第11話 叩き上げの男(前編)
学園の獣舎で、朝一番に灯りが点くのは、いつも決まって同じ区画である。
ダリオ・ヴェッセルの区画だ。
北の山際、代々猟師の家系の三男坊。狼と組んで山を歩く家に生まれ、七歳の冬に生まれた牙狼の仔を、自分の手で乳から育てた。以来八年、山も学園も、ずっと二人で歩いてきた。名はガルフ。ダリオにとって最初の契約獣であり、幼馴染であり、家族である。
学園の入試も、ガルフと二人で突破した。推薦ではない。一般枠の実技を、実力で通ってきた口だ。実技種目の障害走で、ガルフとの連携は審査官を唸らせたという。人と獣が、同じ拍で走る。八年一緒に山を歩いた者にしか出せない拍だった。
今は契約も三頭に増えたが、朝の手入れの順番は、今も昔もガルフが最初と決まっている。
「ほら、ガルフ。次、右足」
朝の獣舎で、ダリオは今日も刷毛を動かしていた。毛並みに沿って、丁寧に、几帳面に。足元には分厚い帳面が開いてある。飯の量、水の量、毛艶、糞の状態、機嫌。入学からの毎日が、細かい字でびっしりと記録された、世話の帳面だ。
口笛をひとつ吹けば、三頭の牙狼は嬉しそうに腹を見せて転がる。
「世話の丁寧さなら、あの人が学年で一番よ」
と、あのセナが認めている。テイムの成績も上位。要するに、真っ当に強い、叩き上げの男なのだった。
そして、その叩き上げの男は――
「……おい。なんでお前が来ると、うちの子らは尾を振るんだよ」
通りがかっただけのリオを、毎回、親の仇のように睨むのである。
「さあ」
「さあ、じゃねえだろ。契約量ゼロで、授業じゃ寝てばっかりで、魔物の一頭も連れてねえ奴に、なんで……ええい、ガルフ! 転がるな! そいつは通りすがりだ!」
ダリオの理屈は、こうだ。
努力は、結果になる。重ねた年月は、裏切らない。だから自分は強い。それでいい。
なのに、あの眠そうな男は、何の努力もしていないように見えるのに、獣に好かれる。理屈に合わない。理屈に合わないものは、腹が立つ。
ちなみに、同じ推薦組でも、セナには突っかからない。
「あいつは十匹分の世話を、毎日やってる。手を見りゃ分かる。認める」
ヴァンスにも突っかからない。
「あの鷲の羽の艶は、毎朝の手入れの艶だ。認める」
つまりダリオの物差しは一貫している。重ねてきたものが見える相手は、認める。見えない相手は、認めない。
真面目に努力を重ねてきた人間ほど、説明のつかないものが許せないのだった。
「……別に、何もしてない」
「その顔が気に食わねえって言ってんだよ!」
リオとしては、あくびを噛み殺しているだけである。
◇
その週、掲示板に大きな告知が貼り出された。
『秋季公開実技査定』
学園の各科から選抜と希望者が出て、実技を披露する。観覧席には騎士団とギルドの査定官が並び、ここでの評価は進級にも、卒業後の推薦にも響く。一年にとっては、初めての「外の目」に晒される舞台だった。
「出るぞ、俺は」
告知の前で、ダリオは真っ先に名を書いた。
「推薦組が相手だろうが関係ねえ。重ねてきた年月が違う。……なあ、ガルフ」
傍らの牙狼が、応、と短く鳴いた。
ヴァンスも出る。セナも出る。カイルは剣術科の枠で出る(「ガルド先生が観に来るかもしれねえだろ!」来ない気がする、とは言わないでおいた)。
リオは、出ない。
見学席は日当たりが良いという情報だけを、確かめてあった。
◇
異変に気づいたのは、査定の三日前だった。
放課後の獣舎の前を通りかかった時、ガルフが運動場を走っていた。
――速い。
