第9話 霧の山の二人(前編)
お読みいただきありがとうございます。
リオの学園生活と、十三番窓口の裏仕事を楽しんでいただければ幸いです。
「はい、止まって」
朝の教室前の廊下で、リオは襟を掴まれた。
セナである。慣れた手つきで襟を直し、ついでに寝癖を一撫でして、諦めた顔をする。ここまでが毎朝の儀式だった。
「今日は野外実習なのよ。身だしなみくらい整えなさい」
「山に行くのに?」
「山に行くからよ。だらしない格好は、事故のもとなの」
今日は一年の野外採集実習の日だった。北の山の麓で班ごとに薬草と鉱石見本を採集する、半分遠足のような行事である。
「山かあ! 山って言ったら飯だよな。飯盒って持ってっていいのかな」
「採集実習よ。炊事はないわ」
「じゃあ何のための山だよ!?」
「採集のためよ」
カイルの目的は最初から昼の弁当に決まっていたので、セナの正論は今日も無駄撃ちに終わった。
◇
北の山は、思ったより秋が進んでいた。
色づき始めた斜面に、班ごとの生徒が散っていく。リオたちの班は沢筋で薬草を摘む係になった。
と言っても、実際に働いているのは主にセナの十匹である。
鈴尾鼬のリンとスズが斜面を駆け回って薬草の群生を見つけ、鈴の音で場所を報せる。苔背亀のゴウは水際の泥を検分し、耳長は崖の上の岩鳥の巣を警戒して、近づきすぎる班があるたび耳をぴんと立てた。
「リン、そっちは終わり。スズと交代。ゴウはもう上がっていいわ」
セナの指示は淀みなく、十匹は淀みなく動く。
「見て。教本のいう『群生の三条件』が全部揃ってるの。日当たり、水はけ、それから――ちょっと、聞いてる?」
「聞いてる。三つ目は?」
「……先に聞いた私が馬鹿だったわ。摘む方の手を動かしなさい」
言いながらも、セナの機嫌は良かった。十匹が全員よく働く日は、彼女の声が半音明るくなる。長い付き合いで覚えた、どうでもいい知識である。
リオはその横で、言われた場所の薬草を言われた通りに摘んでいた。今日のリオは、籠を持つ係である。平和な係だった。
「なあ、こういうのって俺いる?」
「重い鉱石は、全部あなたが運ぶのよ」
「ええぇ!? 俺、荷物係!?」
平和だった。
午後の霧が出るまでは。
◇
異変は、下山の集合をかける頃に来た。
麓の村の方から、鐘が鳴った。等間隔に三つ。間を置いて、また三つ。
山で人がいなくなった時の、報せの鐘だった。
集合場所に駆け込んできたのは、村の男だった。マリウス教官に取りすがるように言う。
「子供が……うちの子と、隣の子が、山菜採りに入ったまま戻らんのです! 昼前に出て、もう戻る刻限をとっくに……」
「歳は」
「七つと、九つで」
教官の顔つきが変わった。空を見る。リオも見た。
山の上から、白いものが降りてきていた。霧だ。それも、濃い。
日暮れまで、あと二刻。秋の山の夜は、冷える。七つの子供が越せる夜ではない。
「ギルドに応援を要請済みだ。だが、着くまで待つ時間はない」
マリウス教官は生徒たちを見渡した。
「実習は中止。ここから先は、人命の話だ。……班長は聞け。捜索に適性のある班は申告しろ。適性のない者は下山して村で待機。無理な申告は、二次遭難のもとになる。冷静に判断しろ」
一拍の静けさの後、手が挙がり始めた。
最初に挙げたのは、ヴァンスだった。
「ヴァンス班。空から外周を見ます」
「頼む。次」
セナは、すぐには手を挙げなかった。
足元の十匹を、順に見る。リンを、スズを、ゴウを。適性はある。誰よりある。だが実習と実戦は違う。連れて行くと決めるのは、契約主だ。
その袖を、リンの小さな前足が、ついと引いた。
行こう、と言うように。
「……セナ・ラティス班。地上の捜索に出ます」
セナの声は、少しだけ硬かった。
どこかの班から、小さなささやきが漏れた。
「あの班って、テイマー枠が小型十匹と……契約量ゼロだろ」
「補助ならいいんじゃないか。頭数は要る」
聞こえている。セナにも聞こえている。それでも彼女は挙げた手を下ろさなかったので、リオはそれでいいと思った。
「よし。他は下山。――急げ!」
◇
捜索の支度をしていると、山道の下から地響きに似た足音が上がってきた。
霧を割って現れたのは、荷馬車が丸ごと甲殻をまとったような巨体――鎧殻熊のゼグと、その横を歩く革ずくめの男だった。
「ギルドの応援、一番乗りだ。指揮はどちらに――」
言いかけたロディスが、こちらに気づいて固まった。
「……セナ? なんでお前がいる」
「実習中だったの。私の班も捜索に出るわ」
「お前が?」
ロディスは反射的に妹を値踏みする顔になり、それから山を覆い始めた霧を見て、口を閉じた。文句を言っている時間がないことくらい、プロには分かる。
「……無理はするな。ゼグは搬送と獣除けに回す。何かあったら鈴を鳴らせ」
「ええ」
