第13話 完璧なご令嬢(前編)
お読みいただきありがとうございます。
今回から、少し大きな話が始まります。
アルフェン高等技能院には、有名人が何人かいる。
剣術科の主席。嵐鷲のヴァンス。最近では牙狼のダリオも、査定の一件からこっち、妙な人気者だ。
だが、学年を越えて名前の通り方が別格なのは、たぶんこの人だろう。
エリアナ・ローウェン。
魔法科の一年。ローウェン侯爵家の一人娘である。
昼の中庭を、彼女が歩いていく。
背筋は糸で吊ったようにまっすぐで、歩幅は一定、髪は光をまとって揺れる。すれ違う生徒に等しく微笑み、教師には完璧な角度の会釈を返す。取り巻きは常に三人。笑い声は鈴の音の大きさを、一度も超えない。
「見ろよ、ローウェン様だ。今度の夜会、すげえらしいぜ」
食堂で、カイルがパンを咥えたまま言った。
「夜会?」
「社交界のお披露目ってやつ。侯爵家の一人娘が十五になると、家がでっかい夜会を開いて、偉い人たちにお披露目すんだよ。王都中の貴族と大店が招ばれるってさ」
「詳しいわね、カイル」
「食堂のおばちゃんが言ってた。夜会の料理の下請けに、街の菓子屋が総動員されてるって。……いいよなあ、夜会。食い放題なんだろ、ああいうの」
「あなたの夜会の知識、食べ物だけなの」
セナの正論はさておき、リオも遠目に、その有名人を眺めた。
完璧なご令嬢、という言葉を人の形にしたような姿だった。
一度だけ、中庭で下級生が石畳につまずいて転んだことがある。あの人は取り巻きの誰より早く半歩、動きかけて――止まった。駆け寄ったのは取り巻きの方で、彼女は完璧な角度の心配顔で、その後ろに立っていた。
侯爵家の令嬢は、往来で膝をついたりしない。しては、いけないのだろう。
半歩の速さと、止まり方の硬さだけが、リオの目に残った。
――が。
その数日前、リオは偶然、別の横顔を見ている。
放課後の渡り廊下の陰で、彼女は初老の家令らしき男と立ち話をしていた。声は拾うつもりもなかったが、リオの耳は質が悪い。
「……招待客の変更は、もうできないの?」
「旦那様が、お決めになったことですので」
「そう。……そうよね」
「お嬢様のお気持ちは、旦那様も分かっておいでです。ですが、商いの筋というものが」
「いいの。忘れて。……わがままを言ったわ」
中庭で微笑んでいる顔と、同じ人のものとは思えない、硬い横顔だった。
人には、色々ある。
リオはいつも通りそう思って、いつも通り、忘れることにした。
忘れられなくなるのは、その週の終わりである。
◇
金曜の放課後、図書館の返却本に薄紙が挟まっていた。
『大口の依頼。今夜、事務所へ。時間をかけて話す』
時間をかけて話す、と書いてあるグラントの手紙は、初めて見た。
夜の事務所で、帳の主は珍しく書類の山を脇へ退け、一枚の書状を机の真ん中に置いた。
「読め」
上等な紙に、切り抜いた活字を貼り並べた文面が、こうあった。
『夜会ノ夜、ローウェンノ庭ハ血ニ染マル。娘ノ晴レ着ニ、喪ノ色ヲ』
「……脅迫状ですか」
「三日前、侯爵家の門に矢文で届いた。依頼主はローウェン侯爵家。筋はヴェイル財団経由だ」
グラントは、順を追って話し始めた。時間をかけて話す、の意味が分かった。今回は、背景から頭に入れておけということだ。
「まず、ローウェン侯爵家がどういう家か。王都の流通と関税に、代々顔が利く商務の名門だ。王都で商いをする人間なら、大店から露天商まで、あの家の決めた枠の中で商売をしてる。そして、うちの元締めであるヴェイル財団にとっては、最も古い後援者の一つでもある」
「つまり、断れない筋の依頼」
「そういうことだ。で、次。なぜ狙われるか」
