第14話 仮面の夜会(前編)
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夜会編、本番です。
仮面の夜会は、噂に違わぬ絶景だった。
三つの枝付き燭台に火が入り、磨かれた床が光の池になる。その上を、三百の仮面が泳いでいた。白い仮面、黒い仮面、羽根飾りの仮面、宝石の仮面。楽団の音が満ち、杯が鳴り、笑い声は上品な高さで揃っている。
素顔が一つもない大広間というのは、壮観で、そして少しだけ不気味だった。
その光の池の中央に、今夜の主役がいた。
エリアナ・ローウェン。
銀糸のドレスに、白い仮面。挨拶の列は途切れることがなく、彼女は一人ひとりに完璧な角度で応えていく。膝を折る深さ、言葉を返す長さ、微笑の温度。どれも寸分の狂いがない。
見事なものだ、と給仕のリオは思う。
思うと同時に、読んでもいた。
仮面で目元は隠れている。だが、杯を持つ指先が白い。挨拶と挨拶の間の呼吸が、半拍だけ浅い。三百人分の視線の重さを、あの細い背中が一人で受け続けている。
完璧なご令嬢は、完璧に、緊張していた。
――何も知らされずに、この夜を背負ってるんだもんな。
式次第は、単純だ。宵の口に招待客の挨拶。夜半に余興が二部。そして真夜中の鐘とともに灯りが絞られ、主役がただ一人、仮面を外す。素顔のお披露目で、夜会は頂点を迎える。
真夜中まで、あと二刻半。
リオは盆の上の空杯を回収し、給仕の流れに戻った。
今夜の仕事は、あの緊張の外側で起きることを、全部潰すことである。
◇
余興の一部は、歌だった。
楽団の音が変わり、光の池の中央に、深い葡萄色の髪の歌姫が進み出る。仮面の夜会の決まりに従って、目元には黒鳥の意匠の仮面。それでも会場の空気は、彼女が息を吸った瞬間に、丸ごと持っていかれた。
シェラの歌なら、稽古場の鼻歌で何度も聴いている。だが、舞台の本気は、別の生き物だった。
高い声は燭台の炎を揺らすようで、低い声は床の光の池に沈むようだった。三百の仮面が、揃って静まり、揃って息を呑み、歌姫の息継ぎ一つで、三百人の呼吸までもが揃って動く。
人形師が糸で人形を操るように、この人は、声で客の心を繰る。
シェラが裏の世界で「糸繰り」と呼ばれる由来は、たぶん、あの細い糸の技だけではないのだ。
歌の途中、黒鳥の仮面がこちらへ流れ、扇の先が小さく二度、揺れた。
異常なし、の合図だった。
リオも盆の角度で、同じ合図を返す。
万雷の拍手の中で一部が終わり、夜会は佳境へ滑り込んでいった。
◇
給仕というのは、シェラの言った通り、大した立場だった。
誰も給仕を見ない。なのに給仕は、どこにでも行ける。
盆を持って会場を三周する間に、リオは仮面の下をずいぶん読んだ。
入口近くで笑う恰幅の良い仮面の紳士は、笑い声だけ大きくて足が既に酔っている。壁際の若い仮面は、緊張で盆の菓子を四つも取った新興の商人。楽団席の裏では、老いた仮面が二人、政治の話を仮面越しの小声でしている。
壁際に、車椅子の老婦人が一人、話し相手もなく置かれているのを見つけた時は、菓子の盆を多めに寄せて、長めに留まった。老婦人は仮面の下で笑い、若い頃の夜会の話を一つ、聞かせてくれた。給仕の役得である。
物騒な気配は、まだない。
途中、一度だけ、主役の前に出た。
挨拶の列が途切れた一瞬、エリアナが壁際に下がったのだ。リオは水の杯を盆に載せ、半拍の速さで差し出した。
「……ありがとう」
エリアナは、給仕に礼を言った。
三百人に応え続けた声より、少しだけ小さくて、少しだけ本物の声だった。杯を取る指先が、やはり冷えていた。
「お寒いようでしたら、温めた果実水もございます」
「あら……ええ、では、次はそれを」
仮面の下で、微笑の温度が半度だけ上がった。
給仕に礼を言い、給仕の勧めを聞く侯爵令嬢。育ちの良さというのは、疲れた時にこそ出るものらしい。
一礼して下がろうとした時、エリアナがふと、首を傾げた。
「あなた……この家の方では、ないわね。その所作、劇場の方かしら」
心臓が、仮面の下で跳ねた。
「……歌劇団より、応援に参りました者でございます」
「やっぱり。うちの給仕は、皆この家の型で動くの。あなたの所作は、リズムが音楽に寄っているもの」
主役は微笑んで、挨拶の列へ戻っていった。
リズムが、音楽に寄っている。自分ではまるで気づかない癖だった。シェラ仕込みの所作は、根っこが舞台の所作なのだ。
