第9話 霧の山の二人(後編)
捜索の中心が、東の沢へ移っていく。
セナの十匹が張っているのは、目の代わりに、耳と振動で探す捜索の網だ。
鈴尾鼬のリンとスズが距離を置いて鈴を鳴らし交わし、音の届く間隔で互いの位置を確かめ合う。この鈴の中継が伝令の線になり、線と線の隙間を、苔背亀の振動探知と、耳長の聴覚が埋めていく。
その網の全体が今、リオの示した円を囲む形に、張り直されようとしていた。
セナは目を閉じて、音だけを聞いていた。
「ゴウ、着いたわね。……岩に付けて。水の音は拾わなくていい、地面だけ」
合流点の上流で、苔背亀が岩に張り付く。沢の水音の向こう側、地面を伝う小さな震えだけを、甲羅の裏で選り分けていく。
網は、もう機能していた。あとは円の中で、何かが動けばいい。
リオは、その輪から一歩離れた。
「セナ。俺、先に行って道を見てくる」
「道?」
「見つかった時に、みんなで担いで走る道。暗くなってから探すと、危ないから」
「……そうね、お願い。一人で平気?」
「平気だよ。すぐ戻る」
セナは網から意識を離さないまま頷いた。良い集中だった。あれなら、こちらの行き先までは見ていない。
リオは、霧の奥へ歩き出した。
向かう先は、走る道――の途中にある、水場の泥だ。
二つに割れた重い蹄と、小さい踏み荒らしの群れ。
子連れのグレートボアの縄張りが、子供たちの円と重なっている。
猪型の中型魔物だ。普段は大人しいが、子連れの母親だけは話が別で、縄張りに踏み込む者を体当たりと牙で迎える。網が子供を見つければ、人が走り込む。ゼグも来る。松明も焚かれる。子を抱えた母親がそれをどう受け取るかは、考えるまでもなかった。
誰かが牙にかかる前に、退いてもらう。
それが、道を見てくるという仕事の中身だった。
◇
母親のグレートボアは、水場の上の藪にいた。
体は熊ほどもあり、牙は鉈のように反っている。足元の茂みで、子ボアが三頭、団子になって眠っていた。
リオが風下から間合いの外に立つと、母親の耳がこちらを向いた。
身は起こさない。まだ、警戒の段階だ。だが今日は麓から人の声が上り、霧の中を鈴が鳴り続けている。気配の全部が、気に入らないはずだった。
リオは、しゃがんだ。
敵の形を崩し、獲物の形も崩し、ただの小さい生き物になって、待つ。
魔物が人を襲う初動は、たいてい恐怖か敵意への反射だ。リオはそのどちらも持っていないし、どちらとも受け取れる仕草をしない。仕掛ける理由を最後まで渡されない相手に、獣の方から牙を出すことは、まずない。
母親の鼻が、ふんふんと空気を確かめる。
読めるのは、苛立ちと、警戒と、その奥の疲れだ。この時期の母親は、食べても食べても足りない。子に食わせ、自分も蓄え、冬までに巣穴を決めなければならない。人間の騒ぎに付き合う余裕など、一寸もない。
なら、話は簡単だった。
リオは立ち上がり、ゆっくりと藪の脇へ回った。母親の目がついてくる。
そこに、先日の風で倒れたらしい若木が一本、斜面を塞ぐように倒れていた。その向こうの窪地に、団栗の吹き溜まりが見えている。倒木が邪魔で、子連れでは越えにくい段差だった。
リオは倒木の細い方を持ち上げ、体重をかけて、斜面の下へずらした。
道が、一本通った。
窪地の団栗まで、子ボアの足でも歩ける道が。あの吹き溜まりは、倒木に塞がれてから誰も手をつけていない、手つかずの飯場だ。しかも水場からもこの騒ぎからも遠い。子連れの今夜の宿としては、こちらの縄張りより、よほど上等だった。
こっちは今夜、騒がしくなる。代わりに、良い飯場への道を開けた。それで釣り合うはずの取引だった。
