第7話 冴えないおっさんと子供(後編)
倒木の手前で、隊列が止まった。
「な、なんだ? なんで止まる」
二台目の御者台で、ドニが腰を浮かせた。
答えたのは、道の両側だった。
斜面の藪から、男たちが湧いた。前に五人。振り向けば、来た道を塞ぐように、さらに四人。手には抜き身の剣と斧。そして後ろの四人の足元に、黒い犬が三頭、低く伏せていた。
前に五、後ろに四。合わせて九人。
昨夜の火の横で聞いた通りの数字だった。寝ながら数えた人数が、一人も外れていない。
ウォードッグ。人を狩るために仕込まれた、犬型の魔物だ。
「て、敵襲! 敵襲だ! 護衛! 護衛はどこだ!」
ドニの声が裏返る。
リオは、先頭の馬車から静かに降りた。
「――皆さん、手綱を握って。目隠しの布をかけてください。合図があるまで、動かないで」
御者たちの動きは、早かった。誰一人、聞き返さなかった。会長に申しつけられた通り、護衛の指図は荷主より重い。
「お、おい、なんで子供の指図に……!」
「決まりですので」
古参の御者は、ドニの抗議を一言で流し、自分のカーゴホースの目に布を掛けた。
最後尾の幌が、もそりと動いた。
ガルドが、寝癖のついた頭で降りてくる。後で御者たちが口を揃えて言うには、隊列が止まるより早く、幌の中の気配はもう起きていたらしい。
欠伸をひとつ。腰の剣は、まだ差したままですらない。片手にぶら下げている。
前方の五人の真ん中、傷跡のある大柄な男が、それを見て鼻で笑った。
「……おい、大将さんよ。護衛はそれで全部か? 寝ぼけたおっさんと、ガキが一匹」
「荷を置いて消えな。そうすりゃ命までは取らねえ」
周りの男たちが、下卑た声で笑った。
ガルドは、欠伸の続きのような声で言った。
「――リオ。犬、頼む」
「はい」
「それと会計さんよ」
ドニが、びくりと跳ねた。
「そこから一歩も動くな。数を数えてろ。百までだ」
「か、数……?」
答えは、なかった。
傷跡の男が顎をしゃくり、後方で犬笛が鳴ったからだ。
◇
三つの黒い影が、地を這うように駆けた。
狙いは人ではない。馬だ。曳き手を暴れさせて隊列を崩す。隊商を襲う側の、定石だった。
その定石の進路に、リオは立った。
先頭の一頭と、目が合う。
――ああ、と思った。
恨みも、飢えも、恐怖もない。あるのは仕事だけだ。笛が鳴った、だから走る。この犬たちは、雇われている。あの山のグリムウルフたちとは、目の底がまるで違う。
それに、首輪はあっても、契約の糸がない。あの犬使いはテイマーではなく、笛と訓練で獣を使う、魔物使いの類だ。つまり、この犬たちの雇用は――今この場で、上書きできる。
なら、話は早い。プロは、条件で動く。
リオは糸を伸ばした。太い線を一本。
「その仕事、こっちの方が割がいい」という一点に、走り込んでくる呼吸の切れ目を狙って、静かに通す。
息、ひとつ。
先頭の一頭が、砂埃を立てて止まった。
線を通したのは、この一頭だけだ。
二頭目と三頭目が、つられて足を乱す。群れの仕事は先頭が決める。先頭が降りた仕事に、残りは付いてこない。三頭は数歩の混乱の後、そろってリオの足元まで歩き、伏せた。
後方で、犬笛が続けざまに鳴った。
「な……っ、おい! 行け! 仕事だ、行け!」
犬使いの男が、千切れるほど笛を吹く。
三頭は、動かなかった。先頭の一頭に至っては、笛の音に耳を伏せて、露骨に迷惑そうな顔をした。
リオは三頭の前にしゃがみ、小声で言った。
「あとで、干し肉を出す。今の雇い主より、いい飯だ」
尾が三本、同時に揺れた。
交渉は、成立である。
「そんな……笛だぞ……三年仕込んだ、俺の笛だぞ……」
犬使いの男は、鳴らない笛を握ったまま、膝から崩れた。気の毒だが、待遇を見直さなかった側の問題である。
◇
その間に、人間の方は、もっと静かに終わりつつあった。
ドニは言われた通り、御者台の上で数を数えていた。数えながら、見た。見たはずだった。それでも後から思い返すと、順番がよく分からない。
七、八と数えたあたりで、先頭の素人二人が、いつの間にか自分の外套で視界を巻かれて、絡まり合って転がっていた。ガルドの手には、いつの間にかその外套があった。いつ脱がせたのかは、見えなかった。
十五のあたりで、崖の上から矢が来た。
ガルドは半歩で外し、足元の石を拾って、下手で投げた。崖の上で短い悲鳴がして、弓が先に落ちてきた。射手は木に引っかかったらしく、降ってこなかった。
二十八で、山賊崩れの三人が同時にかかって、三人とも自分の仲間の得物に足を取られて転がった。ガルドが触れたのは、三人の肘と膝を合計四回、軽く押しただけに見えた。
