第8話 第十三厩舎(後編)
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第8話の後編です。
「素性は」
ミラの問いに、運び屋が息を切らせながら答えた。
「南区の違法闘技場です。昨夜、ギルドの手入れが入って……闘獣が三頭、押収されました。二頭は大人しかったんですが、こいつだけ、朝から悪くなる一方で」
檻の中で、また体当たりの音がした。
格子の隙間から見えたのは、灰褐色の大きな山猫だった。グランリンクス。中型の獣で、肩は人の腰より高い。古い傷が体中に走り、耳は片方、半分欠けている。闘わされてきた体だった。
その巨躯が、汗に濡れ、痙攣まじりに震えながら、鉄の檻に繰り返しぶつかっている。
ミラは傷だらけのその体を一目見て、それきり、何も言わなかった。
言わない時のこの人が、一番怒っている。
リオは、目を細めた。
突進の線が、全部、壁だ。人ではない。あの夜のゼグと同じ――いや、もっとひどい。ゼグは煩わしさから逃げていた。この子が逃げようとしているのは、自分の体の内側からだ。
出たいのではない。この箱ごと、今の自分から出たいのだ。
「ミラさん。丸囲いは空いてますか」
「調教用のが。……開ける気ね?」
「檻が保ちません。あの格子が中で折れたら、串になります」
ミラは一拍だけ黙り、それから運び屋に叫んだ。
「丸囲いの門、全開! 馬車ごと着けて! あなたは下がって、絶対に声を出さない!」
護衛の指図は荷主より重い、をこの牧場でやるなら、ミラの指図は王命より重い。馬車はすぐに丸囲いへ接続された。
「リオ。言っておくけど」
囲いの柵を跳び越えるリオの背に、ミラの声が飛んだ。
「私の糸は、まだ結べない。中で何かあっても、外からは何もできないわよ」
「大丈夫です」
「根拠は」
「ないですけど、大丈夫です」
「……もう。あの人と同じこと言うのね」
最後のは小さすぎて、よく聞こえなかった。
運び屋が、震える手で閂に取り付いた。
「ほ、本当に開けるんですか。あの中に、一人で」
「声を出さない、と言ったはずよ」
ミラの声は静かで、それ以上の質問を許さなかった。
檻の閂が、外から引かれた。
◇
灰褐色の嵐が、丸囲いに飛び出した。
砂を巻き上げ、柵に沿って疾走する。二周、三周。囲いの中央には、眠そうな少年が一人、立っているだけだ。
四周目で、嵐がこちらを向いた。
血走った目に、リオが映る。震える四肢が沈み、跳ぶための力が溜まる。
リオは、逃げなかった。半身になり、重心だけ静かに落とす。
突進。
土砂降りのような足音が一直線に来て――リオの体は、紙一枚の半歩で、その外側にいた。牙は空を噛み、巨体が砂を裂いて滑っていく。
崩される前に、崩れる場所にいない。あの口の悪い師匠に、百回転がされて覚えた半歩だった。
巨体は柵の手前で身を捻って踏み止まり、砂煙の中からこちらを睨んだ。荒い息。血走った目。それでも、その目の奥で何かが小さく引っかかったのが、リオには見えた。
当たらなかった、ではない。
今の人間は、避ける時に、敵の動きをしなかった。
迷いの分だけ、二度目の助走は短かった。
二度目の突進が来る。
今度は、避けなかった。
「――ごめんな」
すれ違いざま、リオの手が動いた。
右手が首の付け根、左手が肩の急所。二点を取ったまま、突進の勢いを斜め下へ流し、自分の体重を軸に、巨体を砂の上へ滑らせて伏せさせる。力で押さえたのではない。獣自身の勢いを、寝かせる形に畳んだのだ。
どう、と砂が鳴った。
