第12話 三歩と一歩 〜夜の何でも屋と、朝の座学〜
その週、リオは働いた。
月曜の夜は、侯爵家の酒蔵から、熊を運び出した。
冬眠場所を探していた大熊型の魔物が、よりにもよって秘蔵ワインの樽の谷間で丸くなってしまったのである。起こせば樽が割れる。割れれば屋敷が泣く。リオは半分眠ったままの巨体を、蜂蜜の匂いと歩く順路だけで蔵の外まで誘導し、樽は一つも割れず、熊は郊外の岩穴で冬眠の続きに入った。依頼書の品目欄には「熊(就寝中)の搬出」とあった。何の品目だ。
水曜の夜は、王都の大橋の怪奇現象を解決した。
夜ごと大橋が軋み、うめき声を上げるというので、幽霊騒ぎになりかけていた。正体は、橋桁の下に住み着いた大型の水獣である。背中の鱗の生え替わりが痒くて、毎晩、橋の桁で背中を掻いていたのだ。リオは川に胸まで浸かって痒い場所の掻き残しを世話してやり、川底のちょうどいい岩場を教えた。翌晩から、橋は鳴らなくなった。幽霊の正体が「背中の痒い大きい子」だったことは、依頼主の橋守だけが知っている。
金曜の夜は、山だった。
東の山で、老いた山の主と、余所から来た若い大物の睨み合いが三日続き、麓の村が眠れないという。戦になれば山が荒れる。リオは両者の間を朝まで行き来して、若い方には山二つ向こうの空いた良い谷を実際に案内し、老いた主には「若いのは出ていく」と先に伝えて顔を立てた。夜通し山を三つ越えて、仲裁が済んだのは空が白む頃だった。
つまり、朝まで山を走り回っていた。
そして土曜の一限は、契約術の座学だった。
結果は、言うまでもない。
「アルクスさん。今日のは、居眠りの域を越えていました。三回、机から落ちかけていましたよ」
放課後の廊下で、クラリスの説教が始まった。腕を組んで、背筋はまっすぐ。いつもの仁王立ちである。
「せめて落ちない姿勢で寝てください。……ではなくて、寝ないでください」
「善処します」
「その返事で善処された例を、私はまだ知りません」
クラリスはきっぱり言い、それから、すれ違いざまに、ふ、と声を落とした。
「……バイトも、ほどほどにね」
小さく笑って、委員長は歩いていった。
昨夜の山の朝焼けを知っているような笑い方だった。無論、知っているのは「夜に働いている」ことまでで、中身までではない。ないのだが、あの笑い方は心臓に悪い。
「……なあ」
一部始終を見ていたカイルが、セナに囁いた。
「委員長ってさ、最近リオに優しくねえか? 前はもっとこう、ばちばちに説教してたのに」
「…………そうね」
セナの相槌は短く、目は細かった。
リオは、聞こえなかったことにして、あくびを一つ噛み殺した。
◇
日曜は、休みだった。
正真正銘、依頼のない休日である。
で、あるからして。
「あら、来たわね。ちょうど良かった、東の柵の杭が二本緩んでるの」
「……おはようございます」
リオは第十三厩舎、もとい牧場にいた。
「じゃあその次ね」と言われた、その次の休みが来てしまったのだ。あの人の誘いは断れる形をしていない。
秋の深まった谷は、朝の光で金色だった。
放牧地では顔ぶれが増えている。義足の鹿型の子は革具が新調され、翼の折れた大鳥は相変わらず歩くのが速い。療養柵のガルフは退院間近で、毛並みに飯と眠りの艶が戻っていた。ダリオが昨日も刷毛を持って通ってきたと、ミラが笑っていた。
スナは、変わった。
初めて会った夜の、あの血走った目はもうない。リオを見つけると、のそりと歩いてきて、飯の桶と人の顔を交互に見る。
「まだ朝飯の時間じゃない」
交互に見る。
「……分かった。半分だけ」
押しに弱い、と自分でも思う。だが、飯を催促できるようになった獣は、もう大丈夫な獣だ。闘技場の番号だった頃のこの子は、飯を待つことしか知らなかったのだから。
それに先週は、生まれて初めて「意味もなく走った」と、ミラが嬉しそうに報告してきた。号令もなく、敵もいない、ただ走りたいから走る走り方を、この子は大人になってから覚えたのである。
チェーンスネークは池のほとりで日向ぼっこをしていて、リオを見つけると当然のように滑ってきて、当然のように膝に頭を載せた。
重い。相変わらず、膝が抜けるほど重い。
「……お前、また太っただろ」
太ったのは、ミラのせいである。
◇
昼前、荷馬車が谷に入ってきた。
御者台からソルが手を振っている。配達係の、あの明るい青年だ。荷台にはもう一人、大柄な男が腕を組んで座っていた。白い調理着に、癖の強い赤毛。ロンド亭のバルカである。
「リオくん、おっす! 今日は療養食の配達! あ、それとこれ、いつもの!」
御者台から投げてよこされたのは、案の定、干し芋の包みだった。
「……ソルさん。樽、まだ半分残ってるんですが」
「じゃあ食べるの手伝いますよ! 俺、干し芋なら無限にいけるんで!」
礼に持ってきた本人が食べるのなら、世話はない。
「バルカさんまで、直々にですか」
「療養明けの飯は、最初のひと口で決まんだよ」
バルカは荷台から鍋を三つ降ろしながら、当然のように言った。
「スナの回復食と、ガルフの退院祝いと、ついでに大蛇の減量食だ」
減量食、のあたりで、池のほとりの巨体がわざとらしく水に潜った。聞こえているのである。
昼は、そのまま牧場の炊き出しになった。
バルカの療養食は、獣たちが桶に頭を突っ込んで尻尾しか見えなくなる出来で、人間用に振る舞われた賄いも、リオの語彙では「うまい」以外に言いようがなかった。
