第16話 西の主、王都に来る(前編)
お読みいただきありがとうございます。
幕間「西の主の思案」と繋がるお話です。未読でも楽しめますが、先にお読みいただくと二倍楽しめるかもしれません。
その朝、王都は西門から騒がしくなった。
「でっけえ鹿が出たぞ!!」
一時間目の途中、廊下を走る誰かの声で、教室の集中は完全に終わった。
「西門の外の街道に、家みたいにでっけえ鹿が座ってるんだと! 騎士団が出てる!」
「鹿ぁ?」
カイルが窓に張り付き、セナが「授業中よ」と言いながら自分も窓の外を見た。学園から西門は見えないが、言われてみれば、朝から街の方角がざわついている。
昼までには、学園中が鹿の話で持ち切りになった。曰く、山の神の使いだ。曰く、天変地異の前触れだ。曰く、実は作り物で、どこかの興行の宣伝だ。
「なあ、こういうのはテイマー科の出番だろ!? リオ、お前ちょっと行って、話つけてこいよ!」
「一年生が騎士団の封鎖線に入れるわけがないでしょう」
ネイトの提案は、今日も元気にセナに撃墜されていた。あの実習以来、彼の空回りは、少しだけ愛される空回りになっている。
でっかい鹿。
リオは、机に頬杖をついたまま、嫌な予感に襲われていた。
正確には、予感というより、心当たりである。
数日前から、獣舎の魔物たちが西の方角を気にしてそわそわしている、と世話係が首を捻っていた。昨夜は遠く西の空で、鳥の群れが妙な時間に立った。
大きい何かが、山から降りて、王都に近づいていた。
――嫌だな。関係なければ、いいな。
放課後、眠り鹿の宿の机の上には、灰色の封筒がもう置いてあった。
『西門の鹿の件。今夜、事務所』
関係、あるらしかった。
◇
夜の事務所で、グラントは珍しく、少し面白がっている顔をしていた。
「状況を言う。今朝の夜明け前、西街道の関所の先に、でかい大角鹿が現れた。体高は城門より上。角は左右に若木が生えてるようだと。……で、こいつが何をするでもなく、街道の脇に座り込んで、動かねえ」
「暴れては、いないんですね」
「一切な。旅人が通っても見てるだけ。騎士団が槍衾を並べても、座ったまま欠伸をしたそうだ」
欠伸。
その時点でリオには、だいたいの人柄が――鹿柄が、見えた気がした。
「だが、でかさがでかさだ。西門は半分封鎖、街道の物流は止まりかけてる。騎士団の中じゃ討伐論が出てる。危険がないと言い切れねえ以上、当然の話ではある」
「討伐、ですか」
「そこでだ。物流が止まって一番泣くのは商人ども、つまり商業ギルドと、その後ろの財団だ。財団経由で、うちに依頼が来た。……『穏便に、お引き取り願え』とよ」
「ちなみに、白紙から資料が回ってきてる」
グラントは、几帳面な字の書付を読み上げた。
「大角鹿。西の山系の最古参級。性質は温厚、ただし縄張りを侵す者には角を使う。それと、古い個体は霧を呼ぶ魔法を使うと伝わってる。西に、霧山って名の山があるだろう。あの山の霧は代々の主が呼んでるものだ、なんて伝承まであるそうだ。……で、面白いのはここだ。『百年前にも一度、大角鹿が王都の門前に現れた記録あり。三日間座って、去った。目的は不明のまま』だとよ」
「……百年前も、ですか」
「前例があるってことは、あの鹿の側には、王都に来る理由が何かあるってことだ。百年前の役人は、それを聞けずじまいだった。今回は、聞ける奴がいる」
グラントは依頼書をこちらへ滑らせ、それから、もう一枚の紙を重ねた。
王都獣医師会の、臨時助手の証明書だった。名前の欄は空欄で、ミラの署名だけが先に入っている。
「騎士団の封鎖線の中に入るには、表の身分が要る。ミラが現場に呼ばれてる。お前はその助手だ。覆面は要らねえ。獣医の助手が獣を診るのは、誰が見ても当たり前の絵だからな」
「……なるほど」
「行って、話を聞いてこい。あの鹿が何をしに来たのか、誰も分からんで困ってる。……お前なら、聞けるんだろ」
帳の主は、そこで少しだけ笑った。
「暴れてない客ってのは、用事がある客だ。商売の基本だぜ」
◇
翌朝の西街道は、見事な人だかりだった。
封鎖線の外には野次馬がびっしりと並び、気の早い露店まで出ている。「鹿見まんじゅう」なる焼きたての商品が飛ぶように売れ、どこかの神殿の関係者らしき一団が「神鹿様だ」と拝み、賽銭代わりの林檎が封鎖線の内側に投げ込まれては、騎士団に回収されていた。
王都の住民は、今日もたくましい。
封鎖線の内側には騎士団が二列。槍と盾の壁の向こう、街道の脇の草地に――それは、いた。
「……うわあ」
思わず、声が出た。
大きい、とは聞いていた。だが、大きさというのは、聞くのと見るのとで別物である。
小山のような胴体に、太い四肢。首は物見の塔のように高く、その上の頭から左右に張り出した角は、本当に若木の林だった。灰褐色の毛並みは冬毛に入りかけで、朝日を受けて銀色に縁取られている。
そして、その足元には、よく晴れた朝だというのに、薄い霧が湖のようにわだかまっていた。
伝承の言う「霧を呼ぶ」は、本当らしい。この主は、ただ座っているだけで、自分の周りの天気を少しだけ変えてしまうのだ。
