第15話 遭難日和(後編)
お読みいただきありがとうございます。
第15話の後編です。
全員の寝息が揃ったのを確かめて、リオは見張りの焚き火を離れた。
夜の森を、音もなく歩く。
目指すのは、夕方の設営中に見つけておいた印だ。岩に擦り付けられた獣の毛、木の根元の匂い付け。この一帯の縄張りの主が、定期的に見回っている道である。
沢の上の岩場で、それは待っていた。
銀灰色の毛並みの、大きな狐だった。ミストフォックス。霧の出る山を好む、中型の主だ。夜霧をまとって岩の上に座り、光る目でこちらを値踏みしている。
昼間から、ずっと見られていたのは分かっていた。縄張りに五人も入り込んで、火を焚き、煮炊きをして、騒いでいるのだ。主として、検分に来ない方がおかしい。
リオは間合いの外で足を止め、しゃがんで、夜霧の主としばらく目を合わせた。
それから、糸を細く撚って、一瞬だけ、主の心に触れさせた。
契約ではない。結びもしない。触れて、離す。それだけの、獣との挨拶の作法だ。言葉は通じない。通じるのは、感情の温度と、意図の方向だけ。それで、獣との用件はたいてい足りる。
――敵意はない。騒がしい客だが、害はない。
触れた糸の向こうから、返ってきたものがある。
警戒と、それから――苛立ちだった。こちらへの、ではない。もっと前からある、古い苛立ち。
リオは立ち上がり、主の目を追って、縄張りをゆっくり歩いた。
答えは、じきに見つかった。
獣道を辿っていたリオの足が、ふと、止まった。
落ち葉の重なりが、一カ所だけ不自然に盛り上がっている。枝の先でそっと払うと、錆びた鉄の顎が、闇の中で牙を開いていた。
挟み罠だ。密猟者が置き捨てていった古いやつが、外されもせず残っている。一つ見つければ、続きは読める。同じ間隔で、一つ、二つ……見つけただけで四つ。
これでは、縄張りをまともに歩けもしない。主の苛立ちの正体だった。
リオは枝を使い、一つずつ、罠の牙を潰して回った。
バネを外し、土に埋め、上に石を置く。四つ目を潰し終える頃、夜霧の主はすぐ後ろまで来て、リオの手元を覗き込んでいた。
もう一度だけ、糸を触れさせて、短く渡す。
――二晩、火と場所を借りる。騒がせる詫びは、この四つで。
言葉ではない。温度と方向だけの、短いやり取りである。
主は長いことリオを眺め、それから、ふいと身を翻した。
数歩行って、振り返る。ついてこい、の形だった。
案内されたのは、沢の下流の深い淀みと、実をつけた木々の斜面だった。魚の溜まり場と、この時期の食べ物の在処。縄張りの主だけが知っている、山の台所である。
挨拶は、成立した。
こちらは静けさを罠四つ分だけ返し、向こうは二晩の滞在と、台所の場所をくれた。
夜の森の付き合いとしては、上出来の部類だった。
◇
遭難二日目の朝は、快晴だった。
「よし、方針を決めるわ」
朝の焚き火の前で、セナが宣言した。
「リオの見立てでは、水が引くのは明日の朝。今日一日は、ここで待つのが一番安全。だったら――」
地図の実習範囲を、指でなぞる。
「この岩屋の周り、ぎりぎり実習範囲内なのよね。……どうせ待つなら、採集課題を進めましょう。遭難した上に零点じゃ、悔しいもの」
「「「おお……!」」」
転んでもただでは起きない班長だった。
そこからの一日は、遭難という言葉から最も遠い一日になった。
まず、朝の沢である。
「魚だ! 下流の淀みに、うじゃうじゃいるぞ!」
見つけたのはカイルで、跳び込んだのはネイトだった。
「魚の追い込みなら任せろ! これは本当に得意なんだ!」
そして、これが本当に得意だった。
