第16話 西の主、王都に来る(後編)
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第16話の後編です。
診察は、その日の午後から始まった。
継ぎの当たった作業着に藁の匂いをまとったミラが、患者の巨大な顎を見上げて、腕まくりをする。
「はい、口を開けて。……通訳お願い」
「開けてもらえますか。診るだけです」
触れ糸で渡すと、小山のような大角鹿は、素直に大きな口を開いた。
洞窟である。
ミラは梯子を騎士団から借り、巨大な臼歯の列を一本ずつ検分し、髪より細い診察の糸を通して内側を読み、降りてきた時には診断が出ていた。
「右の一番奥の臼歯。根元から縦に割れてる。割れ目から膿んで、根の周りに熱がある。……年季の入った虫歯と、加齢の割れね。塞いでどうにかなる段階じゃないわ」
「つまり」
「抜くしかない。それも、早く。膿が顎の骨に回ったら、この子、冬を越せない」
抜歯。
言葉にすれば二文字だが、患者の体高は城門より上である。臼歯一本が、小さな卓ほどもある。
「……抜けるんですか、あれ」
「道具と人手があれば。歯の抜き方自体は、馬も鹿も同じよ。問題は」
ミラは、封鎖線の向こうの野次馬と、こちらを遠巻きに見ている騎士団を、順に見た。
「大きさと、場所と、それから――この子が、大人しく寝ていてくれるか。抜歯の間、暴れられたら全員死ぬわ。並の眠り薬じゃ、この体は落ちない。かといって量を増やせば、心の臓の方が危ない」
薬では、眠らせられない。
なら、答えは一つだった。
「――薬じゃない眠らせ方なら、心当たりがあります」
リオは、事務所への文を書いた。
◇
その夜、封鎖線の検問を、一人の女性が通った。
小柄で、ゆったりとした肩掛けを羽織り、大きな編み籠を提げている。ふわりとした淡い色の髪に、年齢のよく分からない童顔。歩き方まで、どこか子守唄のように穏やかな人である。
十三番窓口の四番、ネム・アルレット。表の顔は家庭教師と乳母、裏の顔は――眠らせ屋。
「こんばんは、リオちゃん。大きな依頼だって聞いたけど」
ネムは患者を見上げ、目をまるくして、それから、ふふ、と笑った。
「あらあら、本当に大きい。……王都最強の乳母、本日の患者は山の主、ね」
「眠らせられますか」
「眠らせられない子は、いないわ」
乳母は編み籠を降ろし、静かに袖をまくった。
「ただし、この体の大きさだと、歌は長くなるわね。それと、約束して。眠っている間、怖い思いをさせないこと。私の歌は、無理やり落とす歌じゃないの。『眠っても大丈夫』って、体に思い出させる歌だから」
「はい」
「それとリオちゃん、あなたにもお仕事よ」
ネムは、患者を見上げたまま言った。
「手術の間、糸でこの子の眠りの水位を見ていて。深すぎたら心の臓が心配、浅すぎたら目が覚める。どちらでも、すぐ教えて。……歌の深さは、私が調整するから」
「分かりました」
眠らせ屋と、読み手の分業である。
段取りは、夜のうちに組まれた。
手術は明朝、封鎖線の内側で行う。器具は獣医師会の大型獣用の抜歯鋏と、造船所から借りた滑車と綱。人手は――
「儂の隊から出す」
申し出たのは、あの年配の騎士だった。白髪交じりの髭の、規定と順番の人である。
「見立てを頼んだのは、こちらだ。見立てが『治療』と出たなら、治療に人手を貸すのがスジであろう。……それに」
老騎士は、巨大な患者をちらりと見た。
「歯痛を理由に討伐したとあっては、王都騎士団の名折れだ」
最後の問題は、見物人だった。