グランリンクスは横倒しのまま、四肢をもがかせ――もがくたび、二点の急所が優しく、しかし正確に効いて、力が抜けていく。殺さず、傷つけず、ただ止める。そういう技だった。
リオは押さえたまま、暴れる耳元に顔を寄せ、自分の呼吸を、ゆっくり、ゆっくり、落としていく。
荒れ狂う呼吸の隙間、一瞬だけ生まれる凪。
そこへ、太い線を一本、通した。
息、ひとつ。
繋がった瞬間、体の内側の嵐が流れ込んできた。焼けるような渇き。皮膚の下を虫が這うような疼き。ないはずの戦いの号令が、頭の中で鳴り続けている。
――ひどいな、これは。
リオは線の向こうへ、静かに、一つだけ渡した。
もう、鳴らなくていい。
号令も、次の試合も、ない。ここには砂と、水と、飯と、眠りしかない。
線の向こうで、嵐が一度、大きくうねった。信じていいのか、確かめるうねりだった。リオは何も足さず、同じものを、同じ温度で、もう一度だけ流した。
巨体の痙攣が、ゆっくりと、間遠になっていく。
もがきが止まり、荒い呼吸だけが残り、やがてそれも、砂に沈むように深くなった。
丸囲いの外は、静まり返っていた。
運び屋は口を開けたまま固まり、ミラは柵に両手をかけたまま、動かない。
「い、今の……見えました? 俺には、半歩動いたのと、手を二回置いたようにしか……」
「静かに。……見えたわよ、全部」
ミラは柵から手を離し、長く息を吐いた。
「……ほんと」
それから、昼間の仕返しのように言った。
「ありえない子」
これで、言い合いは引き分けである。
◇
「今なら、結べるわ」
ミラは囲いに入り、横たわる巨体へ手をかざした。髪より細い糸が、今度は通ったらしい。目を閉じ、内側を読んでいく。その横顔から、みるみる温度が消えた。
「……薬ね。それも、ひどい量」
「興奮剤ですか」
「常用させられてる。たぶん、試合のたびに。それが押収で急に切れて――この子、禁断症状で荒れてたのよ。体当たりも痙攣も、全部」
ミラの指が、宙で小さく動いた。内側の帳面をめくる指だった。
「古傷、二十七。全部、体の前側。……一度も背中を見せてないのね、この子」
逃げなかったのか、逃がされなかったのか。それは、聞かなかった。
ミラは診察を続けながら、吐き捨てるように言った。
「配合が、変。ただの興奮剤じゃないわ。土台になってるのは南方の鎮静花……ルヴィナ産の、眠り花の系統よ。眠らせるための花で、興奮剤を作ってる。薬師は絶対にやらない、趣味の悪い逆立ちだわ」
「……ルヴィナ」
リオは、その国の名前を、口の中で転がした。
聞いたことがある。学園に紛れ込んだ白眠花――あれの産地の見当も、確かルヴィナ方面だった。
「最近、その国の名前を、よく聞きますね」
「そうね」
ミラは手をかざしたまま、少しだけ声を落とした。
「偶然なら、いいけど」
それ以上は、二人とも言わなかった。言えるだけの材料が、まだない。
ただ、ミラは薬の残りを採るための小瓶を、いつもより丁寧に封をして、白紙の司書宛ての箱に入れた。
◇
処置は、日が落ちてから始まった。
薬を抜くための薬湯。渇きに合わせた水。消耗した体に入る、柔らかい飯。ミラが方針を立て、リオが体を支える。
グランリンクスは、もう暴れなかった。線の向こうが静かなままなのを、リオはずっと確かめている。
体を起こさせ、薬湯の桶に顔を導く。
リオの手は、いつも通りに動いた。まず肩。それから首筋。頭に触れるのは、最後。支える時は、関節の内側に手を添えて、獣の骨の向きに沿わせる。
「次は左の前脚を――」
「押さえてます」
「……話が早いわね」
指示と手が、半拍ずれて重なる。ミラの言葉より先に、手の方が動いてしまうのだ。
