第11話 叩き上げの男(後編)
演習場は、悲鳴と怒号で膨れ上がった。
「生徒は下がれ! 観覧席の後方へ! 走るな、順に動け!」
マリウス教官の声が場を割る。教官自身は柵の内側で、両腕を広げたまま動かない。血走った目の牙狼と、観覧席の間に立つ、人間の壁だった。
正面の査定官席で、騎士団の年配査定官が立ち上がった。
「捕縛班、前へ。――射手、構え」
柵の外に、弩を持った騎士が二人、素早く展開する。
「規定を確認する。公開の場において人を害した従魔は、その場で処分。……まだ、害してはいない。だが柵を越えた瞬間に、確定だ。越えさせるな」
冷たい声ではなかった。職務の声だった。職務の声だからこそ、覆らない。
柵の中では、ガルフが走り続けている。
止まれないのだ。荒い息のまま、泡を飛ばしながら、柵に沿って、ぐるぐると。その円が、周回ごとに少しずつ、観覧席側へ膨らんでいく。
「ガルフ! だめだ、こっちだ! ガルフ!!」
ダリオは柵の内側で叫び続けていた。八年間届いていた声は、今日だけ、届かない。
時計は、動いている。
リオは避難の流れに紛れて、観覧席の最前まで降りた。
考えろ。表の顔のまま、できることを。
太い線は、使えない。ガルフには、ダリオの契約が既に結ばれている。契約の上書きは、誰にもできない。それ以前に、契約量ゼロの見学者が柵に近づいた瞬間、教官に取り押さえられて終わりだ。
だが――他人の契約獣でも、様子を聞くだけなら、細い糸は通る。
ミラが、そう言っていた。
リオは手すりに肘を置き、避難を眺める野次馬の姿勢を作って、目を閉じた。
糸を、伸ばす。
いつもの太い線を、撚りをほどくように、細く、細く。
太さを捨てた分だけ、糸は長く届く。ミラの網の理屈だ。五十一本を張る人の理屈を、一本きりの糸で、ぶっつけでなぞる。
細い糸が、風に流されるように震えながら、柵を越え、走り続ける灰色の背中に、ふ、と触れた。
――繋がった。
命令は、通らない。呼びかけも、通らない。髪より細いこの糸で分かるのは、せいぜい、今の感情だけだ。
それで、十分だった。
流れ込んでくる。
恐怖では、ない。
混乱と、疲労と、体の内側で鳴りやまない、号令。走れ、走れ、走れ。誰も出していない号令が、頭の中で鳴り続けている。そして体の芯には、焼けるような渇きが兆し始めていた。
――薬だ。それも、もう切れかけてる。
スナと同じだった。号令で走らされ、切れ際の渇きに追われている。ガルフは暴れているのではない。薬の号令と、限界の体の間で、出口を探して走り続けているだけだ。
リオは目を開けた。維持できたのは、そこまでだった。数十秒で、細い糸は風に千切れるように解けた。精度も、持続も、まだミラの足元にも及ばない。
だが、要るものは読めた。
あとは、届ける相手だ。
柵の中の牙狼の心は、読めた。
柵の内側で立ち尽くす男の心は――糸では、読めない。人の心に、糸は結べない。
だから、顔で読む。
ダリオの顔は、絶望と自責で真っ白だった。あれは、あと数秒で柵に飛び込んで、牙の前に立つ顔だ。
時間がない。
リオは手すりを離れ、混乱に紛れて、柵際のダリオの背後についた。
◇
「ダリオ」
低く呼ぶと、ダリオは振り向きもせずに吠えた。
「今それどころじゃ――」
「十秒だけ聞け。ガルフを止められるのは、お前だけだ」
声の温度で、何かが伝わったらしい。ダリオの肩が、びくりと止まった。
「あれは暴走じゃない。体の中で、鳴りやまない号令が鳴ってる。走れって号令だ。だからまず、笛をやめろ。命令を全部やめろ。外から足すな」
「……な、なんでお前、そんな」
「いいから。次。謝るな。詫びの声は、獣には不安の匂いにしかならない。それから、名前を呼ぶな。呼ぶたびに、あの子は応えられない自分に追い詰められてる」
「じゃあ、どうしろって……!」
「――一日の終わりに、八年間、必ずやってきたことがあるだろ」
