第10話 夜歩きの亀(後編)
物置から出てきた古い外套を借りて、リオは濡れた上着だけ着替えた。
「あの、覆面もお預かりして、乾かしましょうか」
「規則ですので」
「濡れたままで、ですか」
「規則ですので」
「……プロの世界は、厳しいのですね」
クラリスは深く感じ入った様子だった。規則ではなく死活問題なのだが、訂正はできなかった。
畔に戻る。池の主は、水面に目だけを出して、こちらの動きを一部始終見張っていた。
「クラリスさん。いくつか、教えてください」
「は、はい。何なりと」
「お祖母様は、ラーゴを呼ぶ時、どんなふうに呼んでいましたか」
「どんなふう……名前を、呼んでいました。ラーゴ、って。……あ、でも、少しだけ節がつくんです。ラー、が長くて、ゴ、で下がる。歌みたいに」
「座る場所は」
「台の左側です。いつも決まって左。右側は餌を置く場所だから、って」
「餌をやる時の順番は」
「先に、水面を手で三回叩いていました。ご飯の合図だそうです。それから、最初のひと口だけは、手から」
クラリスはすらすらと答え、それから、自分で少し驚いた顔をした。
「……私、全部覚えてるんですね。教わったことも、ないのに」
「いつも、隣で見てきたからだと思います」
見てきたものは、体に残る。
教わったことがなくても、手はちゃんと覚えている。そういうものだと、最近知ったばかりだった。
◇
リオは畔に降り、水際から三歩の位置に、静かに腰を下ろした。
近づかない。呼ばない。ただ、敵でも、獲物でも、連れ去りに来た人買いでもない何かとして、そこにいる。
池の主の濁った目が、じっとこちらを測っている。
長い時間をかけて、水面の警戒が、ほんの少しだけ緩んだ。
――今だ。
リオは糸を伸ばした。太い線を一本。
拒絶と警戒の隙間、一番深いところへ、静かに、通す。
息、ひとつ。
繋がった瞬間、流れ込んできたのは、嵐ではなかった。
深い、深い、水の底のような静けさだった。冷たくて、暗くて、動かない。六十年の歳月が湖底の泥のように積もった、その一番上に――ぽつんと一つ、灯りのようなものが残っている。
待っている。
それだけが、この静けさの中で、まだ生きて動いているものだった。
リオは目を開け、覆面の下で息を整えてから、畔のクラリスに向き直った。
「……クラリスさん。この子は、我儘で居座ってるんじゃありません」
「え……」
「待ってるんです。ここにいれば、あの人がまた、あの台に来ると思ってる。六十年、毎日そうだったから。明日も来ると思って待つのが、この子の六十年だったから」
クラリスの目が、大きく見開かれた。
「餌を食べないのも、同じ理由です。あの台の餌は、この子にとって『あの人と食べるもの』だった。……一人で食べる飯じゃ、なかったんです」
「…………っ」
クラリスは、口元を両手で覆った。
姿勢は、最後まで崩れなかった。崩れないまま、大粒の涙だけが、ぼろぼろとこぼれて落ちた。
「ばかね……っ、あなた、そんな、ずっと……お祖母様は、もう……」
言葉は続かなかった。
続かなくていい、とリオは思う。この涙は、通訳の要らない言葉だ。池の主は水面からそれを見ていて、濁った目を、ゆっくりと一度、閉じて開いた。
◇
「クラリスさん。台の左側に、座ってもらえますか」
涙を拭いたクラリスに、リオは静かに言った。
「左……祖母の場所に、ですか」
「はい。それで、教えてくれた通りに。水面を三回、それから名前を」
クラリスは餌の桶を抱え、古い木の台の左側に、そっと膝を折った。
深呼吸をひとつ。
白い手が、水面を三回、叩く。
「ラーゴ」
ラー、が長く、ゴ、で下がる。
歌のような、六十年の節だった。
池が、静まり返った。
長い、長い間があった。クラリスの手が震え始め、それでも水面から下ろされなかった、その時。
水が、動いた。
巨体が、ゆっくりと台へ寄ってくる。皺だらけの首が伸びて、濁った目が、台の左側に座る人を、確かめるように見上げた。
クラリスが、震える手のひらに餌を載せて、差し出す。
池の主は、その手の匂いを長いこと嗅いで――
食べた。