十歩離れて振り返ると、母親は立ち上がり、鼻先で子ボアを順に起こしていた。
一列になった親子が、開けたばかりの道を、窪地の方へ渡っていく。
渡り切る間際、母親が一度だけ、こちらを振り返った。値踏みでも威嚇でもない、ただ確かめるような一瞥だった。
リオは、動かずにそれを受けた。それで、済んだ。
◇
戻ると、セナが振り向いた。
網に意識を残したままの、半分だけの視線。それでも、その半分が妙に鋭かった。
「おかえり。……ねえ、あなた、何かしてきたの?」
「道を見てきただけ」
「そう。……ならいいけど」
いいと言いながら、視線はもう二拍ほど、こちらに残った。
セナが何かを言いかけ――その時、霧の奥で鈴が鳴った。
短く二つ。長く一つ。
発見の合図だった。
「ゴウが拾ったわ! 合流点の上、岩場! ――全員、行くわよ!」
霧の中を、鈴の線に沿って駆ける。
岩場の手前でセナは足を止め、息を整えてから、声を張った。
「聞こえたら、何か鳴らしてー! 石でも、木でもいいわー!」
数拍の、長い静けさ。
こつ、こつ、と小さな音が返ってきた。石で岩を叩く音だ。弱いが、確かに、二回ずつ。
「――いた」
セナの声が、震えて、笑った。
◇
岩陰に、二人はいた。
大きな岩の根元、風の当たらない窪みに、九つの子が七つの子を抱え込むようにして座っていた。読み通りの場所で、読み通りの形だった。
「……おうちのひと?」
九つの子の声は掠れていたが、しっかりしていた。
「さがしにきたわ。もう大丈夫」
「……あのね、こいつ、泣くから。手ぇ引いて、風のないとこ探して……それで、ここ」
「ええ。一番いい場所よ。あなたのおかげで、間に合ったの」
九つの子は、そこで初めて、くしゃりと泣いた。七つの子の方が、まずい。唇の色が薄く、受け答えがとろりと遅い。冷えが進んでいる。
セナが駆け寄ろうとして、寸前で足を緩め、ゆっくりしゃがんだ。怖がらせない速度に、自分で切り替えたのだ。
「よく頑張ったわね。……フワ!」
綿羽鳥が、ふわりと七つの子の胸元に収まった。羽毛の塊のような体は、抱けばそのまま湯たんぽになる。
リオは子供の手首と首筋に触れ、目の開き方を見た。
「セナ、まだ大丈夫。自分で震えてるうちは、体が温まろうとしてる証拠だから」
「動かしていいの?」
「フワで温めながらなら。濡れた上着だけ脱がせて、乾いた布でくるんで運ぶ。……急ごう。日が落ちる」
「ええ!」
鈴が高く鳴り、網が畳まれ、霧の下手から地響きが上がってきた。
ゼグである。
巨体は岩場の手前で止まり、言われる前から、その場に腹を落とした。甲殻の背中がちょうど、揺れない寝台の高さになる。
「ゼグの背が、王都で一番揺れない」
ロディスが毛布を広げながら言った。
「保証する。俺は昔、骨折してこいつで運ばれた」
兄の言う通り、布でくるまれた二人を背に乗せた鎧殻熊は、荷馬車一台分の巨体を、水面を運ぶような足取りで山道へ滑らせた。
霧の切れ間の空に、嵐鷲がひと声鳴いて、麓へ先触れに飛んだ。
カイルはといえば、来た道を一人で駆け戻り、岩陰に脱げ落ちていた小さな靴を、両方拾って追いついてきた。
布ごしに靴を受け取った九つの子が「あっ……おれのだ」と、その日一番しっかりした声を出したので、地味な仕事だが、良い仕事だった。
◇
村は、涙と鐘の音で二人を迎えた。
駆け寄る親たち。上の子は自分の足で母親に飛びつき、下の子は温石とフワごと医者の家へ運ばれて、夜には粥を食べたという。
そして村人たちの感謝は、まっすぐセナの十匹へ注がれた。