兄妹の話は、それで終わりだった。この兄妹は、こういう時に長話をしない。
ちなみにゼグは、到着するなりリオに気づいて、嬉しそうに鼻を鳴らした。巨体が半歩こちらへ寄り、ロディスに「仕事だ」と短く叱られて戻った。戻り際まで、こちらを見ていた。
「……お前、ほんとに何なんだろうな」
ロディスの呟きには、答えないでおいた。
ヴァンスが嵐鷲の背に飛び乗り、霧の切れ間を縫って上がっていく。ほどなく、上空から声が降ってきた。
「――外周、確認! 尾根から向こうの崖側に、人の痕跡なし! 越えてはいない!」
「助かる!」
マリウス教官が叫び返した。
尾根は越えていない。つまり、子供たちはこちら側の斜面のどこかにいる。霧で主力の空域捜索を封じられてなお、一瞬の切れ間で消去法の材料を持ち帰る。さすがの腕だった。
降りてきたヴァンスは、悔しさを噛み殺した顔でセナに言った。
「この霧じゃ、上からはここまでだ。……地上は、頼む」
「ええ。空の分も探すわ」
短いやり取りだった。一体を深くの男と、十匹を広くの少女は、互いのやり方に文句をつけたことが一度もない。
だが「こちら側の斜面」は、それでも広い。沢が三本、獣道が数え切れないほど。総当たりで潰せる広さではない。
セナが、班の前で息を吸った。
「霧で視界は使えない。だから――」
言いかけた声が、一瞬だけ揺れた。
視線が、一度だけ泳ぐ。本職のギルド員の背中。教官の背中。実の兄の背中。この場で捜索の網を広げようとしている学生は、自分だけだ。
もし、外したら。もし、この判断で夜になったら。
迷いが顔をよぎるのが、隣のリオには見えた。
リオは、小声で言った。
「……霧なら、セナの子たちの天気だ」
「……っ」
セナは、リオを見た。
それから前を向いて、もう揺れなかった。
「うちの班は音と振動で探すわ。リン、スズ、伝令線! ゴウは沢の合流点! 耳長は――」
十匹が、一斉に散った。
霧の中に、鈴の音が点々と灯っていく。リンとスズが距離を測って止まり、互いの鈴が聞こえる間隔で中継の線を作る。ゴウは沢の岩に張り付いて、水と地面の震えを拾う。耳長は高台で両耳を別々の方向へ向け、綿羽鳥のフワはセナの肩で待機――見つけた後の、保温役だ。
目が使えない山に、耳と振動の網が張られていく。
教本に載っている型ではない。十匹の得意を、十匹分知っている人間にしか組めない網だった。
◇
網が広がっていく間、リオは一人、その場を離れてしゃがみ込んでいた。
「ちょっと。何してるの、こんな時に」
「散歩」
「散歩!?」
「地面の」
セナは何か言いかけ、リオの目が笑っていないのに気づいて、口を閉じた。この男が変なことを言う時は、だいたい何かをしている時だ。それも、長い付き合いで覚えた知識である。
リオは一人、地面を読んでいた。
子供の足跡は、霧と落ち葉でとうに追えない。だが、山は覚えている。
山菜のワラビの、折られた茎。折り口の高さが低い。大人の手ではない。
沢の飛び石の、苔の剥がれ方。小さい靴で、二人分。
岩鳥の警戒声の、届く範囲。あの声が騒いだ場所を、子供たちは避けて歩いたはずだ。
水場の泥の、真新しい足跡――これは子供のものではない。もっと重い、四つ足のもの。
リオは、頭の中の山の絵に、一つずつ印を打っていった。
通れた道。通らなかった道。怖くて避けた道。喉が渇いて向かった先。
迷った子供は、分かれ道で下りを選ぶ。下りは楽で、家は下にあると信じているからだ。霧が出れば、音に寄る。水音は、生き物を呼ぶ。
夕方に冷えれば、風を避けて岩陰に入る。七つと九つなら、九つの方が年下の手を引いて、大きな岩を探すはずだ。
絞られていく。円が、狭くなっていく。
「セナ」
リオは、地図代わりの手帳を差し出した。
「このあたりにいる。東の沢の、二つ目の合流から上。範囲は、石を投げて届く距離の、四つ分くらい」
「……なんで、そこまで」
「山菜の折り口と、苔と、鳥の声で」
セナは三秒だけリオの目を見て、それ以上は聞かなかった。今は結果がすべてで、この男の言うことは、こういう時に外れたためしがない。それを知っている程度には、長い付き合いになっていた。
「全網、東の沢へ移動! ゴウを合流点の上に付け直すわ!」
セナは即座に叫び、それから捜索本部の方へも鈴を一つ飛ばした。ほどなく、霧の下手からロディスの声が返る。
「――ゼグと沢の下流を塞ぐ! 流された場合の保険だ! 上は任せた!」
兄は妹の判断に、一言も疑いを挟まなかった。
網が、円へ向かって絞られていく。
その動きを見ながら、リオは手帳の隅に打った、もう一つの印を親指で隠した。
円のすぐ横、水場の泥にあった、重い四つ足の跡。
蹄が二つに割れて、後ろに小さい踏み荒らしがいくつも付いていた。
――子連れのグレートボアだ。それも、母親の。
子供たちの円と、その縄張りが、重なっている。