裾をまくって淀みに入り、石の配置を一目で読んで逃げ道を塞ぎ、岸へ追い込んで素手で掴む。その手際は、昨日までの空回りが嘘のようだった。
「すげえ! ネイト、お前まじで山育ちじゃん!」
「だから最初からそう言ってるだろ!」
水しぶきの中で、ネイトは久しぶりに大きな声で笑った。今度の大声は、誰の耳にも心地よかった。
獲れた魚は、リオが川原で捌いて、半分は昼に焼き、半分は燻して保存にした。
「……ねえ、リオ。聞いていい?」
燻し台を組むリオの手元を見ながら、セナが言った。
「なんで、あの淀みに魚が溜まってるって、朝の時点で示せたの」
「水が引き始めると、魚は深みに集まるから」
「じゃあ、トトが午前中に大当たりした薬草の斜面は」
「苔の色。湿り気の多い斜面は、苔で分かる」
「……ふうん」
セナは班の集めた薬草の束を眺め、冗談めかして呟いた。
「なんだか今日は、山が親切すぎない?」
「たまたまだと思う」
たまたま、の裏で夜霧の主が台所を開けてくれていることは、言わないでおいた。
昼を過ぎ、採集の籠は範囲内だけでみるみる埋まり、カイルは念願の飯盒を沢の水で研いだ米で炊き上げ(三合を一人で二合食べた)、トトは図鑑の余白が埋まる速さに震え、フワは全員の膝を巡回して撫でられ放題だった。
夜は、焚き火を囲む時間が長くなった。
トトが図鑑を広げて今日の採集品の解説を始めると、これが思いのほか面白く、ネイトが「じゃあうちの山のあの草は何なんだ」と実家の山の話を持ち出し、カイルが「飯盒はな、蒸らしが九割なんだよ」と誰も聞いていない哲学を語り、フワは膝から膝へ渡り歩いた。
教室では一度も揃わなかった五人の声が、山の夜には、するりと揃った。
夕暮れ、焚き火を囲んで魚と飯を頬張りながら、ネイトがぽつりと言った。
「……なあ。遭難って、こんなんだっけ」
「僕、家より良く眠れてる……」
トトの返事に、五人と一羽は、声を揃えて笑った。
岩屋の遭難生活は、こうして二晩目も、不当なほど快適に更けていった。
◇
三日目の朝、沢の水は引いていた。
濁りは取れ、流れは落ち着き、飛び石の頭が水面に並んで顔を出している。リオの見立て通り、二晩での回復だった。
濁りが取れたのは、上流の崩れがもう止まった証拠。飛び石の頭が出たのは、水位が普段に戻った目印。出入りの早い支沢は、引く時も早い。
それでも、見て、測って、確かめてからしか渡らない。山の水を信用しすぎないのも、山の作法である。
「渡るわよ。……リオ、仕切って」
「ん。蔓を張る。カイル、あの倒木を渡し場の上に」
太い蔓を対岸の木に結んで命綱にし、カイルが中程の深みで丸太を支えて足場を作る。渡る順は軽い者から、体は半身で上流向き、腰を落として。
「フワは最後、俺の襟の中」
一人ずつ、確実に。
中程の深みで、トトが一度だけ足を滑らせた。短い悲鳴と水音。だが体が流れるより早く、丸太を支えていたカイルの腕が襟首を掴んで、そのまま片手で岸側へ押し戻した。
「わりい、掴むとこ他になかった!」
「た、助かった……剣術科って、すごい……」
全員が対岸の土を踏んだ時、誰からともなく拍手が起きた。
出発の前、五人は岩屋を片付けた。
焚き火は水と土で完全に消し、灰は埋め、寝床の枯れ草は散らして元に戻す。リオが言い出すまでもなく、セナが「借りた場所は、借りた時より綺麗にして返すのよ」と号令をかけた。
最後に岩屋を出る時、リオは一人、山の斜面へ小さく頭を下げておいた。
遠い岩の上、朝霧の中に、銀灰色の影が一つ、座ってこちらを見ていた気がした。
帰り道は、下りの獣道を選んだ。
一番安全な斜面を、山の住人たちが何百年も歩いて固めた道である。借り賃は、静かに歩くことだけだ。