数日前に見た時より、明らかに速い。毛艶も見事なもので、通りすがりの生徒が「ヴェッセルのとこの、仕上がってるなあ」と感心しながら追い越していった。
誰の目にも、絶好調に見える走りだった。
リオの足だけが、止まった。
何かが、ずれている。
柵に手を掛けて、しばらく眺めて、分かった。
――拍だ。
ダリオの指笛と、ガルフの足音。入試で審査官を唸らせたという、人と獣の同じ拍。それが今、半拍だけ、狼の方が前に出ている。急かされてもいないのに、体だけが勝手に先へ走っている。
それから、折り返しの減速で、後ろ足がほんの一拍、外に流れた。速さに、体の作りが追いついていない。
毛艶も、思えばおかしい。秋の換毛の時期に、艶だけが上がるのは、順番が逆だ。
どれも、一つずつなら見過ごす徴だった。世話の帳面の数字には、たぶん一つも載らない。
「よし、いいぞガルフ! その調子だ!」
柵の中で、ダリオが声を張っている。帳面を片手に、興奮を隠せない顔で。
彼の目には、絶好調に見えているのだろう。数字の上では、実際そうなのだろう。速く、艶よく、力強く。
リオは柵に近づいた。
風向きが変わって、運動場の匂いが流れてくる。獣の匂い、土の匂い、それから――
微かに、薬の匂いがした。
甘いような、焦げたような、嗅いだ覚えのある匂い。
リオは、匂いの流れを目で遡った。
風上は、柵のすぐ外。ダリオの世話鞄が置いてある場所だ。
開いた鞄の口から、見慣れない小瓶が一つ、覗いていた。ラベルのない、やけに上等な硝子の瓶。使い込まれた刷毛や爪切りの間で、その一本だけが、明らかに浮いていた。
匂いは、あの瓶からだ。
どこで、だったか。
思い出した瞬間、背中が冷えた。
――厩舎だ。
スナと、同じ匂いだ。
闘技場で使われていた、あの興奮剤。薬が切れた夜のスナの、血走った目と痙攣を、リオはまだはっきり覚えている。
あの薬を、誰かが、まだどこかで売っている。
よりによって、学園の中の獣に、届いている。
◇
「ダリオ」
柵越しに呼ぶと、ダリオは露骨に嫌そうな顔で振り向いた。
「ああ? なんだよ。見せもんじゃねえぞ」
「ガルフに、最近、何か新しいものを食べさせてないか」
一瞬、ダリオの眉が動いた。
図星の顔だった。だがそれは、すぐに怒りの顔に塗り替えられた。
「……はあ? なんだよ、いきなり」
「拍が、ずれてる。ガルフの体だけが、半拍先に走ってる。それと、換毛の時期に艶だけ上がるのは、順番が逆だ。何か、体に入ってると思う」
拍、という言葉に、ダリオの顔が一瞬だけ強張った。
それは、この男の一番の自慢の場所だった。
「……好調なだけだ! 入ってるわけねえだろ。飯も水も、全部俺が自分で見てんだ」
ダリオは帳面を掲げた。
「毎日、全部書いてある。異常なし。毛艶は上がって、走りも伸びてる。査定前の仕上がりとして最高だ。……それをお前、なんだ? 寝てるだけの奴が、俺の世話に文句つけようってのか」
「文句じゃない。ただ――」
「世話の口出しだけは、誰にも許さねえ」
声が、低くなった。
怒鳴り声よりも、よほど本気の声だった。
「他のことなら聞き流してやる。だが、うちの子らの世話だけは、七つの歳から俺がやってきたことだ。お前に言われる筋合いは、ない」
叩き上げの男の、譲れない芯だった。
そこを盾にされたら、これ以上は届かない。少なくとも、正面からは。
「……分かった」
リオは引き下がった。
引き下がりながら、頭の中では別のことを考えていた。
ダリオは嘘をついていない。帳面も嘘をついていない。あの男は、餌に変なものを混ぜるような世話はしない。
