第14話 仮面の夜会(後編)
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最初の異変は、飾り羽だった。
七色の光を返していた羽が、一斉に、ざわりと逆立った。
ジュエルバードが、甲高く一声鳴いた。歌うような普段の声ではない。硝子を引っ掻くような、悲鳴に近い声だった。
客席が、ざわめく。
だが、悲鳴は上がらない。三百の仮面は、まだ半分、これを演出だと思っている。仮面の夜会というのは、そういう場所だ。何が起きても、どこかで芝居の続きだと思ってしまう。
世話係の老人だけが、顔色を変えていた。
「よせ、戻れ……! どうしたんだ、お前……!」
慣れた制止の声も、合図の手も、もう届いていない。宝石の鳥は光の池の中央で跳ね、羽を打ち、血走り始めた目で、ぐるりと客席を見た。
リオは、給仕の列から一歩、前に出ていた。
間に合うか。読みながら、細い糸を撚り出す。太い線を細く、長く――柵越しにガルフへ通した、あの形だ。
糸は、届いた。届いて、弾かれた。
結べない。内側が、荒れすぎている。嵐の中で針に糸を通すようなものだと、いつかミラが言った通りの手応えだった。香に煽られた恐慌が、心の表面を千々に波立たせている。
――静かに鎮める時間は、ない。
なら、順番を変えるだけだ。
先に体を止めて、凪を作る。
香は、人には薄い。だが匂いに敏感なこの鳥には、三百人分の香水を突き抜けて届いている。世話係が言った通りだ。そして、荒れた鳥は一番強い匂いの源へ向かう。今夜この会場で一番香を纏っているのは、主役だ。
鳥が、跳んだ。
大きく羽ばたいて宙に上がり、光を散らしながら、客席の最前へ――今夜の主役へ、まっすぐに蹴爪を向けて降下する。
エリアナは、逃げなかった。逃げなかったのではなく、足が動かなかったのだろう。白い仮面の下で、細い肩が硬直しているのが見えた。
その前に、給仕が一人、滑り込んだ。
銀の盆が、月のように閃く。
降ってきた蹴爪を、盆の面で斜めに受け流す。金属の高い音が響き、逸らされた巨体が床すれすれで羽ばたいて体勢を立て直し――その一瞬の懐に、リオは既に入っていた。
「――ごめんね」
右手で翼の付け根を押さえた。片手だけである。もう片方の手は、銀の盆を高く掲げた。
それが、合図だった。
光の池の縁で、黒鳥の仮面が息を吸った。
歌ではない。たった一つの、低い音。シェラの喉が、大広間の底に沈むような一声を落とした。三百の仮面が、揃って息を止めた。楽団の音が止まり、杯の音が止まり、会場の全部の拍が、その一声に握られた。
鳥の羽ばたきが、一拍遅れた。
声で客の心を繰る人が、鳥の拍まで握ったのだ。テイマーが糸でやることを、この人は喉でやる。
その一拍の隙間に、白い仮面の主役が、震える声で言った。
「……大丈夫。あなたは、綺麗よ」
悲鳴ではなかった。逃げもしなかった。荒れた鳥にとって悲鳴は火に油で、静かな声だけが耳に入る。
凪が、生まれた。
リオの手が作った凪ではない。歌姫の一声と、主役の一言が作った凪だった。
そこへ、太い線を一本、通した。
息、ひとつ。
流れ込んでくるのは、恐怖と、混乱と、体の内側で鳴り続ける訳の分からない昂ぶり。あの匂いが、この子の中で暴れている。
リオは線の向こうへ、静かに渡した。
大丈夫。もう、いい。今日の舞台は、終わりだ。
七色の羽から、ゆっくりと力が抜けていく。
血走っていた目が、閉じて、開いて、それから――いつもの静かで賢い目に戻って、間近の白い仮面を見上げた。
下見の日に、飾り羽を一枚見せてくれた、あの目だった。
大広間は、水を打ったように静まり返っていた。
◇
その静寂を割ったのは、歌姫の声だった。
「――皆さま!」
黒鳥の仮面のシェラが、光の池の中央へ進み出て、劇場中に届く声を張った。
「南方の宝鳥に伝わる荒ぶる舞と、それを鎮める眠りの給仕――余興の演出でございます! どうぞ、盛大な拍手を!」
楽団が、絶妙の間で音を鳴らした。
一拍。二拍。
三百の仮面は顔を見合わせ――やがて、堰を切ったような大拍手が大広間を満たした。