巨大魔物の口の中に人間が入る手術である。野次馬に見せていい絵ではないし、群衆のざわめきは患者の眠りにも障る。
これを解決したのは、患者本人だった。
リオが触れ糸で事情を渡すと、主は、ん、と鼻を鳴らし――
翌朝、西街道の一角は、乳白色の深い霧に沈んだ。
自分の手術室の目隠しを、自分で張る患者であった。
◇
霧の中の手術は、静かに始まった。
まず、ネムの歌である。
編み籠に腰掛けた小柄な乳母が、小山のような患者のかたわらで、ゆっくりと歌い出す。言葉のない、揺り籠のような旋律だった。
霧が、歌を包んで柔らかく響かせる。
三節目で、物見の塔のような首が、ゆっくり、ゆっくりと下がり始めた。
五節目で、巨体が横に傾き、地響きを立てて草地に横たわった。
七節目で、城門より高かった患者は、穏やかな寝息を立てていた。地面が、寝息に合わせてかすかに揺れた。
「……はい、おやすみなさい」
ネムは歌を閉じ、額の汗を拭って、悪戯っぽく笑った。
「大きい子ほど、よく眠るのよ」
そこからは、人間たちの仕事だった。
ミラの指揮で、騎士たちが綱を掛け、滑車が軋み、大型の抜歯鋏が割れた臼歯を掴む。
「引いて! ……止め! 角度を変えるわ。……いい、引いて!」
掛け声と、綱の音と、歌の余韻。
途中、一度だけ、危ない瞬間があった。
鋏が根を掴み直した拍子に、触れ糸の先の眠りが、ふ、と浅くなったのだ。水面に向かって、意識が浮かび上がりかけている。
「ネムさん、浅くなってます」
「はいはい」
乳母は慌てもせず、揺り籠の旋律を一節だけ足した。
浮かびかけた意識が、また柔らかく沈んでいく。眠りの水位が、歌で戻る。
「……いい連携ね」
ミラが額の汗を拭って、綱の騎士たちに次の合図を出した。
そして――ごり、と深い音がして、小卓ほどの臼歯が、根ごと抜けた。
騎士たちが尻餅をつき、霧の中に、押し殺した歓声が上がった。
白髪交じりの老騎士は、転がった小卓ほどの臼歯をしげしげと眺め、それからしみじみと言った。
「……歯痛と分かって、良かった。これを討伐と呼んでいたら、儂は孫に話せる仕事を一つ失っておった」
仕上げは、ネムだった。
眠る患者の顎に寄り、抜けた痕の歯茎に、そっと両手をかざす。
指先に、淡い光が灯った。
見覚えのある光だった。初めての依頼の夜、呪いを外された侍女の喉元に灯っていた、あの光である。膿んで熱を持っていた歯茎が、光の下でゆっくりと落ち着き、塞がっていく。
眠らせて、治す。
眠らせ屋が、ナンバーズの回復役を兼ねる理由を、リオは初めて目の前で見た。
「……ネムさんって、その、すごい人だったんですね」
「あら、今ごろ?」
乳母は光を消して、ふふ、と笑った。
「眠りはね、リオちゃん。一番古いお薬なのよ。眠らせ方と、治し方は、隣どうしの仕事なの」
◇
昼前、主は目を覚ました。
巨体がのそりと起き上がり、口をもごもごと動かし、それから、深い色の目が、ぱちりと見開かれた。
触れ糸の向こうから、素朴な驚きが流れてくる。
――……痛く、ない。
「抜きました。悪いところごと」
――噛める、のか。これで。
「試しますか」
リオが合図をすると、騎士団が例の回収品を運んできた。賽銭代わりに投げ込まれ続けた、籠いっぱいの林檎である。
主は長い首を下ろし、林檎をひと口――ばり、ごり、と実に良い音を立てて、噛んだ。
噛んで、止まり、もうひと口噛んだ。
それから、籠ごと全部食べた。
――噛める。噛めるぞ。うむ。うむ……。