なら、あの薬は「餌」の欄には載っていないものだ。
本人が、良かれと思って与えている、餌以外の何か。
昼間、世話鞄から覗いていた、あの上等な小瓶。
あれを調べれば、話は早い。夜の獣舎に入って中身を一滴取ってくるくらい、リオの裏の腕なら五分で済む。
……やらない。
あの帳面と、八年ぶんの世話の中に、夜盗みのように踏み込む話ではない。それをやったら、あの男が一番大事にしているものを、こちらが先に踏むことになる。
――査定まで、あと三日。
その夜、リオは眠り鹿の宿から、厩舎宛てに短い文を書いた。
『スナの薬と同じ匂いを、学園で嗅ぎました。詳細は後日。まだ、確証はありません』
確証はない。ないが、あの匂いの記憶が外れていたことも、ない。
◇
査定の日は、雲ひとつなく晴れた。
演習場は観覧席まで満員だった。生徒と教師に加え、正面の一段高い席には、騎士団の査定官が三人、ギルドの査定官が二人。マリウス教官が進行を執る。
実技は、続いていく。
剣術科の部で、カイルは三年相手に善戦して観覧席を沸かせた。一本は取れなかった。取れなかったが、相手の連撃の最後の一本の前で、半歩下がって仕切り直してみせた。あの公開稽古の日に拾われた「下がり方」は、素振りの数だけ、本物になりつつあるらしい。
セナは十匹の連携で捜索実技の的を全部当てて査定官を唸らせ、ヴァンスの嵐鷲は演習場の上空をひと回りしただけで、観覧席の空気を変えた。
学園の一年は、今年も粒が揃っている。観覧席の査定官たちの手元で、評価の紙が忙しく走っていた。
「次、テイム術科。ダリオ・ヴェッセル」
呼び出しの声に、ひときわ大きな返事が返った。
「はいっ!」
ダリオが、ガルフを連れて入場する。
昂ぶりを抑えた良い顔だった。歩き方も、立ち位置も、礼も、何百回と練習してきた通りに決まっている。
八年かけて作ってきたものを、見せる日。
課題は、障害走と的当て、そして制止の三種。牙狼の脚と、主の制御を見る、テイム術科の定番だった。
開始の笛が鳴る。
ガルフが、跳んだ。
速い。障害を次々と越えていく。観覧席から歓声が上がる。ダリオの指笛が鳴り、ガルフが折り返す――
その折り返しで、リオは見た。
後ろ足が、また一拍、流れた。
そして今度は、立て直しの瞬間に、頭が大きく一度、振られた。まるで、耳の奥で鳴る何かを、振り落とそうとするように。
「ガルフ、次! 的だ!」
指笛。ガルフは走る。走って、的の前で――止まらなかった。
的を越えて、なお走る。柵に沿って、二周、三周。ダリオの指笛が続けて鳴る。制止の笛だ。何度も、何度も。
牙狼は、止まらない。
マリウス教官は、既に柵を跳んで中にいた。だが直線の速さで、人の足が牙狼に追いつけるはずもない。教官は追うのをやめ、両腕を広げて観覧席と牙狼の間に立った。壁になる判断の速さだけが、今は精一杯だった。
観覧席のざわめきが、質を変えた。
「……おい、あれ」
「制止が、通ってないぞ」
演習場の中央で、ダリオの顔から、血の気が引いていくのが見えた。
「ガルフ……? おい、ガルフ! 止まれ! ――止まってくれ!」
叫び声はもう、指笛の形をしていなかった。
八年間、一度も無視されたことのない声が、初めて届かない。その事実に、ダリオの足元が、目に見えて崩れていく。
走り続ける灰色の体が、不意に、がくりとつんのめる。
立ち上がったガルフの目は、赤く血走っていた。
口の端から泡が飛び、荒い息が獣舎中に響く。据わった目が、ぐるりと観覧席を――人の群れを、向いた。
リオは、席を立った。