ダリオの目が、見開かれた。
「終わりの合図だ。号令じゃなく、儀式の方。体が覚えてるやつ。……あるだろ」
「……ブラッシング、だ」
掠れた声で、ダリオは言った。
「一日の終わりに、必ず。右足から。仔狼の頃から、一日も欠かしたことがねえ」
「それだ」
リオは、頷いた。
「座って、刷毛を構えて、いつもの夜の声で言え。今日は終わりだ、って。命令じゃなく、いつも通りに。……体の記憶は、薬より古い。八年は、そう簡単に負けない」
十秒の講義は、終わった。
ダリオは数拍、呆けたようにリオを見て――それから、何も聞かずに、走った。
柵の中央へ。世話鞄を引っ掴んで。
◇
「ヴェッセル! 下がれ!」
マリウス教官の制止に、ダリオは首を横に振った。
「教官! 俺の従魔です! 俺が、終わらせます!」
そして、走り続ける灰色の円のただ中で――ダリオは、膝をついた。
武器も構えず、腕も広げず、ただ、地面に膝をつき、鞄から刷毛を取り出して、いつもの位置に構えた。
八年間、毎晩そうしてきた形に。
「――ガルフ」
声は、もう叫びではなかった。
獣舎の夜の、あの声だった。
「終わりだ。今日は、もう終わり。……ほら、右足からやるぞ」
円が、揺らいだ。
走り続けていた灰色の体が、つんのめるように速度を落とす。血走った目が、膝をつく主と、その手の刷毛を見た。
号令は、まだ鳴っているのだろう。体は震え、足は止まりかけては、また動く。
それでも。
「終わりだ、ガルフ。今日は終わり」
いつもの声が、いつもの構えで、そこにある。
八年、一日も欠かさなかった、一日の終わりの形が。
牙狼は――最後の数歩を、倒れ込むように歩いた。
主の膝の前に、灰色の巨体が崩れ落ちる。荒い息のまま、震えながら、それでも、右の前足だけを、へたりと投げ出して。
いつも最初に刷毛をかける、右足を。
「……っ、そうだ。えらいぞ。えらい……」
ダリオの刷毛が、震える毛並みに触れた。
一撫で、二撫で。
三撫で目で、張り詰めていた何かが切れたように、ガルフの全身から力が抜けた。
演習場が、静まり返った。
弩が、ゆっくりと下ろされていく。
誰かが息を吐く音で、時間が動き出した。
観覧席の隅では、出番を終えたカイルが、呆けた顔で立ち尽くしていた。
「……すっげえもん、見ちまった。刷毛一本で、あの状態の狼が止まるのかよ」
「刷毛一本じゃ、止まらないわ」
答えるセナの声は、少しだけ掠れていた。
「一日も欠かさず続けてきた、二人の毎晩が止めたのよ。……あの絆は、テイマーなら誰でも、目指していいものだと思う」
◇
「――はい、そこまで。この子は私が診ます」
場を横切って現れたのは、作業着の女だった。
継ぎの当たった服に、藁の匂い。第十三厩舎のミラである。昨夜の文を受けて、朝から観覧に紛れていたらしい。
「王都獣医師会、ミラ・フォルカ。倒れた従魔の診察を行います。異論は?」
異論を挟む間も与えず、ミラはガルフの傍らに膝をつき、目と口と、脈を診た。それから手をかざし、しばらく目を閉じる。
誰にも見えない細い糸が、内側を読んでいるのだと、リオだけが知っている。
「……投薬による中毒症状ね。興奮性の薬物。継続投与の痕跡あり。今は切れかけて、禁断症状の入り口」
ミラは立ち上がり、査定官席へまっすぐ向き直った。
「査定官どの。処分規定の第七項、但し書きを」
「……『薬物、呪術その他外因により正常な判断を失っていた場合を除く』」
「その通り。この子は害獣ではなく、被害獣です。処分の対象にはなりません。……書類は、私の鑑定書付きで学園に出します」
年配の査定官は、しばらくミラの目を見て、頷いた。
「――規定に従う。捕縛班、解除」
時計が、止まった。
そして、静まり返った演習場の真ん中で、ダリオが立ち上がった。
青ざめた顔のまま、まっすぐに査定官席へ向き直り、腰の鞄から、あの上等な小瓶を取り出して、掲げた。
「……薬の出どころは、俺です」
