第13話 完璧なご令嬢(後編)
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第13話の後編です。
夜会まで五日となった日、リオはシェラと二人、ローウェン侯爵邸の下見に入った。
身分は、配膳業者の下働きである。歌劇団は夜会の余興に正式に呼ばれており、座長のシェラが「うちの若いのを配膳の応援に」と一筆入れるだけで、通行証は簡単に出た。表の顔と裏の顔が地続きの人は、こういう時に強い。
侯爵邸は、王都の東の丘にあった。
鉄柵の門から玄関まで、馬車で一曲聴けるほどの並木道。その先に、白い石造りの本邸と、夜会の会場になる大広間、そして庭園が広がっている。
「口、開いてるわよ」
「……閉じてます」
「開いてたわ。まあ、無理もないけど」
大広間は、リオの通う学園の講堂が丸ごと入る広さだった。天井には枝付き燭台が三つ。磨かれた床は歩く人間を逆さに映し、壁際には給仕の動線が影のように設計されている。
リオは、給仕のふりをして歩きながら、頭の中に図面を引いていった。
出入り口は大扉が一つ、給仕口が二つ、庭園へ出る硝子戸が四つ。バルコニーは二階に三つ。厨房から大広間までの廊下は一本道で、途中に配膳の中継室。死角は柱の陰と、楽団席の裏。
逃げ道と、追い道。守る時に見る場所は、いつも同じである。
「硝子戸の錠は」
「夜会の間は開け放しよ。庭園も会場のうちだもの。……ええ、分かってるわ。四つの戸には、うちの団員を配置しておく。楽器を持った立ち番だと思いなさい」
「バルコニーの蔦は、二階まで登れますね」
「あら、ほんと。よく見つけるわね。……庭師に頼んで、当日までに刈らせるわ」
シェラの手配は、話した端から埋まっていく。舞台の穴を潰す速さは、警備というより興行の速さだった。
「――あら、ご苦労さま」
不意に、鈴の音ほどの声がかかった。
振り向くと、廊下の先に、エリアナ・ローウェンが立っていた。
学園の制服ではなく、屋敷の昼のドレス姿。夜会の進行表らしき紙束を抱えて、家令と歩いてくるところだった。
心臓が、一拍跳ねた。
同じ学年の、同じ学園の生徒である。顔を見られれば、それで終わる――
「準備、大変でしょう。よろしくお願いしますね」
エリアナは、配膳業者の下働きに等しく微笑み、等しく会釈をして、通り過ぎていった。
それだけだった。
視線は一度もこちらの顔に留まらず、留まる理由もなく、完璧な礼儀だけを置いて、廊下の向こうへ消えた。
「……ね?」
隣でシェラが、扇子の陰で笑った。
「人はね、リオ。人の顔なんて見てないの。見てるのは、着てるものと、立場よ。給仕の服を着た人間は、貴族の目には『給仕』としか映らない。……悲しい話だけど、うちらの商売には、ありがたい話」
「本番は、仮面もありますしね」
「そう。それも、この家ならではの話でね――」
シェラは、大広間の壁の古い肖像画を扇子で指した。
描かれた先代の侯爵夫人は、目元に白い仮面を着けていた。
「ローウェン家のお披露目はね、代々、仮面の夜会なの。招待客も、楽団も、給仕も、全員が仮面。灯りを落とした真夜中に、主役のご令嬢だけが仮面を外して、素顔を披露する。それがこの家の式次第の、一番の山場」
「……全員、仮面」
「そ。『素顔を隠した三百人の中から、たった一つの素顔が生まれる夜』。演出としては最上級よ。何代も続く名物で、招待状が金貨で取引されるくらい」
風流な話である。
風流な話だが、警備の側から見れば、悪夢の様式でもあった。
「つまり当日は、招待客も、雇われた人手も、脅迫者の雇ったごろつきも、全員が仮面の中、ということですか」
「そういうこと。……だから、あなたたちが要るのよ」
シェラは扇子を閉じて、こつ、とリオの胸を突いた。
「顔が見えない夜会ではね、リオ。人は顔以外の全部で嘘をつくの。歩幅、肩の力、盆の持ち方、視線の切り方。……あなたには、それを読む目があるでしょ」
仮面の夜会で、仮面の下を読む。
今回の仕事の中身が、ようやく腹に落ちた。
◇
下見の帰り、庭園の端で、余興の檻を見た。
夜会の余興は二部構成で、前半が歌劇団の歌、後半が披露獣のお目見えだという。
檻の中にいたのは、息を呑むほど美しい鳥だった。
孔雀に似た体に、宝石を砕いて散らしたような羽。首の飾り羽は燭台の光を受けて七色に返り、羽を広げれば大広間の照明そのものが霞むだろう。ジュエルバード。南方の中型の魔物で、興行の世界では最高級の演目だそうだ。
「べっぴんさんでしょう」
世話係の老人が、目を細めて檻の掃除をしていた。
「気立ても良いんですよ。音にも光にも慣らしてあるし、人前は百回踏んでる。……ただ、匂いにだけは敏感でね。香の強いお客の前じゃ、機嫌が悪くなる」
「匂い、ですか」
「鳥は目と耳の生き物と思われがちですがね、この子らは鼻もいい。ま、夜会は香水の海だが、この広さなら薄まりますよ」
リオは檻の前にしゃがんだ。
ジュエルバードの目は、静かで、賢かった。据わりも、濁りもない、良い興行主に大切にされてきた獣の目だ。
目が合うと、鳥は首を傾げ、それから、しゃらり、と飾り羽を一枚だけ揺らしてみせた。
「……おや。気に入られましたな、お若いの」
世話係が、目を丸くした。
「この子が自分から羽を見せるのは、珍しい。本番でもそのくらい愛想を振りまいてくれると、良いんですがね」
