第8話 第十三厩舎(前編)
休日の朝、眠り鹿の宿に手紙が届いた。
灰色の封筒なら仕事だが、今日のは違う。藁の匂いのする、厚手の紙だった。
『休みでしょう。たまには顔を出しなさい。手土産は要りません。体だけ持ってきなさい。ミラ』
「……体だけ」
働かせる気しかない文面である。
それでも、グラントの手紙より三行も長い。あの事務所の基準で言えば、これはもう長文の招待状だった。
「あんた、今日は仕事かい」
「休みです。……たぶん」
「たぶんってなんだい」
マルタに弁当を包んでもらい、リオは午前のうちに宿を出た。
◇
第十三厩舎は、王都の北西、街道から外れた谷あいにある。
厩舎、という名前から人が想像するものと、実物は、だいぶ違う。
谷をまるごと使った放牧地に、白い柵が伸びている。日当たりの良い斜面には草を食む影が点々と散り、谷底の池では何かの水獣が背中だけ出して浮かんでいた。木陰では大きいのと小さいのが折り重なって昼寝をしている。
建物は奥に三棟。それより柵と空の方がずっと広い。
厩舎というより、牧場である。名前だけが、実態に追いついていない。
門をくぐると、まず地面が揺れた。
池から上がった水獣――ではなく、放牧地の奥から、見覚えのある長い巨体が滑るように向かってくる。鎖を編んだような灰色の鱗。チェーンスネークだった。
幌馬車二台分の巨体は、リオの三歩手前でぴたりと止まり、大きな頭をぐいと押し付けてきた。
「久しぶり。……太ったな、お前」
押し付けられた頭を撫でる。鱗に、艶が出ていた。喉の鎖痕は、まだうっすら見えるが、あの倉庫で見た頃より、ずっと浅くなって見える。
頭が、そのまま膝の上に載ってきた。
重い。膝が抜けるかと思うほど、重い。だがどかせと言うのも野暮なので、リオはしばらく、道の真ん中で大蛇の枕にされていた。
「――あら、来たわね」
建物の方から、作業着のミラが歩いてきた。手には飼葉用の熊手。
「ちょうどよかった。西の草地の柵、直すから押さえてて」
「……あの、挨拶とかは」
「した。『あら、来たわね』」
「短いですね」
「魔物には長くするわよ」
知っている。この人は、そういう人だ。
◇
午前は、労働だった。
柵の修繕。給餌の桶運び。寝床の藁の入れ替え。手土産は要りません、体だけ持ってきなさい、の意味を、リオは全身で回収していった。
働きながら、牧場の住人たちと顔を合わせていく。
脚を一本失くした鹿型の子は、義足代わりの革具をミラが誂えたらしく、三本と一本で器用に跳ねる。翼の折れた大鳥は飛べないなりに歩くのが速く、桶を運ぶリオの後ろを検分するように付いて回った。日向の隅には、もう目のよく見えない老いた大型が、日の温度だけを追って少しずつ体の向きを変えている。
リオは、どの子に触る時も、まず肩からだった。肩、首、頭の順。逆はやらない。理由は知らない。物心ついた時から、手がそう動くだけだ。
義足の鹿型の子は最初の一度こそ警戒したが、二度目からは肩を出して待つようになった。
保護された魔物たち。行き場のない者たちの、行き着く場所。
ロロもいた。リオの匂いに気づくと、太い尾が千切れそうに振られた。
「ロロ。あなた、昨日の晩、堆肥の裏で何か拾い食いしたでしょう」
通りすがりのミラが、ロロを見もせずに言った。
ロロの尾が、ぴたりと止まった。
「夕飯、一割減らします」
尾どころか、耳まで倒れた。
リオは、桶を置いた。
「……ミラさん。今の、なんで分かったんですか」
「顔に書いてあるもの」
「見てなかったですよね、顔」
ミラは熊手を柵に立てかけ、少し考えるように首を傾げてから、あっさり言った。
「繋がってるのよ。ここの子、全員と」
「全員」
「全員。――こら! 池の! 唇が紫になるまで浸からない!」
ミラが急に振り向いて怒鳴った。谷底の池で、慌てた水音がして、丸い背中がのそのそと岸へ上がっていく。
振り向く前から、冷えていたのが分かったのだ。
リオは、放牧地を見渡した。
斜面の草食みが、ざっと二十。池に三。木陰に五、六。建物の中にもまだいる。目に入るだけで三十を超える。
「……糸を、三十本」
「今は五十一本ね」
こともなげな訂正だった。
「といっても、あなたの想像してる糸とは違うわよ。ほら――」
ミラは、リオの目の前に手をかざした。
「契約に使う糸より、ずっとずっと細いの。髪の毛より細い。細すぎて、命令なんて何も通らない。名前を呼ぶことすらできない。通るのは、体の調子だけ。よく眠れたか、どこか痛くないか、ご飯はおいしかったか。それだけが、水みたいに流れてくるの」
「……五十一本、繋ぎっぱなしで」
「切る理由がないもの」
リオは、想像してみた。
五十一の眠りと、五十一の腹具合と、五十一の痛みの有無が、常に体のどこかを流れている状態。転んだ子がいれば流れが乱れ、眠れない子がいれば夜の水音が変わる。
この牧場全体が、この人の神経の続きなのだ。
――ありえない。
太い線を一本しか通せないリオには、原理から分からない。細い糸を五十一本張って維持するだけでも、並のテイマーなら三日で倒れる。しかもこの人のは、細すぎて糸の勘定にすら入らない。
「疲れないんですか。五十一本も」