「素晴らしい! 肝が冷えたぞ!」
「本物の暴走かと思ったわ……ああ、驚いた」
「あの給仕の身のこなし! どこの劇団だ!」
仮面の夜会というのは、そういう場所だ。何が起きても、芝居の続きにできる。シェラはそれを、誰よりも知っていた。
「さあ、眠りの給仕へ、今一度の拍手を!」
余計な追い打ちまで完璧だった。三百人分の拍手が壁際の給仕に集まり、リオは盆で顔を隠すように、深めの礼で凌ぐしかなかった。あとでシェラに文句を言おうと思ったが、どうせ「主演の務めよ」と笑われて終わりである。
後で思えば、何もかもが一瞬で終わりすぎたことが、かえって芝居らしさに味方した。本物の暴走が、あんなに静かに終わるはずがない――三百の仮面は、そう思うことにしたのだ。
万雷の拍手の中で、一人だけ、拍手をしていない客がいた。
最前の主役である。
白い仮面の下から、エリアナ・ローウェンは、じっと、こちらを見ていた。
リオは眠ったジュエルバードを世話係に引き渡し、給仕の礼を一つして、盆を拾い、何事もなかったように壁際の流れへ戻った。
すれ違いざま、世話係の老人が、震える小声で何度も言った。
「ありがとうございます……ありがとうございます……この子を、殺させずに済んだ……」
盆を持ち直す。手が少しだけ震えていたのは、給仕の秘密である。
◇
真夜中の鐘が、鳴った。
枝付き燭台の火が一つずつ絞られ、大広間が薄闇に沈む。楽の音が変わり、光の池の中央に、今夜の主役がただ一人、進み出た。
三百の仮面が、見守る。
エリアナ・ローウェンは、静かに手を上げ、白い仮面を、外した。
素顔が、燭台の残り火に照らされる。
万雷の拍手が、大広間を揺らした。
リオは壁際から、その横顔を見ていた。
さっきまでの硬直は、もうどこにもない。緊張が一枚剥がれた素顔は、完璧な微笑の型ではなく、ただ年相応に、少しだけ泣きそうで、それでも笑っていた。
今夜初めて見る、演技ではない顔だった。
娘の夜は、守られた。
依頼書の手書きの一行は、これで果たされたことになる。
◇
宴が引けていく時分、リオは空の杯を抱えて、バルコニーの一つに出た。
夜気で頭を冷やすつもりだった。先客がいるのに気づいたのは、硝子戸を閉めた後である。
エリアナ・ローウェンが、手すりに手を置いて、夜の庭を見ていた。
「……あ」
主役は素顔のまま、悪戯が見つかった子供のような顔で振り向いた。
「ごめんなさい、少しだけ、息抜きをしていたの。……あら」
その目が、こちらの盆と仮面を見て、ふ、と柔らかくなった。
「あなた、先ほどの――眠りの給仕の方ね」
「……余興の者でございます」
「ええ、演出、ということになっているものね」
エリアナはくすりと笑い、それから、手すりから体ごとこちらへ向き直って、深く、頭を下げた。
侯爵家の令嬢が、給仕に、である。
「ありがとう。あの子、私に向かってきていたでしょう。あなたが間に入ってくれた。……演出であんな動きができるのなら、王都の劇団は苦労しないわ」
「…………」
「いいの、言わなくて。今夜は仮面の夜会だもの。……ねえ、お名前を聞いても、教えてくださらないのでしょう?」
「仮面の夜会ですので」
「ふふ。そうよね」
主役は笑って、夜の庭に目を戻した。
「今夜ね、私、ずっと怖かったの。三百人の前で素顔になるのが。完璧にやらなくちゃって、それだけ考えていて。……でも、一番覚えているのは、拍手でも、お披露目でもないのよ」
夜風が、結い上げた髪の後れ毛を揺らした。
「水の杯と、温めた果実水。それから、私を庇った銀の盆。……今夜、私を『侯爵家の娘』ではなく、ただの一人の相手として扱ってくれたのは、給仕のあなただけだったわ」
「……仕事ですので」
「その言い方、気に入ったわ」
エリアナは、悪戯めいた顔で笑った。年相応の、素顔の笑い方だった。
夜気は冷たく、心地よかった。今夜最大の仕事を終えた体に、遅れてきた眠気が、そっと忍び寄ってくる。
リオは仮面の下で、あくびを一つ、噛み殺した。
「ふふ」
エリアナが、小さく笑った。
「大役の後は、お疲れさまね」
