第10話 夜歩きの亀(前編)
クラリス・ルーメルという同級生がいる。
子爵家の長女で、リオと同じ契約術系の組。いつも背筋が伸びていて、提出物は期日の二日前に出し、図書館の返却期限を破ったことがないと白紙先生が褒めていた、数少ない生徒である。
そしてリオにとっては、同じ組で唯一、定期的に説教をしてくる相手だった。
「アルクスさん。また寝ていましたね」
昼休みの図書館。本を枕にしていたリオは、真上からの声で目を覚ました。
腕を組んだクラリスが、仁王立ちしている。学級委員長の腕章が、今日も眩しい。
「……寝てません。本の高さを確かめてました」
「その言い訳、先週も聞きました。図書館の本は、枕ではありません。だいたいあなたは、授業中もいつも居眠りばかりして……! テイマー推薦で入学なさったのでしょう? もう少し、自覚を持ってください」
「……善処します」
「その返事で善処された例を、私は知りません」
ドレン教諭と同じことを言う。真面目な人の語彙は、どこかで繋がっているのかもしれない。
ただ、クラリスの説教は正しく、長く、そして不思議と嫌味がなかった。成績が落ちますよ、体を壊しますよ、と要するに全部こちらの心配なのだ。だからリオは、半分眠りながらも、いつも大人しく聞いている。
――という程度の、接点である。
そのクラリスが、ここ数日、様子がおかしかった。
中庭のベンチで一人、ぼんやりと池を眺めている。授業の合間に、窓の外を見ている。背筋は伸びたままなのに、目だけがどこか遠い。
「なあ、あれ、ルーメルさんだろ。珍しいよな、ぼーっとしてるの」
昼の食堂で、カイルが遠くの席を見ながら言った。
「委員長がぼーっとしてる日が来るとはなあ。リオ、お前この前も説教されてたろ」
「されてた」
「あの人、いつも姿勢がいいのにさ。今日はスープが冷めてる。ありゃ相当だぞ」
「スープで測るな」
「スープは正直なんだよ」
「……まあ、何かあるんでしょうね」
セナも少し気にする素振りを見せたが、委員長とは席も遠く、踏み込む口実もない。
リオはといえば、いつも通り、聞き流していた。
人には色々ある。それだけの話だと、その時は思っていた。
◇
その日の放課後、図書館で返却した本に、薄紙が挟まっていた。
『今夜の依頼。詳細は事務所。刻限あり、急ぎ』
いつもより、一行多い。急ぎ、とわざわざ書いてある。
夕方の事務所に顔を出すと、グラントは書類の山の向こうで、珍しく先に口を開いた。
「来たか。今夜の仕事だ。刻限は明朝、夜明けまで」
「内容は」
「魔物の移送だ。依頼主の別邸の庭に棲みついた魔物を、夜のうちに、誰にも知られず、同じ王都の中の本邸の庭へ運ぶ。……まあ、引っ越しの手伝いだな」
「引っ越し。……急ぎの理由は」
「明日の朝、別邸の庭に駆除業者が入る」
リオの眉が、少し動いた。
「駆除」
「別邸が売られるんだとよ。買い主は更地にしたい。庭の池にでかいのが棲んでると知れて、業者で片付ける段取りになった。家の方は、本音じゃ引き取ってやりたい。だが貴族の家が、庭の魔物なんぞで表立って動けるわけもなし、そもそも運ぶ手立てもねえ。――で、古い伝手を辿って、うちに話が来た」
「依頼主は」
グラントは書類の山から一枚を抜き、こちらへ滑らせた。
依頼書だった。依頼主の欄に、目が留まる。
ルーメル子爵家。
「ルーメル……」
どこかで聞いた家名だった。数拍遅れて、学級委員長の腕章と仁王立ちが頭に浮かぶ。
「……あ。委員長の家です」
「だろうな。学園の名簿と照合済みだ。当日の立ち会いは、その委員長どの本人と聞いてる」
グラントは机の抽斗を開け、布の包みを一つ、無造作に放ってよこした。
「だから、こういうものを用意した」
布をほどくと、黒い覆面が出てきた。目元だけを出す作りで、生地は薄いのに妙に張りがある。内側の喉のあたりに、小さな刺繍の紋様が縫い込まれていた。
「シェラの工房のだ。着けてる間、声が変わる。低くなって、癖が消える」
試しに着けてみる。喉のあたりが、すう、と冷たくなった。
「……あー。あー。テスト」
出てきたのは、低く平坦な、知らない男の声だった。
「……良い覆面ですね、これ」