グラントは指を一本立てた。
「三月ほど前、侯爵家はある納入元との取引を切った。ゲルズ男爵家。先代からの付き合いで、領地の織物を夜会や式典に納めてきた家だ。……ところが今の代になって、質が落ちた。落ちただけならまだしも、余所の安い織物に自領の刻印を打って納めてた。産地偽装だ」
「見抜いたのは」
「侯爵家の目利きだ。あの家は商務の名門だと言ったろう。偽装を見抜いて、静かに取引を切った。表沙汰にはしなかった。しなかったが、この業界は狭い。ゲルズ男爵家が侯爵家に切られたという噂だけで、他の取引も潮が引くように消えた。男爵家は、事実上の没落だ」
「……それで、逆恨みの脅迫、という見立てですか」
「線としては一番濃い。文面も見ろ。活字の切り貼りにしちゃ、言葉の選びに教養が残ってる。喪ノ色、なんて言い回しは、ごろつきの語彙じゃねえ」
グラントは脅迫状を指で叩いた。
「だが、濃いだけで証拠がねえ。ガルドに三日、男爵を張らせた。本人は落ちぶれて昼から酒場通いだ。……ただ、一つだけ妙な話がある」
「妙な話」
「没落したはずの男の、酒代の払いだけが、最近になって良くなってる。誰かが小遣いを渡してるとしか思えねえ羽振りだ。相手の顔は、まだ割れてねえ」
「……脅迫の、後ろ盾ですか」
「かもしれん。ただの同情の施しかもしれん。分からんから、気持ち悪い。かといって――」
「夜会は、中止にできない」
「できねえ。娘のお披露目だ。侯爵家の格そのものの興行で、延期しただけで『脅しに屈した』と社交界に読まれる。警備を派手に増やすのも同じ理由で駄目だ。物々しい夜会は、それだけで負けなんだとよ」
貴族というのは、面倒な生き物である。
「そこで、うちだ」
グラントは、依頼書をこちらへ滑らせた。
『夜会の進行を、何事もなく終えること。手段は問わない。窓口の関与は、当家の誰にも悟られぬこと』
いつもの文言形式に、今回はもう一行付いていた。
『娘には、何も知らせていない。娘の夜を、守ってほしい』
最後の一行だけ、活字ではなく、手書きだった。依頼書の様式としては、たぶん違反である。
「……依頼主も、親なんですね」
「そういうことだ」
グラントは、布陣を告げた。
「中はシェラと組め。お前は給仕で会場に入る。外はガルドに回す。脅迫の実行があるなら、人手は外から来る。外の人間は、全部あいつが刈る」
「シェラさんと、ガルドさんまで」
ナンバーズ二枚看板の同時投入である。依頼の格が、金額よりも布陣で分かった。
「それと、お前の顔だが」
グラントは抽斗から、布包みを机に置いた。
開くと、白い仮面が入っていた。目元を覆う夜会用の意匠で、縁に細い銀糸。内側の喉のあたりに、見覚えのある刺繍の紋様が縫い込まれている。
「シェラの工房の、夜会仕様だ。声も変わる。……侯爵家の令嬢は、お前の学園の生徒だそうだな」
「……同学年です。組は別ですが」
「なら、言うことは一つだ」
「バレるな、ですか」
「話が早くて助かる」
毎回この流れで負けている気がするが、今回ばかりは、リオも異論がなかった。
あの完璧なご令嬢の夜会に、同じ学年の眠そうな男が給仕で紛れ込む。バレて良いことは、一つもない。
◇
翌日の昼、脅迫状の写しは図書館の貸出台の上にあった。
白紙先生は、写しではなく現物も検分済みらしい。返却本を受け取る手つきのまま、彼女は淡々と読み上げた。
「紙は南方屋の上物の書簡紙。インクは古い瓶の底の乾き方。貼ってある活字は、二十年前の版の聖典から切ったもの。……金はないが、昔の上等なものが家に残っている人物です」
「教養のある、没落者」