「……っ、食べ、た……」
クラリスの声が裏返った。
「食べました! ラーゴが、私の手から……! 初めて、初めてです……!」
「――懐かしい、そうです」
線の向こうから返ってきたものを、リオはそのまま言葉にした。
「呼び方も、座る場所も、手のひらの匂いも。あの人によく似ていて、とても懐かしいと。……いつも隣で見てきた人の手だって、ちゃんと分かっています」
クラリスは、餌をやりながら、もう一度泣いた。
今度の涙は、さっきとは違うものだった。
◇
「それで――肝心の、引っ越しの話ですが」
リオは、餌の台に手を置いた。
「この子が動かないのは、この池が好きだからじゃありません。ここを離れたら、待ち合わせ場所が分からなくなるからです。だから」
台を、こつ、と叩く。
「待つ場所ごと、引っ越しましょう。この台も、一緒に」
「台も……!」
クラリスははっと顔を上げ、裏門の方へ駆けていった。ほどなく、車輪の音とともに戻ってくる。荷車を曳いた白髪の老人が、深々と一礼した。
「執事のゼフでございます。荷車と毛布、それから道中の水を、ご用意しております」
「……手回しがいいですね」
「お嬢様が動かれる時は、だいたい徹夜になりますので」
年季の入った執事は、年季の入った答え方をした。
古い台は、根本から丁寧に外され、毛布に包まれて荷車に載った。
そして、池の主は。
六十年住んだ池の縁に、自分の前足を、かけた。
水を割って、巨体がゆっくりと陸へ上がる。したたる水が月明かりに散って、畔の草を濡らした。
誰も、引いていない。誰も、押していない。
六十年の主が、自分の足で、歩き出したのだった。
◇
夜の王都を、奇妙な行列が進む。
先頭に覆面の男。その後ろに、熊ほどもある老亀が、のし、のし、と歩き、荷車を曳く執事と、令嬢が続く。
歩みは、絶望的に遅かった。
「あの……このままで、朝までに間に合うのでしょうか」
「大丈夫です。道は裏路地で最短を組んであります。休憩の場所も三カ所」
「そこまで……さすがです」
実際は、間に合うかどうかは亀の気分次第である。プロの顔とは、内心の冷や汗を見せない顔のことだ。
裏路地の角で、一度だけ巡回の憲兵と行き合った。
覆面の男と巨大な亀を前に、若い憲兵が腰の剣に手をかけかけ――リオが差し出した一枚の書付を見て、直立した。
「よ、夜間の家畜移送許可……失礼しました! ご苦労様です!」
グラントの手回しだった。書類の上では、ラーゴは今夜だけ「大型の家畜」である。
「……プロの方は、書類まで完璧なのですね」
「準備が九割ですので」
リオの給料に書類代は含まれていない気がしたが、細かいことは考えないことにした。
行列は、進む。のし、のし、と。
夜半を過ぎた頃、隣を歩くクラリスが、ふと言った。
「あの。……眠たく、ないのですか? もう、こんな時間なのに」
「仕事中は、大丈夫です」
昼に寝ているので、とは言えなかった。
「すごいですね……。私、こんな時間まで起きているのは、生まれて初めてです」
クラリスは少し高揚した声で言い、それから、ふふ、と小さく笑った。
「……実は、私の組に、授業中いつも居眠りしている方がいるんです。今日も図書館で寝ていて、私、お説教をしてしまって」
来た。
覆面の下で、心臓が嫌な音を立てた。
「テイマー推薦の方なのに、いつも眠そうで、契約している魔物もいなくて。……あなたのような方を見ていると、その、比べてはいけないのでしょうけど」
「……人には、色々あるのだと思います」
「ふふ。お優しいのですね」
クラリスは夜空を見上げて、少しだけ声を落とした。
「でも……悪い方では、ないんです。この前、寮の一年生が中庭で迷子になった子猫を探していた時、通りすがりに、木の上を指差して教えていました。本人は、そのまま寝に行ってしまいましたけど」
見られていた。
あの子猫の件は、誰にも見られていないはずだった。
「……よく、見てるんですね。その人のこと」
「い、いえ! 委員長として、同じ組の生徒を気にかけるのは当然のことですから!」
クラリスは早口で言って、それきり黙った。