――この人、人の顔は見ないくせに、型は見るのか。
リオは一礼して、流れに戻った。
バレてはいない。バレてはいないが、思ったより目の良い主役である。仮面と稽古がなければ、危なかったかもしれない。
◇
異変は、夜半前に来た。
合図の鈴は、鳴らなかった。鳴らなかったが、庭園の空気が変わったのが、硝子戸越しに分かった。夜の虫が、東の塀の方角だけ、一斉に黙ったのだ。
リオは空盆を持ち、ゴミ出しの体で裏手に出た。
月明かりの庭園を、足音を消して東へ。生垣の陰から木戸の方を窺うと――もう、終わっていた。
ごろつきが三人、庭木の根元に行儀よく並べて転がされていた。全員、目を回している。縄の掛け方が丁寧なのが、かえって恐ろしい。
そして、木戸の手前で、ガルドが立っていた。
向かい合っているのは、見知らぬ大男だった。
岩のような体に、日に焼けた顔。夜会の敷地には場違いな、無骨な革のベルトや防具を体中に締めている。腰の帯にはノミだのハンマーだの、武器とも道具ともつかない金物がずらりと並び、背中には大きな背負い袋。
ごろつきの類では、ない。あの三人とは、体の出来がまるで違う。
「――で? あんたは、何者だ」
ガルドの声は、欠伸まじりだった。
「そこの三人の仲間にしちゃ、上等すぎる。雇い主が違うな」
「おうよ。おれはあいつらとは無関係だ。ただの荷物待ち――」
言いかけた大男が、ガルドの顔を、まじまじと見た。
それから、心底おかしそうに、天を仰いだ。
「……おいおい、嘘だろ。剣聖崩しじゃねえか。あんたが出てくるような現場かよ、ここは」
ガルドの目が、すっと細くなった。
「……俺を、知ってるのか」
「有名だぜ、こっちの世界じゃ」
大男は悪びれもせずに笑った。よく通る、豪快な声だった。
剣聖崩し。表の世界には流れていない、裏の二つ名である。それを、この見知らぬ大男は、顔を見ただけで言い当てた。
こちらは相手を知らず、相手はこちらを知っている。
生垣の陰で、リオの背に冷たいものが伝った。
「なら、話が早い。その背負い袋の中身を見せな」
「それは困る。商品なんでな」
大男が背負い袋を揺すって見せると、袋の奥で、硝子の触れ合う涼しい音が小さく鳴った。
「生憎だが、怪しい荷物を検めるのが、今夜の俺の仕事でね」
ガルドが、す、と半歩出た。
そこからの数合を、リオは生垣の陰で、瞬きを忘れて見た。
ガルドの強さの芯は、力でも速さでもない。相手の呼吸と拍を読み切って、一番力の出ない瞬間にだけ入る――相手に、本来の力を一度も出させないことだ。
初手は、いつも通りそれだった。大男の呼吸の吸い際、体の重さが浮く半拍に、す、と間合いを詰める。学園の公開稽古で、あの騎士団帰りの教官すら四合で崩された、必勝の入りである。
大男は、崩れた。
崩れたが――倒れなかった。
崩れた姿勢のまま、立て直しもせずに、崩れた形のまま次の動きへ移ったのだ。傾いた足場で、傾いたまま働くことに慣れ切った体だった。
「ほう」
「はっは! 悪いな、足場の悪い現場は得意なんだよ!」
二合目、ガルドの手が大男の肘へ伸び、大男は肘ごと体を回して逃がした。三合目、砂。大男は目を瞑ったまま半歩下がり、腰のハンマーを抜いて、来もしない四合目に備えて構えた。
「……いい判断だ。見えない時は、下がって構える」
「そっちこそ! なあ、今の、何をしたんだよ! もう一回見せてくれよ!」
「……敵に教える馬鹿が、どこにいる」
四合、五合。
大男はよく凌いだ。凌いだが、五合の間、攻めには一度も転じられていない。転じる隙を、ガルドが一つも渡さないからだ。
やがて、大男は大きく跳び下がり、頭を掻いた。
「……ああ、こりゃ駄目だ」
その顔は、悔しがるというより、清々しく見切りをつけた顔だった。
「あんたと本気でやり合ったら、朝までかかる。うちは残業の手当が出ねえんだ。……それに、これ以上騒ぐと、待ち合わせの相手にも迷惑がかかる」
大男は背負い袋を肩から外すと、どさりと、その場に置いた。
「荷物はくれてやる。それで手打ちにしようや。追われながら塀を越えるのは、腰にくるんでな」
「気前がいいな」
「損切りが早いのが、長生きのコツよ」
言うが早いか、大男は腰の袋の鉱粉をばら撒いた。白い粉が月光にきらめいて、視界が一面、光の靄に沈む。
「今夜は貸しにしとくぜ、剣聖崩し! 今度は仕事抜きでやろうや!」
靄の向こうで、大きな影が塀を乗り越え、夜へ消えた。