「ええ。それと、矢文の矢。狩りの矢ではなく、的当て競技用の矢でした。武人の手ではありません。……ご本人に、人を傷つける腕はないでしょう」
「なら、脅しだけで終わりますか」
「腕がなくても、金で人は雇えます」
白紙先生は、次の返却本に判を押した。
「羽振りが戻っているのなら、なおさら」
どこまで話が通っているのか、この人に聞くだけ無駄である。
◇
その日の放課後から、支度が始まった。
場所は歌劇団の衣装部屋。師匠は、言うまでもない。
「聞いたわよぉ、リオ。今度は夜会ですって?」
シェラは衣装の海の真ん中で、実に楽しそうに手を叩いた。
歳のころは、三十にも四十にも見える。深い葡萄色の長い髪をゆるく結い上げ、切れ長の目元には、いつも少し笑いが残っている。背が高く、立っているだけでそこが舞台の中央に見える人で、手にした扇子の先ひとつで、人の視線を右にも左にも動かしてしまう。
歌劇団の座長、という肩書きが服を着て歩いているような人である。
「いいわねえ、夜会。舞台としては最上よ。照明は蝋燭、客は全員着飾って、誰もが誰かを演じてる。……ああいう場所ではね、リオ。素顔の人間が一番目立つの」
「素顔じゃ駄目なんですか」
「駄目よ。だから、あなたには完璧な給仕になってもらうわ」
シェラは銀の盆を一枚、リオの手に載せた。
「盆は指四本で支える。肘は張らない。歩幅は靴一足分、爪先から置く。視線は客の襟元、目は合わせない。合わせていいのは、呼ばれた時だけ。――はい、歩いて」
歩いた。
「歩幅」
直した。
「肘」
直した。
「あくび噛まない」
「……はい」
笛の稽古の時から思っていたが、この人の教え方は、ガルドの次に容赦がない。
盆の次は、呼ばれ方の稽古だった。
「おい、給仕」
「はい」
「遅い。呼ばれてから振り向くまで、半拍。速すぎても駄目よ、聞き耳を立ててた給仕になるから。――おい、給仕」
「はい」
「今度は速い。もう一回」
半拍の速さを体に入れるまで、四十回かかった。
三周目で盆の上の杯が鳴らなくなり、稽古の終わりに、シェラはようやく頷いた。
「よし。体は覚えが早いのよね、あなた。……じゃ、次。名簿のお勉強よ」
◇
衣装部屋の机に、招待客の名簿が広げられた。白紙の司書経由で届いた写しである。
「招待客は三百と十二人。全員は覚えなくていいわ。覚えるのは、注意する筋だけ」
シェラの指が、名簿の上を滑っていく。
「ゲルズ男爵の縁者はいない。当然ね、切られた家だもの。旧知の家、商売敵の家、それから――」
指が、ふと、一つの名前の上で止まった。
「……あら。この人も来るのね」
「誰ですか」
「エルム・シラード。シラード商会の若当主よ」
聞いたことのない名前だった。リオの顔を見て、シェラは補足を足した。
「あなたが知らないのも無理ないわ。新しい商会なの。南方交易で身を起こして、この五年で王都に店を三つ。若当主は歳のころ二十半ば、物腰は柔らかで、寄付と慈善に気前がよくて、社交界じゃちょっとした人気者。去年の西区の火事の時は、真っ先に義援の荷を出したそうよ」
「……良い人そうですね」
「そうね。悪い噂を、一つも聞かないわ」
シェラは名簿を眺めたまま、扇で口元を隠した。
「でもね、リオ。覚えておきなさい。悪い噂が一つもない商人というのは、二種類しかいないの」
「二種類」
「本物の善人か――噂を、買い取れる金持ちか」
衣装部屋の蝋燭が、ゆらりと揺れた。
「どっちなんですか、その人は」
「さあ。……夜会で、顔を見てみましょ」
夜会まで、あと六日だった。
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