のし、のし、と亀の足音だけが、夜の路地に続いた。
◇
空の端が白み始めた頃、行列はルーメル本邸の裏門をくぐった。
先代が作ったという古い池は、庭の奥で静かに待っていた。別邸のものより少し小さいが、深さは十分で、朝日の入りが良い。
餌の台は、池の畔――クラリスが自分で選んだ場所に、据え付けられた。
「台の左が、座れる向きに」
「はい。……ここなら、毎朝、学園に行く前に来られます」
池の主は、新しい池の縁で長いこと水の匂いを確かめ、それから、ゆっくりと身を沈めた。
波紋がおさまると、水面には、濁った目だけが残った。
その目が台を見て、台の左側を見て、そこに膝を折るクラリスを見た。
待ち合わせ場所は、無事に引っ越した。
「……ラーゴ。明日から、私が来るわ。毎日は難しいかもしれないけれど、でも、必ず」
水面が、返事のように小さく揺れた。
夜明けまで、あと半刻。
依頼は、果たされた。
◇
「本当に、本当に、ありがとうございました……!」
裏門の前で、クラリスは深々と頭を下げた。
「お代のほかに、お礼の言葉しかお渡しできないのが、心苦しいのですが」
「それで十分です。あと、これを」
リオは、預かってきた小さな包みを差し出した。開いたクラリスが、あ、と声を上げる。髪飾りだった。
「依頼料は、執事殿の分で足りています。……これは、預かりすぎだと。うちの上司が」
「っ……。……はい」
クラリスは髪飾りを両手で受け取って、胸に当てた。
仕事は、終わった。
そのはずだった。
ふいに、背後の水面が鳴った。
振り向く暇もなかった。池から首を伸ばした池の主が、覆面の男の頭に、ぐい、と巨大な頭を擦り付けたのだ。
六十年ぶんの体重が乗った、感謝の頭ずりだった。
がくん、と視界が揺れて。
巨大な頭に容赦なく擦り上げられた覆面が――ぽろりと、脱げ落ちた。
朝日が、素顔を照らした。
寝癖ごと。
時が、止まった。
クラリスの目が、丸くなって、素顔を映して、それから、みるみる見開かれていく。
「……………………ア、アルクス、さん?」
「…………人違いです」
「今、素顔で言われても」
ごもっともだった。
沈黙の中、荷車の脇で老執事が、静かに明後日の方を向いた。
「――わたくしは、何も見ておりません」
年季の入った、完璧な執事の対応だった。
◇
「アルクスさんが……あの、窓口の方で……プロの……」
クラリスは覆面を拾い上げ、リオの素顔と交互に見比べながら、まだ現実と戦っていた。
「では、授業中の居眠りは……夜に、こういうお仕事を……」
「……その話なんですが」
リオは観念して、頭を掻いた。
「誰にも言わないでもらえると、助かります。学園にも、家の人にも。……それと、その、うちの上司にも」
「上司の方にも、ですか?」
「バレるなと言われてたので。バレたとバレると、非常にまずいので」
「まあ……」
クラリスは目を丸くし、それから、覆面を丁寧に畳んで、両手でリオに返した。
背筋を伸ばし、生真面目な顔で、はっきりと言う。
「誓います。誰にも申しません。ルーメル家の名にかけて。……それに」
そこで初めて、彼女は年相応の、少しだけ悪戯めいた顔で笑った。
「私とあなたと、ラーゴだけの秘密が、ひとつ増えただけですから」
真面目な人の抱える秘密は、たぶん王都で一番堅い。
そういうことに、しておくことにした。
◇
翌日の授業は、静かだった。
窓際の席で、リオはいつも通り、こっくりこっくりと船を漕いでいた。
珍しかったのは、その二つ隣の席である。
背筋を伸ばしたまま――クラリス・ルーメルが、こっくり、こっくりと、リオとまったく同じ拍子で船を漕いでいた。
「……なあ、見ろよ」
カイルが、セナを肘でつついた。
「委員長が居眠りしてる。明日は槍でも降るのか?」
「……珍しいことも、あるのね」
セナは頷き、それから、規則正しく揺れる二つの頭を、交互に見た。
リオと、クラリス。
まったく同じ拍子で揺れる、二つの頭を。
「…………ふうん?」
セナの目が、すっと細くなった。
リオは寝ていて、気づかなかった。
気づかない方が、幸せなことも、世の中にはある