リオは、檻越しに小さく会釈を返しておいた。当日、同じ会場で働く者同士である。挨拶は、しておくに限る。
――この子なら、大丈夫だな。
この時のリオは、そう判断した。
判断は、間違っていなかった。間違っていたのは、前提の方だった。
◇
夜会まで三日の晩、事務所で最後の作戦会議が開かれた。
卓を囲むのは、グラント、シェラ、リオ。そして、壁にもたれて串の干し肉を齧る、ガルドである。
「外の報告だ」
ガルドは、干し肉で王都の地図の一点を指した。
「男爵の周りに、人が集まり始めた。安酒場で三人。質の低いごろつきだ。仕事の話をする時だけ、声が小さくなる」
「実行は」
「夜会の晩で間違いねえだろう。狙いは庭園側だ。塀の東に、庭師しか知らねえ古い木戸がある。……のを、なぜか知ってやがる」
「内通か、金で買った情報か」
「どっちにしろ、雇い金の出どころが見えねえのが気に食わねえ。没落男爵の財布から出る額じゃねえんだよ、人を三人雇うってのは」
羽振りの謎は、まだ解けないままだった。
「まあいい。外は俺が全部刈る。木戸の内側で、一人ずつ静かにな。……お前は中だ、リオ。中で何かあった時だけ、鈴を鳴らせ」
「ガルドさんは、中には」
「入らねえ」
ガルドは、心底嫌そうな顔をした。
「着飾った人間の群れってのは、読みにくいんだよ。酔っ払いには型がねえ。……ああいう場所は、舞台屋の領分だ」
「あら、分かってるじゃない」
シェラが扇子を開いた。
「中は任せて。歌って、視て、糸を張っておくわ。リオは給仕で泳ぎなさい。給仕というのはね、あの会場で一番自由に動ける立場なのよ」
「……以上だ。何か言うことは」
会議の締めに、グラントは卓の三人を見回し、それから、柄にもなく一つ付け足した。
「依頼書の、最後の一行を覚えてるな。手書きのやつだ。……あの一行の分まで、働け」
娘の夜を、守ってほしい。
様式違反の一行は、この帳の主にも、効いていたらしい。
布陣は、固まった。
外はガルド。中の上はシェラ。中の下を、リオ。
守りの網としては、これ以上ない編み目だった。
◇
前日の稽古は、仕上げだった。
仮面を着け、給仕の正装で歩く。盆、歩幅、半拍の返事。シェラの検分は一周ごとに細かくなり、そして最後に、妙な稽古が加わった。
「じゃ、最後。一番大事なやつね」
シェラは衣装部屋の反対側へ歩いていき、こちらに背を向けたまま、不意に言った。
「――リオ」
リオは、振り向いた。
「はい、死んだ」
「……あ」
「本番でそれをやったら、終わりよ。仮面の下の名無しの給仕が、なんで『リオ』に振り向くの?」
ぐうの音も出なかった。
名前を呼ばれて、振り向かない稽古。言われてみれば当然で、やってみれば存外に難しい。人間の耳は、自分の名前にだけ、恐ろしく良くできている。
「リオ」
振り向かない。
「リーオ」
振り向かない。
「……リオちゃん」
「その呼び方はやめてくださいって」
「はい、死んだ。今の引っかけよ」
合格が出たのは、四十回を超えてからだった。
仕上げに正装一式を着け、仮面を着けて、姿見の前に立つ。
鏡の中には、知らない給仕が一人、立っていた。眠そうな学生は、どこにもいない。
「うん、上出来」
シェラは満足そうに頷き、扇子の先で鏡の中の給仕を指した。
「今夜のあなたは、その人よ。名前はない。素顔もない。あるのは、盆と、半拍の返事だけ。……いける?」
「いけます」
知らない男の声が、そう答えた。
◇
そして、当日が来た。
夕刻の侯爵邸は、灯り入れの真っ最中だった。並木道に篝火が点き、大広間の枝付き燭台に、係の者が長い竿で火を移していく。
本邸の二階、ひときわ明るい窓に、一瞬だけ人影が立った。
支度の途中らしい、結い上げた髪の細い影。影は窓辺で夜会の庭を見下ろし、それから、何かを振り切るように部屋の奥へ消えた。
今夜の主役の緊張は、窓明かり越しにも伝わってくる。
何も知らされていない主役の、である。
裏門には、配膳業者と楽団の荷馬車が列を作っていた。リオはその列の中に、白い仮面の給仕として紛れ込んでいる。
喉のあたりが、すう、と冷たい。声は、もう自分のものではない。
列の先、表門の方で、ひときわ上品な馬車が停まるのが見えた。
降りてきたのは、若い男だった。
仕立ての良い、しかし華美ではない礼服。手には目元だけの黒い仮面。男は御者に何事か声をかけ、御者が笑い、それから荷下ろしの使用人にまで丁寧に会釈をして、招待客の入口へ歩いていった。
途中、荷下ろしの下働きが木箱を取り落とし、中身の燭台が石畳に散らばった。
男は、迷いなくしゃがんだ。
礼服の膝を石畳について、下働きと一緒に燭台を拾い、最後の一本を箱に収めて、青くなっている下働きの肩を軽く叩いて笑った。周りの使用人たちの間に、ほっとした空気が広がるのが、遠目にも分かった。
物腰の柔らかさ、というより――あれは、体に染みついた性分だ。
──あれが、たぶん。
シラード商会の若当主、エルム・シラード。
悪い噂が一つもない、という男。
第一印象は、シェラの言った二種類のどちらとも、まだつかなかった。ただ一つ、確かなことがあるとすれば。
……本当に、感じのいい人だな。
それだけだった。
夜会の幕が、上がる。
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