が沈んでいく。
頂の草の上に、ブランは静かに横たわった。走り切った体は震えてもいず、荒れてもいず、ただ深く満ちた息をしていた。
傍らに膝をつくマーゴの手が、汗ばんだ首筋をゆっくりと撫でている。
ラウルの旋律が、変わった。
走りの曲が終わり、揺り籠のような深い深い音の連なりが始まる。
送りの曲だった。
リオは最後の役目のために、糸を細く撚った。
一瞬だけ触れる。
――何か、言い残すことは。
返ってきたのは、言葉ではなかった。夕陽の色と、背中の重みと風の匂い。そして、それら全部を包む、静かな静かな――足りた、という温度だった。
「……『足りた』そうです」
リオは聞いたままを伝えた。
「全部、足りたって。……それだけです。他には、もう何も」
「そうかい」
マーゴは相棒の首に額を寄せた。
「そうかい。……あたしもだよ、ブラン」
送りの曲の中で、リオは見た。
老馬と老婦人を繋ぐ、五十年ものの契約の糸。それが切れるのではなく、端からゆっくりとほどけていくのを。ほどけた糸は光の粒になって、夕陽の残照に混ざり、二人の五十年の上に静かに降り積もっていった。
最後の一音が、長く長く丘に響いて消えた。
音が消えた時、ブランはもう息をしていなかった。
夕陽の丘で、走り切って、満ちて、眠るような大往生だった。
ラウルは楽器を静かに降ろすと、六本の弦のうち一番低い一本に指をかけた。
そして、それを外して丁寧に丁寧に巻き取った。
なぜそうするのかは、聞かなかった。聞いてはいけない所作に見えたからだ。
◇
葬儀は三日後、あの丘の頂で行われた。
驚いたのは参列者である。
王都から、白髪の老人たちが十数人続々と丘を登ってきたのだ。皆、古い軍服に袖を通し、胸に古い徽章を付けている。
「国境の獣騎兵隊の、生き残りですよ」
マーゴが、涙より先に笑ってしまったという顔で言った。
「グラントの奴が、方々に報せを回したらしくてね。……まったく、あの子は昔から、借りたものは倍にして返す子だ」
雪の峠で毛布を運ばれた隊の、生き残りたち。
老兵たちは墓標の前に整列し、号令もなしに揃って敬礼をした。五十年前、峠の朝にそうしたのと同じ敬礼だった。
最年長らしい老人が、敬礼を解いてマーゴに言った。
「――隊長。良い葬式であります」
「およし、恥ずかしい。隊長だったのは大昔だよ」
言葉とは裏腹に、マーゴの背筋はその日一番しゃんと伸びていた。
墓標にはこう刻まれている。
『ブラン 国境一の脚、ここに眠る』
帰り際、ミラがマーゴの隣に並んで何気ない調子で言った。
「ねえ、マーゴさん。うちの牧場、行き場のない子が多くてね。世話の手が、いつも足りないのよ。……暇なら、来ない?」
「おやまあ」
老婦人は目を丸くし、それから杖を握り直した。
「……次の子の世話を始めるのは、何歳までが常識かねえ、先生」
「うちに常識を聞かないで」
丘を降りる二人の背中は、もう次の話をしていた。
◇
帰り道、リオはラウルと並んで暮れた街道を歩いた。
「あの……丘で外していた、あの弦は」
「ブランの弦だ」
ラウルは歩調を変えずに答えた。
「送りをひとつ終えるたび、その送りを弾いた弦を一本、外して納める。名前と、日付を付けてな。……次の送りは、新しい弦で弾く」
名前と日付。
歌劇場の地下の、あの壁一面の木箱の棚が目の裏に浮かんだ。
「……あの棚の箱、全部」
「全部だ」
一拍の間だけが、返事の続きだった。
「……契約の終わりって、あんなに静かなんですね」
「満ちて終わる契約は、な」
葬送楽士は一拍の間を置いて続けた。
「君の糸は、結んでは解く糸だと聞いている。……良い糸だ。解き際の綺麗な者は、結び方も綺麗になる」
「だが、糸の長さに関わらず、覚えておきなさい。長く生きれば、いつか必ず、繋いだ相手を見送る日が来る。……その日のために、今日の終わりを覚えておくといい。望みを聞いて、望みを叶えて、足りた、と言わせて送る。――後悔を残したまま、逝かせてはならない。それが、糸を持つ者の礼儀だ」
足りた、と言わせて送る。
今日の夕陽の丘を、リオは胸のいちばん深い棚に仕舞った。いつか来るその日、取り出せるように。
「はい」
短く答えると、黒い袖がすっと持ち上がった。
指先に飴が一つ。
「……どうも」
夜道に飴の甘さが少しだけ沁みた。
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