「だろうな。つまり、そういう仕事だ。依頼主はお前の同級生。顔と声を隠して働け。正体は絶対にバレるな。以上だ」
「以上って」
「学園は休息場だ。仕事場の顔を持ち込むな。……それだけの話だろうが」
理屈は、いつも通り正しい。正しいが、雑に投げられた覆面と、雑にまとめられた無理難題の重さは、まったく釣り合っていなかった。
「あの、確認ですけど。朝までかかる移送の間、同級生の依頼人と、一晩ずっと一緒で、バレるな、と」
「そうだ」
「無理があると思うんですけど」
「だから、シェラの覆面をやったんだろうが。あとは、お前の芝居しだいだ」
「芝居の分の給料は出ますか」
「移送料に含む」
毎回、この理屈で負ける。
リオは覆面を懐にしまい、事務所を出た。
依頼書の隅の報酬の欄には、控えめな額と、その横に小さな但し書きがあった。
『別添の髪飾り一点は、立ち会いの令嬢へ返却のこと』
「依頼料は、執事が家の金で積んだ分で足りてる。ナンバーズを動かす額じゃあねえが――番号のない腕利きには、ちょうどいい仕事だ」
グラントは、書類に目を戻しながら続けた。
「娘さんの方は、それじゃ足りないと思ったんだろうな。執事に内緒で、自分の小遣いと髪飾りを封筒に足してきた。……飾りは返してこい。うちは、そこまでは預からん」
――ああ、真面目な人なんだな。
中庭で池を眺めていた背中を思い出しながら、リオは夜の支度に向かった。
◇
指定の刻限は、二十二の鐘。
場所は王都の西のはずれ、古い屋敷町の一角だった。
鉄柵の門は蔦に半分覆われ、庭木は伸び放題。それでも荒れているというより、眠っているという方が近い庭だった。誰かが長く大事にして、それから時間が止まった庭だ。
裏門の前に、外套姿の小柄な人影が立っていた。
フードの下から、見慣れた姿勢の良さが覗いている。
リオは、物陰で覆面を着けた。
喉のあたりが、すう、と冷たくなる。
「――お待たせしました。窓口の者です」
出た声は、自分のものではなかった。低く、平坦で、年齢の分からない声。シェラの布は、確かに良い仕事をしていた。
クラリスは、はっと顔を上げ、深々と頭を下げた。
「夜分に、ありがとうございます。クラリス・ルーメルと申します。このたびは、無理なお願いを……」
「顔を上げてください。仕事ですので」
「は、はい」
顔を上げたクラリスは、フードの下からまっすぐにこちらを見た。
同級生の目で見られている。
分かっていても、背中に汗が伝った。バレていない。バレていないはずだ。シェラの布を信じろ。
「あの……失礼ですが、お一人、ですか? その、もっと大勢でいらっしゃるものかと」
「移送は隠密が第一です。人数は音になります」
「音……そ、そうですよね。プロの方は、そういうものなのですね」
クラリスは真剣な顔で、二度頷いた。素直な人だった。素直な分だけ、騙している側の心臓に悪い。
「では、ご案内します。……こちらです」
裏門の鍵を開けるクラリスの手つきは、慣れていた。
「よく来られるんですか、ここに」
「祖母の家なんです。……先月まで、祖母が一人で住んでいました」
「今回の依頼は、どちらでうちのことを」
「祖母の代からの執事が、教えてくれました。『表に出せない困りごとを、黙って聞いてくださる窓口がある』と。……昔、一度お世話になったことがあるそうです」
なるほど。古い伝手の筋だった。ああいう年季の入った執事は、だいたい主家より事情通である。
先月まで。
その言い方で、だいたいのことは分かった。
庭を抜ける小道は、蔦の下にきちんと石畳が残っていた。クラリスは迷いなく歩く。目をつぶっても歩ける道なのだろう。
小道の先が、開けた。
庭の奥に、池があった。
畔の草だけが、きれいに刈られていた。屋敷が空き家になった後も、誰かが通って手を入れている。
「庭が、まだ生きてますね」
「執事と、昔うちにいた庭師が、交代で通ってくれているんです。祖母は……働いてくれていた皆に、本当に好かれていましたから。お暇を出した後も、皆さん何かと理由をつけては、顔を見に来てくださって」
空き家の庭の草が、刈られ続けている。
人柄というのは、こういう所に残るらしい。
思ったより、ずっと大きい。月明かりの下で、水面が黒く静かに光っている。畔には小さな石の腰掛けと、餌をやるためらしい古い木の台。