大型、という区分の、そのまた上澄み。
ゼグより、嵐鷲より大きい。リオがこれまで間近で見た中で、間違いなく最大の生き物だった。
そしてその巨体は、草地に足を畳んで座り、実に行儀よく、往来を眺めていた。
「来たわね」
封鎖線の手前で、作業着のミラが待っていた。徹夜明けらしい顔で、それでも目は笑っている。
「夜の間、様子を見てたけど……あの子、ずっと王都の灯りを眺めてたのよ。害意のある目じゃないわ。あれは、観光の目よ」
「観光」
「長生きの生き物は、たまにああいうことをするの」
「診察の助手、リオくん。名札は付けた?」
「……付けました。ミラ先生」
「よろしい。じゃ、患者さんのところへ行きましょうか」
「患者と決まったわけでは――」
言いかけた時、封鎖線の指揮所から、見覚えのある年配の騎士が歩いてきた。
公開査定の日の、あの年配の査定官である。向こうもこちらを覚えていたらしく、わずかに眉を上げた。
「獣医師会か。……どこかで見た顔だと思えば、学園の」
「その節は」
「よい。あの牙狼の件の、獣医師会の見立ては正しかった。だから今回も、討伐の前に、あんたらの見立てを聞くことにした」
規定の人は、規定の順番で、公平だった。
「言っておくが、時間は無限じゃない。街道が止まって二日目だ。上からは早く道を開けろと言われてる。……三日だ。三日で、あれが何なのか、危険なのか、どう動かせるのか、見立てを出してくれ」
「それと、これは老婆心だが」
年配の騎士は、槍の壁の向こうの巨体を見た。
「あれが本気で動けば、槍衾など生垣ほどの意味もない。儂らにできるのは、住民を逃がす時間を稼ぐことだけだ。……つまり、あんたらの見立てに、西門の全部が懸かってる。そのつもりで頼む」
「充分よ」
ミラは即答し、リオの背を押した。
「行くわよ、助手くん」
◇
槍の壁の間を抜けて、封鎖線の内側へ入る。
巨大な鹿の視線が、ゆっくりと、こちらへ降りてきた。
物見の塔の上から見下ろされるようなものである。後ろの騎士団の列が、目に見えて強張った。
リオは、間合いの外で足を止めた。
しゃがまない。この大きさの相手に小さくなって見せても、意味がない。ただ、まっすぐ立って、敵意も、恐怖も、槍も持たない一人の人間として、視線を受けた。
――近くで見ると、分かることがあった。
左の後ろ足に、古い傷痕。毛並みの下の、罠の痕だ。
そして、頬の線がわずかに削げている。長いこと、まともに飯を噛めていない痩せ方だった。
リオは、糸を細く撚った。
一瞬だけ、触れさせる。
――敵意はない。話を、聞きに来た。
触れた糸の向こうから、返ってきたのは、深い深い、山の霧のような気配だった。古くて、大きくて、落ち着いていて――その奥に、ずきずきと脈打つ、鈍い痛み。
それから、長い長い、検分の間があった。
物見の塔の高さから、深い色の目が、こちらの頭のてっぺんから爪先までを、ゆっくり三往復した。西の山の最古参が、百年の目利きで、噂の答え合わせをしている間だった。
やがて、返事が流れ込んできた。
温度と、方向。それで足りた。
――おお。おお、来たか。
――お前が、噂の子供か。……ふむ。聞いていた通り、眠そうな顔だの。
リオは、思わず仮の名札を見下ろした。獣医師会臨時助手、とある。
噂の子供。
山々を渡ってきたという、あの噂の宛先は、どうやら本当に、自分であるらしかった。
「……リオくん? どうしたの」
「いえ」
ミラの声に首を振り、リオはもう一度、糸を触れさせた。
――それで。何をしに、来たんですか。
巨大な鹿は、ゆっくりと、その大きな口を薄く開けた。
そして、右の頬のあたりを、長い舌でぺろりと撫でてみせた。
流れ込んでくる温度は、切実そのものだった。
――歯が、痛い。
「…………」
――右の、奥歯だ。もう長いこと、堅い木の実が噛めん。冬ごもり前だというのに、だ。山の獣に歯は治せん。だから、治せる者のいる人間の国へ来た。ついでに、噂の子供の顔も見に、な。
リオは、糸を切って、天を仰いだ。
王都の西門を封鎖し、騎士団二個小隊を張り付かせ、討伐論まで出させた、前代未聞の巨大魔物来訪の理由。
「……リオくん、それで? あの子、なんだって?」
ミラの問いに、リオは正直に答えるしかなかった。
「――歯医者に、来たそうです」
「…………歯?」
ミラは三秒ほど固まり、それから、みるみる職業の顔になった。
「歯ね。右? 左? いつから? 食欲は? ……ああもう、問診が山ほどあるわ。リオくん、通訳よろしく」
問題は、山ほどあった。
城門より高い患者を、どこで、どうやって診るのか。麻酔はどうする。器具はあるのか。そもそも騎士団と王都に、これをなんと説明するのか。
三日で、西の山の主の歯を治す。
……どこから、どう話したものか。
小山のような患者は、行儀よく座ったまま、痛む右の頬を、また舌でぺろりと撫でた。
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