幕間 西の主の思案
お読みいただきありがとうございます。
今回は少し変わった、とある魔物の視点の幕間です。
本編は次回から再開します。
わしは、西の霧山の主である。
大角鹿、と人間どもが呼ぶ生き物の、いちばん古くていちばん大きいのが、わしだと思ってもらえばいい。角は左右に張り出して若木ほどもあり、この角で退かせなかった相手は、もう二十年はおらん。
主というのは、別に偉いわけではない。その山にいちばん長くおって、いちばん強いのが、そう呼ばれるだけのことだ。仕事は一つ。山の勝手が壊れんように、目を配ることである。
長く生きた。
左の後ろ足には、若い頃に人間の罠で貰った古傷がある。雨の前になると、今でも疼く。わしの人間嫌いは、頭で覚えたものではない。体で覚えたものだ。
さて、長く生きると、山におっても、余所の話がよう届くようになる。
尾根の塩舐め場には季節ごとに諸方の獣が寄るし、渡りの鳥は北と南の便りを運ぶ。川は川で、水系づたいに水獣どもの話を上らせてくる。人間は知らんだろうが、山と山とは、そうやって繋がっておるのだ。
さて。
近頃、その便りの中に、妙な話が混じるようになった。
人間の話である。
先に言うておくが、わしは人間が好かん。奴らは山に罠を張る。火を焚く。煙を流す。話が通じん。通じんくせに数だけは多い。関わらんのが一番の相手だと、わしは百年かけてそう学んだ。
その人間の話が、近頃、やけに届くのだ。
しかも、どの話も、様子がおかしいのだ。
◇
最初の便りは、渡りの雁が運んできた。
東の山で、主同士が睨み合いになったという。
古い主の山に、北から流れてきた若い大物が入った。よくある話だ。そしてよくある話の常で、行き着く先は殺し合いと決まっておる。山が一つ荒れて、勝った方も傷を負って、冬を越せずに終わる。ああいうのは、勝っても負けるのだ。
ところが、だ。
「殺し合いには、ならなかった」
と、雁は言う。
「間に、人間が立った」
「……人間が?」
「二晩目の夜に山へ入ってきて、古い主と若いのの間を、朝まで行ったり来たりした。それで話が、ついた」
わしは、聞き間違いかと思った。
主同士の睨み合いの間に立つ。それは、両方の牙の届く場所に立つということだ。人間がやれば、挽き肉になる仕事である。
「若いのは、山二つ向こうの空いた谷を貰った。人間が、実際に歩いて案内したそうだ。水場と、餌場と、冬の風の向きまで見せて回ったと」
「古い主の方は」
「顔が立った。『若いのは自分から出ていく』という形に、人間がしてくれたのでな」
両方の顔を立てて、山を一つも荒らさずに収める。
群れの長でも、なかなかできん裁きである。
「……どこの、何者だ。その人間は」
「それがな」
雁は、羽づくろいをしながら言った。
「子供よ。それも、いつも眠そうな顔をした、ひょろりとした子供」
子供。
わしは、しばらく黙った。
話の分かる人間がいる。それだけでも御伽噺だというのに。
しかも、子供だという。
◇
次の便りは、川を上ってきた。
王都とやらの大きな橋の下に住み着いた水獣の話である。
こやつは背中の鱗の生え替わりで、夜ごと橋の桁で背中を掻いておったらしい。それが人間どもに「橋の幽霊」と騒がれた。騒がれれば、次に来るのは槍と網だ。哀れなことよ、と聞いておったら、話は思わぬ方へ転がった。
「槍は、来なかった。代わりに、人間の子供が川に入ってきた」
「入って、どうした」
「背中を、掻いてくれたそうだ」
「…………」
「胸まで水に浸かって、生え替わりの掻き残しを、ひとところずつ丁寧に。それから、川底のちょうどいい岩場まで教わったと。……今では毎晩そこで背中を擦って、橋はもう鳴らんそうだ」
人間が、水獣の背中を流す。
わしの百年の知恵の、どこを探しても、そんな話は載っておらん。
「その子供、眠そうな顔をしておらなんだか」
「よう知っておるな。あくびを噛みながら掻いてくれたそうだ」
同じ子供である。
◇
三つ目の便りは、街道筋の犬どもの噂だ。
山賊に飼われて、旅の者を襲わされていた犬が三頭おった。それがある夜を境に、そろって鞍替えをしたという。