「――ラーゴ」
クラリスが、池に向かって小さく呼んだ。
「出てきて。今夜は、大事なお話があるの」
水面が、盛り上がった。
最初は岩が浮いてきたのかと思った。苔と水草をまとった、緑がかった岩。それが池の縁まで滑ってきて、水を割って、ゆっくりと持ち上がる。
亀だった。
甲羅の直径は、大人が両腕を広げたより広い。首は太く、皺だらけで、半分閉じた目は白っぽく濁り始めている。熊ほどもある、老いた亀型の魔物だった。
「エルダートル……それも、相当な歳ですね」
「ラーゴといいます。祖母が、嫁いできた年に池で出会って……それから六十年、ずっとここで」
六十年。
人の家の庭で、一人の人間と、六十年。
濁り始めた目が、のそりとクラリスへ向き、それから、その後ろの覆面の男へ向いた。
空気が、変わった。
水面の下で、巨体がわずかに沈む。首が引かれ、濁った目に、はっきりと拒絶の色が乗った。
リオは、動かずにそれを読んだ。
警戒。そして、その奥の――喪失だ。
腹は減っている。あれだけの体で、ほとんど食べていないなら、減っていないはずがない。減っているのに、食べる気配だけが、体のどこにもない。
餌の台は、あの人の場所だった。あの人のいない台の餌は、この主にとって、もう餌ではないのだ。
「ラーゴは、乱暴な子ではないんです。世話をする人間には穏やかで、私も、執事も、甲羅に触らせてもらえます。……ただ、祖母が亡くなってから、ずっと元気がなくて。餌も、ほとんど食べなくなりました」
クラリスは、餌の台を見た。
「それに――この池から、動いてくれないんです。屋敷が売られると決まってから、皆で何度も、移ってほしいとお願いしました。でも、その話をした途端に潜ってしまって、聞いてくれなくて。……このまま置いていけば、明日の朝には業者が来ます。お金で売られて、更地にされて、この子は『駆除』されるんです。六十年ここにいたのに、書類の上では、ただの害獣なんです」
声の最後が、少しだけ震えた。
それでも姿勢は、崩れなかった。崩さないように育てられてきた人が、崩さないまま泣くのを我慢する姿勢だった。
「本邸の庭に、先代の作った古い池があります。父も、気づかない振りをしてくれると……。だから今夜のうちに、誰にも知られずに、この子を家へ連れて帰りたいんです。でも、私たちがいくら頼んでも、この子は動いてくれなくて」
リオは、池の主を見た。
六十年の主は、濁った目でこちらを警戒し続けている。
飼い主を亡くし、飯を拒み、明日には住処を潰される、老いた亀。
――引っ越し先は、もう決まっている。あとは、本人の気持ちひとつだ。
リオは覆面の下で息を整え、クラリスに頷いた。
「任せてください。必ず、夜明けまでに移動させます」
「……っ、はい! よろしくお願いします!」
そして、畔に向かって静かに一歩を踏み出した、その時だった。
「あっ、お待ちください! その子、池から出そうとする気配に、とても敏感で――」
水面が、鳴った。
張りの変わった水面と、沈んだ首の角度で、何が来るかは読めていた。左へ半歩。それで外れる軌道だった。
リオは、動かなかった。
次の瞬間、太い水の帯がまっすぐに飛んできて、覆面ごと、頭から爪先までを撃ち抜いていった。容赦のない水量だった。六十年この庭を守ってきた主の、正式な拒絶である。
拒絶を避けて始める話は、ない。まずは全部、受け取っておく。
「――水を、噴くんです……」
クラリスが、申し訳なさに消え入りそうな声で言い終えた。
「……父も、執事も、私も。移動のお願いをした者は、皆こうなりました」
「ご家族全員ですか」
「祖母だけは、一度も」
六十年の主は、家族の序列を正確に把握しているらしい。
「……あの。今の、避けられましたよね? 一瞬、動きかけて、それから、わざと」
「威嚇は、受けるのが礼儀ですので」
「れ、礼儀……」
クラリスの目に、初めて畏敬のようなものが宿った。プロというものは、濡れ方まで違うらしい。
リオは、ずぶ濡れの覆面から水を滴らせたまま、池の主を見た。
濁った目が、どうだ、とばかりにこちらを見返していた。
「……なるほど」
夜明けまで、あと四刻。
まずは、着替えたかった。