声は震えていた。震えていたが、逃げなかった。
「行商から買った、栄養剤です。獣医師会の印の入った証書を見せられて、他の科でも使ってる奴がいるって言われて……試供品を三日試したら、毛艶が上がった。それで、買いました。俺が、自分で、毎朝飲ませてました。帳面にも書いてません。餌じゃないと、思ってたから」
演習場のどよめきの中で、叩き上げの男は、深く、頭を下げた。
「ガルフは何も悪くない。悪いのは、全部、俺です」
◇
後始末は、粛々と進んだ。
ガルフは第十三厩舎で解毒療養。学園の裁定は「知らずに与えた者への厳重注意」で収まった。故意でなく、自己申告で、被害は出ていない。マリウス教官の締めの言葉は短かった。
「知らなかった者を罰する規定はない。ただし――無知でいられるのは、今日までだ」
「はい」
ダリオの返事も、短かった。
その日から、ダリオは毎日、厩舎に通っている。
ガルフの看病のためと、もう一つ。
「ミラ先生。俺に、薬の成分の見方を教えてください。餌も、水も、薬も、全部。……もう二度と、分からないまま飲ませたくねえんです」
「あら。うちは授業料が高いわよ」
「払います」
「冗談よ。――藁替え三日分でいいわ」
教わる、という努力の形なら、この男は誰よりも速い。ミラいわく、覚えの良さは学年一だそうである。
◇
行商の露店があったという裏通りを、リオは夜のうちに訪ねた。
もぬけの殻だった。台も幌も畳まれ、塵ひとつ残っていない。
ただ一枚、荷台の隙間に落ちた値札の裏に、細かい書き込みが残っていた。
品目の番号。数量。売れた日付。補充の予定日。
几帳面な、在庫管理の字だった。
流しの行商は、こんな字を書かない。これは、どこかの帳場に仕える人間の字だ。売り歩いているのではない。配って、試して、記録している。
ダリオに見せたという獣医師会の証書も、後でミラが一目で偽物だと言った。「うちの印じゃないわ。……よくできてるけど」。証書を作り、試供品を配り、効いたところで売る。そこまで手間をかける行商は、いない。
数日後、ミラの鑑定の写しが白紙の司書経由で届いた。
『成分はスナの興奮剤と同系。土台はルヴィナ産の眠り花の系統。配合はやや改良されている』
ルヴィナ。
三度目だった。
「……偶然では、もう、ないですね」
厩舎の柵に寄りかかって、リオは呟いた。
「ええ」
隣のミラも、療養柵の中のガルフを見たまま頷いた。
「でも、まだ糸の端も掴めていない。……改良されている、というのが、一番嫌なところね」
試して、記録して、改良する。
誰かが、どこかで、真面目に仕事をしている。
真面目さの向き先だけが、決定的に間違っている誰かが。
◇
半月後の朝、学園の獣舎に、いつもの灯りが戻った。
ダリオの区画で、刷毛が動いている。療養から帰ったガルフの毛並みは、薬の艶ではない、飯と眠りの艶を取り戻していた。
運動場を、人と狼が走る。
指笛と、足音。
同じ拍だった。半拍のずれは、もうどこにもない。
柵の外を通りかかったリオは、それを確かめて、歩き出した。
「――おい」
背中に、声が飛んできた。
振り向くと、ダリオが柵の向こうから、こちらを睨んでいた。いつもの睨みだ。ただ、いつもより、少しだけ据わりが悪い。
「……助かった、とは言わねえからな」
「うん」
「…………助かった」
「言ってる」
「うるせえ! ほら、ガルフ、走るぞ!」
ダリオは真っ赤になって走っていった。ガルフが応、と鳴いて、同じ拍で追う。
柵に残されたリオの足元では、いつの間にか寄ってきた残りの二頭が、尾を振っていた。
「……お前らな。あいつの前でやると、また怒られるから」
その日の世話帳面に、新しい欄が一つ、増えていたという。
飯、水、毛艶、機嫌――その隣に、几帳面な字で「成分」と。
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