流れてくる温度が、じんわりと熱い。百年生きた主の感激は、言葉ではなく、ただの温度だった。それで、十分すぎるほど伝わった。
◇
昼過ぎ、霧が晴れた。
すっきりした顔の巨大な鹿が草地に立つのを見て、野次馬から歓声と拍手が上がり、鹿見まんじゅうがまた売れた。
別れ際、主はリオの前に長い首を下ろし、目の高さを合わせてきた。
――世話になった。……お前の噂は、山々に届いておる。話の分かる、眠そうな子供の噂がな。
「……その噂、どこまで広がってるんですか」
――さてな。山の噂に、囲いはない。
主は、どこか楽しげに鼻を鳴らした。
――良い国だの、存外。飯はうまいし、歯医者は腕がいい。……困ったら、また来るとしよう。山の方でも、お前が困ったら、いつでも霧山へ来るがいい。
「はい。……お大事に」
主は身を起こし、それから、角を一度、大きく振った。
からん、と乾いた音がして、角の枝の一本が、リオの足元に落ちた。
古い角の、自然に落ちる時期の一枝である。触れ糸の向こうから、短い温度が届いた。
――薬礼だ。取っておけ。
大角鹿の角は、王都の薬種問屋で目の玉が飛び出る値がつく素材である。患者は、支払いまで一流だった。
西の主は、悠々と街道を歩き出した。
野次馬が手を振り、まんじゅう屋が「またのお越しをー!」と叫び、騎士団が直立して見送り、巨体は午後の光の中を、西の山へ帰っていった。
後に王都では、この三日間を「神鹿様の湯治」と呼ぶ者もいたという。歯の治療なので、湯治ではないのだが。
◇
数日後、学園である。
瓦版は連日「神鹿様、王都の名医に癒され西へ帰還」と書き立てた。名医が誰なのかは、どこにも書かれていない。
「なあ、結局あの鹿、何しに来たんだろな」
「歯の治療ですって。瓦版に書いてあったわ」
カイルとセナの会話を、リオは弁当をつつきながら聞き流した。
「そういえばリオ、あなたあの三日間、ずっと何してたの」
「獣医師会のバイト」
「……そう。もう何も聞かないわ」
聞かない、と言いつつ、セナの目は二拍ほど、こちらに留まっていた。
◇
その夜、事務所である。
帳場の机の向こうで、彫りの深い顔のグラントが、二枚の鑑定書を並べていた。ミラの署名と、白紙の司書の印が、それぞれに入っている。
「夜会の置き土産の小瓶、鑑定が出た。――中身は、会場に漂ってた香と同じものだ。土台はルヴィナ産の眠り花。配合は、闘技場の興奮剤や学園の栄養剤より、さらに改良されてる」
ルヴィナ。
五度目である。
「白眠花、興奮剤、栄養剤、夜会の香、そして小瓶。……全部、同じ畑の根っこから生えてやがる。作ってる奴らの顔は、まだ見えねえ。見えねえが」
グラントは鑑定書を重ね、帳場の抽斗に仕舞った。
「ああそれと、あの角の薬礼な。依頼料として帳簿に載せた。薬種問屋の相場で、今回の経費が全部出て釣りが来る。……支払いのいい患者ってのは、ありがたいもんだぜ」
帳の主は、珍しく機嫌が良かった。
「絵は、だいぶ繋がってきた。……焦らず行くぞ。向こうも、こっちを見てる」
「はい」
事務所を出ると、夜空が高かった。
西の空の果て、霧山のある方角に、リオは小さく一礼しておいた。
あちらの山では今ごろ、主が木の実を、良い音を立てて噛んでいるはずである。
山の噂に、囲いはない――と、主は言っていた。
王都に腕のいい歯医者がいる、という噂が山々を巡って、次にどんな患者が門前に座り込むのか。
……あまり、考えないことにした。
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