「今は大きな商家の倉庫番だ。屋根の下で寝て、飯は日に二度。仕事は吠えるだけ」
「……鞍替えのきっかけは」
「襲った相手が、悪かった。眠そうな子供でな。走りながら目が合った途端、先頭の一頭が『こっちの雇い主の方が条件がいい』と寝返った」
「条件で寝返ったのか」
「約束の干し肉も、その場で耳を揃えて払われたそうだ。……あの子供、払いが律儀だと、犬どもの間じゃ評判よ」
なお、腕の方も聞いた。
西の山仲間の、あの大猪の爺――灰をまぶしたような毛並みの、気難しいので有名なあやつが、一度その子供と山でやり合ったらしい。
「どうだった」
「わしの突進をな」
大猪は、忌々しそうに、しかしどこか楽しそうに鼻を鳴らした。
「紙一枚の半歩で、流しよった。二の突きの前に、こちらの苛立ちの底まで読まれた。……気づいたら寝不足の愚痴を聞いてもらって、食料庫を一つ貰って、手打ちよ」
「勝ったのか負けたのか、分からん話だな」
「わしにも分からん。分からんが、悪い気はせなんだ」
話が通じて、腕も立つ。
いよいよ、御伽噺めいてきた。
◇
極めつけは、南へ渡る鳥どもの目撃談である。
王都の北西の谷に、妙な牧場があるという。
柵の中に、行き場のない獣ばかりが集められた谷が。
「上から見たがな。鎖の痕のある大蛇が、日向で腹を出して寝ておった。あれは飼われて肥えた艶だ」
「灰色の狼が二頭、人間の手のひらから飯を食っておったぞ。あの手つき、狼の方から寄っていっとった」
「闘技場の匂いの染みた山猫もおったな。あれが、誰に追われるでもなく、意味もなく走り回っておった。……ああいう走り方は、幸せな獣しかせん」
「それとな、主どの。脚を一本失くした若い鹿がおった。革の義足を誂えてもらって、三本と一本で、跳ねて遊んでおったよ」
……鹿と聞いては、他人事ではない。
脚を失くした鹿は、山では冬を越せん。それが跳ねて遊んでおるという。
鎖の痕。闘技場の匂い。
どれも、人間に壊された獣の印だ。
その壊された獣どもが、人間の谷で、毛並みを取り戻しておるという。
壊すのも人間なら、直すのも人間か。
都合のいい話だ、と鼻を鳴らしかけて、やめた。
罠を張る足と、背中を流す手が、同じ生き物の中にあるだけの話だ。考えてみれば、獣とて同じこと。山を荒らす若造もおれば、山を保つ主もおる。
わしは、塩舐め場の岩の上で、長いこと考え込んだ。
◇
整理しよう。
王都とやらのあたりに、話の分かる人間がおる。
それも、子供だ。
主二頭の間に立って山の裁きをやり、水獣の背を流し、犬の雇い替えに立ち会い、払いは律儀で、あの気難しい大猪の突進を紙一枚で流す腕を持ち、壊れた獣の行き着く谷に出入りしておる。
……眠そうな顔で。
百年生きて、人間は関わらんのが一番と学んだわしの知恵が、この歳になって、初めて揺らいでおる。
ときに。
ここからは、わし自身の話だ。
近頃、右の奥歯が痛い。
齢のせいで根が緩んでおるのだ。堅い木の実が噛めん。冬ごもり前に食い溜めができんのは、わしの図体には、笑い事ではすまん話である。
山の獣に、歯は治せん。
塩を舐めても、痛みは引かん。
さて、どうしたものか。
わしは岩の上で角を一度振り、西の空の向こう、人間の国のある方角を、長いこと眺めた。
「……困ったら、人間の国に行ってみるのも、面白いかもしれんな」
むろん、わしの図体で街道を歩けば、人間どもは腰を抜かすだろう。夜に、山伝いに行けばよい。急ぐ旅でもなし、噛める木の実を探しながら、ゆるりとな。
着いた先で、あの眠そうな子供とやらが、どんな顔をするか。
それを見るのも、長生きの余禄というものだ。
霧山の主が山を降りたのは、それから半月ほど後のことである。
が、それはまた、別の話。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
次回から本編を再開します。
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