そして昼前、風の向こうから、微かに人の声と鐘の音が届いた。
捜索隊である。
「――聞こえるか、応答しろー!」
遠い。声はまだ、尾根の反対側だ。こちらの五人の声では、たぶん届かない。
たぶん、普通の五人なら。
「ネイト」
リオは、隣を歩く男爵家の次男に言った。
「出番だ。お前の声が、一番でかい」
「……っ、任せろ!」
ネイトは大きく息を吸い、両手を口に当てて、山に向かって吠えた。
「おおおおーーい!! こっちだあああーー!! 全員!! 無事だぞーーー!!」
声は谷を渡り、山肌に跳ね、二度の山びこになって尾根を越えた。
半年間、教室で持て余されてきた大声が、初めて、五人の命綱になった瞬間だった。
遠くの鐘が、二度、三度、返事のように鳴った。
◇
捜索隊の先頭にいたマリウス教官は、駆け寄って、そして固まった。
無理もない。
二晩遭難した班というのは、普通、憔悴し、汚れ、目を落ち窪ませて発見されるものである。
そこにいたのは、血色の良い顔で整列する五人だった。しかも全員、髪まで整っている(沢で洗ったのだ)。背負った籠には採集課題の薬草がぎっしり、腰には魚の燻製の包みまでぶら下がっている。
「……無事か! 怪我は!」
「ありません! 全員、無事です!」
「そうか……そうか。よく無事で……」
教官は五人の顔を順に確かめ、確かめ終えてから、もう一度、燻製の包みを見た。
「…………お前たち、遭難していたのだよな?」
「「「はい!」」」
返事の威勢の良さが、かえって答えになっていなかった。
裁定は、後日下された。
範囲外への逸脱は反省文。ただし、二晩の野営、全員無事の帰還、そして待機判断の的確さは「実習の本義に照らして最高評価」。採集課題も範囲内の分だけで、学年三位に入った。
反省文はネイトが「全部俺が書く」と言い張り、本当に一人で書き上げた。五枚の指定のところを、九枚書いてきた。
受け取ったマリウス教官によれば、前半の五枚は反省で、後半の四枚は「山で学んだことの覚え書き」だったという。天気の読み方、引き際の決め方、断熱の組み方。
「反省文で加点した生徒は、初めてだ」
と、教官は妙な顔で言ったそうである。
◇
学園に戻って数日、あの班の空気は、少し変わった。
ネイトの声は相変わらず大きいが、中身が伴い始めた。トトは班の四人と昼を食べるようになった。カイルは「次の休み、五人で飯行こうぜ」を三日連続で言っている。
そして放課後の帰り道である。
「ねえ」
隣を歩くセナが、前を向いたまま言った。
「あの三日間ね、私、途中から遭難してること、忘れてたわ。……あなたがいたから、本当に、楽だった」
「セナの指揮が良かったんだと思う」
「そういうところよ、って言いたいけど……今日は素直に受け取っておくわ。指揮も良かった。ええ、そうよ」
セナは澄ました顔で頷き、それから、少しだけ早口になった。
「……フワがね、言うのよ。あの岩屋で、あなたの隣が一番あたたかかったって。だから、その、また今度、あの鍋を作りなさい。フワのために」
「フワのために…?」
「フワのために、よ」
肩の上の綿羽鳥は、我関せずの顔で膨らんでいた。
空は高く、風は乾いて、良い天気だった。
思えば、あの三日間もずっと、雨は初日の夕立だけだった。
遭難日和というやつである。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
面白い、続きが気になると思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想をいただけると励みになります。
次回もよろしくお願いいたします。