「慣れよ。……始めた頃は、雨の日に全員の関節痛がいっぺんに流れてきて、三日寝込んだけど」
「寝込むんですね、ミラさんでも」
「昔の話よ」
「換算したら、契約量はいくつになるんですか」
「さあ。数えたことないわ。……細すぎて、たぶんギルドの帳面には載らないんじゃない?」
載らないだろう。物差しの外だ。
どこかで聞いた話だった。主に、自分のことで。
◇
昼、木陰でマルタの弁当を開けると、ミラも隣に座った。彼女の昼食は、固いパンと干し肉だけだった。魔物の飯には際限なく手をかける人の、自分の飯である。
「……それ、眠り鹿の卵焼き?」
「一切れどうぞ」
「もらう」
卵焼きは、一切れが二切れになり、気づけば半分になっていた。マルタの弁当は、そういう弁当である。
「糸はね」
干し肉を齧りながら、ミラは言った。
「契約のためだけの道具じゃないのよ。世間のテイマーは、糸イコール契約だと思ってるけど」
「……診察にも、使ってますよね」
「あら、気づいてた?」
「午前中、義足の子の革具を直す時。触る前から、擦れてる場所が分かってたので」
「正解。触られるのが嫌いな子もいるもの。なら、触らずに聞けばいいのよ」
気づかれないほど細い糸を、すっと通して、内側から読む。痛みの場所。腹の具合。薬の残り。相手は、読まれたことにすら気づかない。
「魔物使いって、いるでしょう。笛や訓練で獣を使う人たち」
「先週、会いました」
「あの人たちは、糸を知らない。テイマーは糸を知ってるけど、契約にしか使わない。もったいない話よね。糸は、耳にも、聴診器にもなるのに」
そして、とミラは干し肉の最後の一切れを口に放り込んだ。
「――誰かの契約獣にだって、通せるのよ。細い糸ならね。契約の上書きはできない。でも、様子を聞くだけなら、できる」
リオは、手の中のパンを見た。
さらりと言ったが、たぶん、とんでもないことを言っている。他人の従魔の体調を、飼い主にも獣にも気づかれず、外から読める。使いようによっては、どれほどの値がつく技術か分からない。
この人は、それを、革具の当たりを調べるのに使っている。
「……ミラさんって、ありえないですね」
「あなたにだけは言われたくないわねえ」
即答だった。
◇
午後、リオは牧場の一番奥へ連れて行かれた。
他の区画から少し離れた、静かな囲いだった。
柵の向こうに、灰色の影が二つ。ガロとジドだ。
二頭は、リオたちの気配に気づくと、囲いの一番遠い隅まで下がった。低い唸りはない。牙も見せない。ただ、距離だけを、正確に取る。
「ご飯は食べるの。残さずね。でも、それだけ」
ミラは柵に腕を載せた。
「体は触らせない。爪も切らせない。……ここに来てから、誰の手も受けてないわ」
「……糸は」
聞いてから、気づいた。
この人の糸は、気づかれない。通そうと思えば、あの二頭が警戒しようが何をしようが、とっくに通っているはずだ。
「通してないの」
ミラは、先回りして言った。
「通せない、じゃなくて」
「通さない、の」
彼女は、隅で丸くなる二つの灰色を見たまま、続けた。
「あの子たちはね、生まれてからずっと、契約を鞭の代わりにされてきたの。人間との繋がりイコール痛い、で体ができあがってる。そこへ着いて早々、本人に気づかれもしない糸を、また人間の都合で通すの? ――私は、嫌よ」
声は、静かだった。
「次にあの子たちに通る糸は、あの子たちが人間を選び直してからでいい。時間はかかるでしょうけど、うちは逃げないもの。牧場ごと、ここにあるんだから」
リオは、柵の向こうの二頭を見た。
二頭も、こちらを見ていた。距離は遠い。だが、あの山で会った時のような、目の底の張り詰めは、少しだけ薄くなっている気がした。
「……手伝います。時間のかかるやつ、少しは慣れてるので」
「そう言うと思って呼んだのよ」
ミラは、初めて少しだけ笑った。
リオは柵から数歩離れた場所に、静かに腰を下ろした。呼ばない。見つめない。ただ、風下で、干し肉の匂いだけをそちらに流す。
「まず、何もしないところから始めます」
「ええ。それが一番時間がかかって、一番早いのよね」
二つの灰色は、隅から動かなかった。動かなかったが、耳だけは、ずっとこちらを向いていた。
今日のところは、それで十分だった。
◇
日が谷の稜線にかかる頃、門の方から車輪の音がした。
幌馬車が一台、砂埃を上げて入ってくる。窓口の押収便だ。
様子が、おかしかった。
荷台の檻が、がたがたと跳ねている。馬車を降りた運び屋が、転がるようにミラへ駆け寄った。
「ミラさん! すみません、道中からずっとこの調子で……檻から出せません! というか、近づけません!」
檻の中で、何かが壁に体当たりを繰り返している。悲鳴のような、咆哮のような声。頑丈な護送檻の格子が、内側から目に見えて歪んでいた。
ミラの顔から、昼間の緩さが消えた。
檻に向けて、すっと手をかざす。あの、気づかれない糸を通す仕草だ。
数拍の後、ミラは眉を寄せて、手を下ろした。
「……駄目ね。結べない」
「通らないんですか。ミラさんの糸が」
「拒まれてるんじゃないの。中が荒れすぎて、糸の結び目が持たないのよ。嵐の中で針に糸を通すようなものだわ」
彼女は、隣の眠そうな顔を見た。
「リオ」
「はい」
「休みは、ここまでね」