ふと、視界の端で、ミラの手が止まっているのに気づいた。
薬湯をかき混ぜる杓を持ったまま、彼女はリオの手を見ていた。
「……その押さえ方と、その順番」
「はい?」
「誰に、習ったの」
「誰にも」
リオは、支える手を止めずに答えた。
「物心ついたら、こうでした」
「…………」
ミラは、何かを言いかけた。
言いかけて、やめて、杓を桶に戻し、背を向けて器具を洗い始めた。
水音の向こうから、声がした。
「――いいやり方よ」
振り向かないまま、ミラは言った。
「直すところが、ひとつもない。……忘れないでいなさい、それ」
「……はい」
習った覚えは、ない。ただ、手が先に動くだけだ。
誰の手に似たのだろう、と考えかけて、リオはやめた。眠かったからではない。なんとなく、手を伸ばすには、まだ早い気がしたからだ。
器具を洗う水音は、いつもより少しだけ、長く続いた。
◇
夜半、グランリンクスは眠った。
薬ではなく、自分の眠りで、である。ミラいわく、この子がまともに眠るのは、記録を遡れるかぎりで初めてかもしれない、とのことだった。
「そういえば、この子の名前は」
「闘技場の番号だけ。左耳に、焼き印で」
「……そう」
ミラは寝息を立てる巨体を眺め、それから、当然のように言った。
「番号で呼ぶのは、うちでは禁止なの。あなたが付けなさい。寝かせたのは、あなたなんだから」
「俺ですか」
リオは、砂の上で丸くなる灰褐色を見た。
初めての眠りが、砂の上。
「……スナ」
「あら、いいじゃない」
スナ。囲いの砂を掻いて整えながら、ミラは早速二度、その名を口の中で転がした。糸の向こうの名簿に、書き込んでいるのだろう。
番号が一つ消えて、名前が一つ増えた夜だった。
寝息を確かめて丸囲いを出ると、思わぬものが待っていた。
ガロとジドが、自分たちの囲いの、柵のすぐ際まで出てきていた。
いつもの遠い隅ではない。柵に鼻先が触れそうな距離で、二対の目が、じっとリオを見ている。
リオが近づいても、二頭は下がらなかった。
ジドが、鼻を一度、鳴らした。
それだけだった。それだけだったが――
「……初めてよ」
いつの間にか隣に来ていたミラが、小さく言った。
「あの子たちが自分から柵に寄ったの、初めて」
騒ぎを、ずっと見ていたのだろう。暴れる同類が、傷つけられも罰されもせず、ただ静められて、飯を与えられて、眠りにつくまでを。
言葉の通じない証人たちに、今夜の仕事は、どう映ったのか。
リオは柵の前にしゃがみ、干し肉を二切れ、届く場所に置いた。
二頭は、リオが三歩下がるのを待ってから、それを食べた。
三歩。
今日の昼間までは、囲いの端から端の距離だった。
◇
帰り支度をするリオに、ミラは戸口で言った。
「あなたのそれ、うちの理屈じゃ説明がつかないのよね。糸も結べない嵐の真ん中に、あんな太い線を通すなんて」
「ミラさんのも、教本の外だと思います。五十一本、繋ぎっぱなしとか」
「あら」
ミラは、ふ、と笑った。
「お互い様ね」
「お互い様です」
「また休みに来なさい。人手は、いつでも足りないの」
「……次の休みは、寝ます」
「じゃあその次ね」
断らせる気のない誘いだった。
夜道を歩いて眠り鹿の宿に帰ると、マルタが盆を抱えたまま迎えた。
「おかえり。いい休みだったかい」
「……働きました」
「そりゃあ、いい休みだ」
どこがだ、と思ったが、スープを飲んで寝台に入る頃には、悪くない休みだった気もしてくるのだから、不思議なものである。
明日からはまた、学園だ。
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