「だろが」
バルカは満足そうに笑い、ミラは三杯目をよそっていた。
リオは、少し離れた柵の際に自分の椀を持って座った。
いつもの、あの区画の前である。
◇
ガロとジドは、柵の際にいた。
いつもの遠い隅では、もう、ない。
リオが座ると、二つの灰色は少しの間こちらを窺って、それから、ゆっくりと近づいてきた。
そして、一歩の距離で止まった。
三歩ではない。息のかかる、一歩の距離だ。
ガロが座り、半拍遅れてジドが座る。
この一歩のために、リオは休みのたびにここへ来て、昼寝をし、本を読み、たまにどうでもいい話をした。厩舎の飯の話。学園の売店のパンの話。返事は一度もなかった。なかったが、二対の耳だけは、いつもこちらを向いていた。
何もしない時間を、ひと月ぶん重ねて、二歩縮んだ距離だった。
リオは椀を置き、干し肉を二切れ、手のひらに載せた。
置くのではなく、載せたまま、動かさない。
長い間があった。
先に動いたのは、ガロだった。
鼻先が近づき、匂いを確かめ、それから――生まれて初めて、人の手のひらから、飯を食べた。
続いて、ジドも。
温かい鼻息が、手のひらに二度、触れた。
「……そうか」
それだけ言って、リオはあとを続けなかった。この二頭の前で大袈裟にすると、また距離が戻る。何でもない顔で、何でもないことのように、椀の続きに戻る。
柵の向こうで、足音が静かに止まった。
ミラだった。
彼女は何も言わず、二頭を見て、それからリオを見て、小さく頷いた。
「――今なら、通るわね」
リオにだけ聞こえる声だった。
ミラが手をかざす。目には見えない、髪より細い糸が、二本。
ガロが、耳を一度だけ動かした。ジドは、干し肉の匂いの残る手のひらを、まだ嗅いでいた。それだけだった。気づかれもしない、細い細い糸が、確かに通って、結ばれた。
「……五十一本が、五十三本になったわ」
ミラの声は、いつも通りの調子で、いつも通りではなかった。
「これで夜中に腹を壊しても、雨の日に古傷が疼いても、すぐ分かる。……長かったわね、あんたたち」
二頭は、素知らぬ顔で伏せていた。
選び直したのだ。この場所と、ここの人間を。時間はかかったが、牧場は逃げずに、ここにあった。
「手伝いに呼んだ甲斐があったでしょう」
「ええ。……悔しいけど、あなたの何もしない時間は、うちの誰より効くのよね」
ミラは笑って、空になった椀を回収していった。
◇
午後、柵の杭を打ち直していると、荷積みを終えたソルとバルカの話し声が、風に乗って流れてきた。
聞くつもりはなかったが、リオの耳は、拾ってしまう質である。
「――で、バルカさん。前から不思議だったんですけど」
「あん?」
「リオくんって、番号、ないんですよね。あれだけ何でもできるのに。俺、てっきりナンバーズの人だと思ってました」
槌の手が、止まりかけて、止まらなかった。
番号。そういえば、考えたこともなかった。
「…………」
バルカの返事は、一拍、遅れた。
「……まだ、早いんだよ」
「早い? 実力の話ですか? それとも歳の――」
「ほれ、鍋を縄で縛れ。帰りに転がったら弁償だぞ」
「え、俺が弁償!?」
話は、それで終わった。
まだ早い、の意味は分からなかったが、聞き返すほどの興味も湧かなかった。番号というのは大人の話で、こちらは杭を打つ係である。
ただ、荷馬車が出ていく時、御者台のバルカがこちらを一度だけ振り返って、なんとも言えない顔で片手を上げたのは、少し珍しいことだった。
◇
日暮れ前に、牧場を出た。
「また休みに来なさい。次は西の柵よ」
「……次の休みこそ、一日寝ます」
「ええ、どうぞ。――で、来るのは朝? 昼?」
「…………昼に」
「昼ね。賄い、多めに作っておくわ」
寝ると言いながら結局来る側も、来ることを一秒も疑わない側も、もうお互い様なのだった。
眠り鹿の宿に帰ると、食堂にスープの匂いが満ちていた。
「おかえり。ちょうどいいところに帰ってきたね」
マルタが、湯気の立つ椀を置いた。
見慣れない色のスープだった。金色の汁の中に、見覚えのある切れ端が沈んでいる。
「……これ、まさか」
「干し芋のスープ。研究の成果だよ。樽の三分の一を費やしたからね、責任持ってお食べ」
恐る恐る、一口。
「…………うまい」
「だろう」
マルタは腰に手を当てて、勝ち誇った。芋の甘みが出汁に溶けて、疲れた体に染みる味だった。ソルの礼の樽は、思わぬ形で宿の新名物になりつつあるらしい。
二杯目をもらって、部屋に上がる。
窓の外は、もう暗い。
机の上には、夕方までなかったはずの、灰色の封筒が一通、置かれていた。
開くと、いつもの一行である。
『明日の夜。詳細は事務所』
「…………今日、じゃないんだな」
今夜のうちに来い、と書かない程度の良心は、あの手紙にもあるらしい。
リオは二杯目のスープを飲み干して、寝台に倒れ込んだ。
明日の夜までは、たっぷり眠れる。文句のない話だった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
面白い、続きが気になると思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想をいただけると励みになります。
次回もよろしくお願いいたします。