靄が晴れた庭で、ガルドは追わなかった。追っても無駄だと、足音の消え方で分かったのだろう。
代わりに、彼は置き土産の背負い袋を、しばらく無言で見下ろしていた。
リオは生垣を出て、隣に並んだ。
「……今の人、何者ですか」
「道具を見たか。ノミに、ハンマーに、目くらましの鉱粉。ありゃあ発掘屋だ」
「発掘屋……冒険者とは、違うんですか」
「別物だ。冒険者は魔物を狩って稼ぐ。発掘屋は、遺跡やダンジョンに潜って、埋もれた遺物や鉱石を掘り出して運ぶのが稼業だ。崩れかけの現場で穴を掘って、値打ち物を無傷で持って帰る専門職よ。……足場の悪い場所であれだけ動けたのは、そのせいだ」
ガルドは、大男の消えた闇を顎で指した。
「気に入らねえ点は、三つある。一つ。発掘屋が、夜会の裏手で荷物待ち。二つ。あの野郎、『待ち合わせの相手に迷惑がかかる』と抜かした。――つまり相手は、この近くにいる。夜会の客か、使用人か、塀の外の別口か。……どのみち、ろくな筋じゃねえ」
「……三つ目は」
「俺の顔を、一目で言い当てたことだ。王都の裏の顔なら、こっちは大体割れてる。なのに向こうはこっちを知ってて、こっちは向こうを知らねえ。……外から来た組の人間だ。それも、情報のよく回ってる組の」
ガルドは背負い袋を拾い上げた。振ると、硝子の音が涼しく鳴る。
「検分は後だ。事務所で開ける。……妙な仕掛けがあると厄介だからな」
それから、転がした三人を顎で指した。
「こいつらの雇い主は、木戸の外で震えてた没落男爵だ。夜会を血で、なんて勇ましい文を書いた当人が、腰を抜かして命乞いだ。……書く方は威勢がいいんだよな、ああいう手合いは。縛って転がしてある。表の脅迫は、これで仕舞いよ。……だがな」
「あの発掘屋は、脅迫とは別口」
「そういうことだ。気に食わねえ夜だぜ」
ガルドは干し肉を齧り、塀の上をもう一度睨んだ。
表の事件は、あっけないほど綺麗に片付いた。
なのに、夜の底に、正体の分からない何かが一枚、残っている。
◇
会場に戻る前に、リオは捕縛の報告だけ聞いた。
ごろつき三人はあっさり吐いた。雇い主はゲルズ男爵。手付の金貨は真新しく、男爵は縛られながら泣き言まじりにこう言ったそうだ。
「わ、わしは悪くない……酒場で、親身に話を聞いてくださる御方がいて……あの家は酷い、想いを伝える権利がある、と……せ、餞別まで頂いて……お、お名前は、知らぬ……」
親身に話を聞く、名前の分からない御方。
餞別の、真新しい金貨。
嫌な符合だったが、今は考えている暇がない。リオは頭の隅にそれを置いて、給仕の顔で大広間へ戻った。
戻って、すぐに気づいた。
――匂いが、変わっている。
夜会の香りは、元々、香水と蝋燭と料理の海だ。その海の底に、いつの間にか、薄い薄い層が一枚、混ざっていた。
甘いような、焦げたような。
嗅ぎ覚えのある、あの匂いだ。厩舎のスナ。学園のガルフ。――ルヴィナの、眠り花の系譜。
また、あれが出た。それも、今夜、この会場で。
リオは盆を持ったまま、匂いの出所を探して歩いた。
厨房の廊下では、消える。料理ではない。燭台の下でも、変わらない。蝋燭でもない。客の香水なら人の動きと一緒に濃淡が動くはずだが、この層は会場全体に、均一に薄く漂っている。
つまり、誰かが、どこかから、ほんの少しずつ空気に混ぜている。香を焚く煙とは違う。もっと静かに、気化した何かが、絶えず薄く補われている。会場のどこにいても効くように、計算して。
分からないのは、その「どこか」だった。
ふと、ガルドが持ち帰った、あの背負い袋の硝子の音が頭をよぎった。中身の検分は、まだ済んでいない。
……考えすぎか。考えすぎで、あってほしい。
そして、大広間の照明が、ゆっくりと絞られ始めた。
余興二部の、開演の合図である。
庭園側の硝子戸が開き、拍手の中、宝石をまとった美しい鳥が、世話係に導かれて光の池に歩み出てくる。
ジュエルバードの、お目見えだった。
硝子戸の脇を通る時、付き添いの世話係の老人が、落ち着かなげに呟くのが耳に入った。
「……妙だな。楽屋を出る前から、今夜はどうも、そわそわしなさる……」
燭台の光を七色に返す飾り羽に、三百の仮面から感嘆の息が漏れる。
リオだけが、羽ではなく、目を見ていた。
静かで賢かった、あの目。
その瞳孔が――ゆっくりと、開き始めていた。
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