見られていたらしい。仮面で目元は隠れているのに、この人は本当に、よく見ている。
「……失礼いたしました」
「いいのよ。……私も明日からは、また完璧なご令嬢に戻らなくてはいけないの。でも今夜は、もう少しだけ、このままでいたいわ」
主役は夜の庭に目を戻し、それから、思い出したように言った。
「ねえ、仮面の方。また、お会いできる?」
「……仕事が、あれば」
「そう。では、また困りごとを探さなくてはね」
冗談めかしてそう言うと、主役は背筋を伸ばし、完璧なご令嬢の顔を着け直して、光の中へ戻っていった。
仮面より上等な仮面を着ける人だ、と思った。
そして、外した時の顔は、悪くない笑い方をする人だとも。
◇
夜会は、何事もなく――少なくとも帳簿の上では何事もなく、幕を下ろした。
客が引いていく玄関で、リオは一度だけ、あの若い商人を見た。
エルム・シラードは、主人夫妻に完璧な礼をし、見送りの使用人の一人ひとりに会釈をし、燭台を落としたあの下働きを見つけると、わざわざ歩み寄って何事か声をかけ、下働きを笑わせてから、馬車に乗り込んだ。
最後まで、感じのいい人だった。
会場に薄く漂っていたあの匂いは、宴の後半には、いつの間にか消えていた。出所は、最後まで掴めなかった。
感じがいいだけの夜で、あってくれればいい。
そう思いながら、リオは後片付けの列に戻った。
◇
数日後の事務所で、あの背負い袋が開けられた。
中身は、藁の緩衝材と、封蝋で密封された硝子の小瓶が十二本。中の液体は無色で、栓の周りに、甘いような焦げたような匂いが、ごく薄く残っていた。
「鑑定はミラと白紙に回す。……ま、当たりは付いてるがな」
グラントは小瓶を光にかざし、面白くもなさそうに言った。
卓の向こうでは、シェラが上機嫌に扇子を鳴らしている。
「それにしても、今夜の主演は眠りの給仕くんだったわねえ。うちの団に欲しいくらい」
「あげませんよ、俺を」
「茶番はそこまでだ」
壁際のガルドが、干し肉を噛みながら唸った。
「……で、この袋の落とし主は、どこの組の誰なんだ、って話が残ってる。裏の名を知られてた件も、な。気に食わねえ夜の宿題だぜ」
「夜会の依頼は完了だ。侯爵家からは礼金と、これが届いてる」
机の上を、一枚の紙が滑ってきた。
礼状の末尾に、見覚えのある手書きの字で、一行。
『娘が、良い顔で眠りました』
依頼書の一行と、同じ筆跡だった。
それを読んだ時だけ、帳の主の口元が、わずかに緩んだ気がした。
◇
――同じ頃、王都のどこか。
灯りを絞った部屋で、若い男がペンを走らせている。
「香の調合は、まだ改良が要ります。効きが、獣に強く出すぎる。……それと」
独り言のような声は、どこまでも柔らかい。
「あの夜会、こちらの仕事に気づいた方が、いたようです。……王都には、面白い方々が、いらっしゃるのですね」
ペンは楽しげに走り、手紙に、署名はなかった。
◇
王都に、いつもの朝が来る。
学園の教室では、今日も窓際で一人の生徒が船を漕ぎ、セナがその襟を直し、カイルが昼飯の相談を持ちかけ、廊下ではクラリスが「バイトもほどほどに」と小さく笑う。
その廊下の先で、すれ違いざま、エリアナ・ローウェンが、ふと足を止めた。
あくびを噛み殺した、眠そうな生徒の横顔。その顎の動きに、白い仮面の令嬢は一瞬だけ首を傾げ――
「……?」
気のせい、という顔で、完璧な歩幅のまま歩いていった。
眠そうな学生の日常は、今日も続いていく。
その日常の下で、十三番窓口は今夜も開いている。
表に出せない困りごとが、この王都から消えることは、たぶん、ない。
机の上には今日も、灰色の封筒が一通。
『明日の夜。詳細は事務所』
いつも通りの一行に、リオはあくびを一つ返して、寝台に倒れ込んだ。
王都の夜は、まだ当分、忙しい。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
夜会編、これにて完結です。次回からはまた、学園と窓口の日常が始まります。
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