リンとスズは代わる代わる撫でられて鈴を鳴らしっぱなしになり、ゴウは子供たちに囲まれて甲羅を叩かれ(本亀はまんざらでもない)、フワに至っては助かった子の腕から離れられなくなっていた。
下の子の母親は、セナの両手を握って、何度も何度も頭を下げた。言葉はもう、ほとんど言葉になっていなかった。セナは握られた手を握り返して、最後まで付き合っていた。
「すげえもんだなあ、テイマーってのは」
村の年寄りがしみじみと言い、その横で上の子が「この鳥、すごくあったかかった!」とフワを指して力説していた。フワは子供の腕の中で、得意げに膨らんだ。
セナは少し潤んだ目で、それを聞いていた。
テイマー冥利、というやつだと思う。
リオはその輪の後ろで、荷物番をしながらあくびを噛んでいた。今日はよく歩いた。それだけの、いつもの顔である。
マリウス教官が、班の前に立った。
「セナ・ラティス。今日の捜索記録は、学園とギルドの両方に残る。誇っていい仕事だ」
「……ありがとうございます」
ヴァンスも、帰りの支度の途中で足を止めた。
「よく十匹も、あの霧の中で動かせるな。……お疲れさま」
「あなたが空から範囲を絞ってくれたおかげよ。助かったわ」
「なら、良かった」
ヴァンスは頷いて、嵐鷲の様子を見に戻っていった。
◇
帰り支度の荷馬車の脇で、ロディスがセナを呼び止めた。
「セナ」
「なに」
「今日の仕事な。ギルドの査定だと、報酬はいくらになると思う」
「……知らないわよ、そんなの」
「値がつかねえんだ、こういうのは」
ロディスは、妹の頭にぽんと手を置いた。子供の頃以来かもしれない、雑な置き方だった。
「人が二人、生きて帰った。値のつかねえ仕事ができる奴が、一番いいテイマーだ。……ギルドに来いとは、もう言わねえよ」
「な、なによ急に」
「今度の休み、実家に顔を出せ。母さんに今日の話をしてやれ。――俺が話すと、盛ってると思われる」
それだけ言って、ロディスはゼグを曳いて行ってしまった。
残されたセナは、頭に置かれた手の重さの分だけ、しばらく黙っていた。
◇
夕暮れの山道を、三人で下る。
カイルは搬送の手伝いで力を使い果たし、「腹減った」を三回言ったあたりで静かになった。静かなカイルは大体、飯のことを考えている。
先を歩くセナの襟が、乱れていた。
捜索で藪をくぐり、子供を抱え、一日中山を駆けた襟だった。
リオは、少し早足で追いついて、言った。
「襟」
指を一本、差すだけ。
セナは反射的に自分の襟を直し――それから、止まった。
振り向いた顔が、みるみる赤くなる。
「な……っ、い、いいのよ私は! 直すのはわたしの係でしょ!」
「係だったのか」
「そうよ! ほら、あなたのが今日も駄目!」
八つ当たりのような手つきで、リオの襟がぐいぐいと直される。いつもより、少し長い。
直し終えても、セナはしばらく襟から手を離さなかった。
それから、うつむいたまま、小さな声が落ちてきた。
「……今日は、ありがと。あなたがいなかったら、外してたわ」
「セナの子たちの手柄だろ」
「〜〜っ、そういうところよ!」
セナはリオの襟をぱっと離し、ずんずんと先を歩いて行ってしまった。
夕陽のせいか、耳まで赤かった。
「なあなあ、今の何の話? ……ってか俺も働いたよな? な?」
「働いた。荷物も、靴も助かった」
「……お、おう。そうだろ!」
素直に褒められると弱いのが、カイルである。それきり満足して黙ったので、下り道は静かだった。
山を下りる頃には、霧はもう晴れていた。
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