四十を過ぎて、残りが元傭兵の三人になった。
ここで初めて、ガルドは剣を抜いた。
一度だけ。
三人が三方向から打ち込んだ剣が、一つの動きの中でまとめて絡め取られ、弾かれ、峰で順に落とされた。金属の音は、都合三度。ドニの耳には、ほとんど一つの和音に聞こえた。
剣は、もう鞘に戻っていた。
ドニの頭の中の算盤は、三十を数えたあたりから、玉を弾くのをやめていた。損得の計算が追いつく速さの出来事ではなかった。
ただ一つ、商人の目が勝手に拾ったことがある。
転がった男たちは、全員、荷から遠ざかる向きに転がっていた。偶然で九人がそうなるものか、それはドニには分からない。分からないが、帳尻だけは読めた。この護衛は、賊を倒しながら、同時に荷を一寸も危険に晒していない。
五十六で、最後に残った傷跡の大男が、初めて構えを取った。腰の据わった、場数の見える構えだった。
「……てめえ、只者じゃねえな」
「只の護衛だ」
大男は摺り足で間合いを詰め――踏み込んだ軸足が、さっきまでそこになかったはずの砂の窪みに沈んだ。
体勢が流れる。流れた先には、もうガルドがいた。
肘。膝。肩。三カ所を順に押さえられ、大男は自分の重さで地面に縫い付けられた。
六十二。
ドニは、そこで数えるのをやめた。
峠道には、呻き声と、目隠しのまま行儀よく立ち尽くす十二頭のカーゴホースと、伏せた犬が三頭。
荷には、矢の一本も届いていなかった。
そして――剣戟と悲鳴の間、あの臆病なはずの曳き獣たちが一歩も乱れなかったのは、眠そうな子供が馬列の横を、ただゆっくり一往復していたからだ。
ドニがそれを思い出して二度目に青ざめるのは、もう少し後の話である。
◇
九人は荷縄で数珠繋ぎにされ、倒木にくくられた。倒木は、彼ら自身が退かすことになった。縛られる前に、である。ガルドが「道を塞いだ奴が直すのが筋だろう」と言ったからで、反論した者はいなかった。
次の宿場で、一行は街道ギルドの出張所に賊を引き渡し、ドニが震える手の調書に署名した。賞金が出るらしい。護衛料の足しには、到底ならない額だという。
約束の干し肉は、出張所の前で三等分された。仕事を降りた分の、前の雇い主より良い飯である。先頭の一頭は食べ終わると、リオの手のひらを一度だけ舐めた。
テイムは、その場で解いた。線の向こうから、湿った鼻息のような名残が返った。
ウォードッグの三頭は、没収品として競売に回される――という話を聞いたドニが、その場で手を挙げた。
「待ってください。あの三頭、うちで買います」
「は?」
「よく仕込まれた犬です。競売で潰しに流れるくらいなら、うちの倉庫の護衛犬として雇った方が利に適う。……それに」
ドニは、ちらりとリオを見た。
「懐かせ方は、教えてもらえるんでしょうな」
「干し肉があれば、誰でも」
「では決まりだ」
算盤の弾ける音が、聞こえた気がした。
◇
レーデンには、翌日の昼に着いた。
祭りを控えた街は華やいでいて、オルドナ商会の反物は、荷下ろしの端から人だかりを作った。
護送の仕事は、ここで終わりである。
別れ際、ドニは深々と頭を下げた。
「……正直に申し上げます。出発の朝、私はお二人を見て、会長に護衛料の値切りを具申するつもりでした。幅も決めていました。二割です」
「知ってます」
「き、聞こえてましたか」
「はい。……値切り幅は、初耳ですけど」
「なぜ自分から言ったんだ、私は……」
ドニは赤くなり、それでも顔を上げて、はっきり言った。
「撤回します。帰ったら会長に具申します。次も、必ずお二人で――それと、あの護衛料は、安い」
商人の物差しで、それは最上級の言葉なのだろう。
ガルドは欠伸で応え、リオは会釈で応えた。
その晩、レーデンの祭りの屋台で、ガルドが串焼きを二本買った。
一本が、無言でリオに突き出される。
「……どうも」
「飯は食える時に食っとけ。それも仕事のうちだ」
二人並んで、壁にもたれて串を齧った。祭りの灯りが、通りの端まで揺れている。
「あの剣術科の坊主」
ガルドが、串の先で誰とも言わずに言った。
「カイルですか」
「伸びるぞ、ありゃ。下がり方を知ってる奴は、死なねえからな」
「本人に言ってやってください」
「言うと調子に乗るから言わねえ」
串を齧る音だけが、しばらく続いた。
この人の褒め言葉は、いつも本人のいない所に落ちている。拾って届けるのは、たぶんリオの仕事ではない。ないが――今度、それとなく落としておこうとは思った。
◇
月曜の朝、商会の戻り便が出た。
急ぎ荷は、祭りの初物の染料と香辛料。馬車は一台、曳き手は二頭。右列三頭目だったあの子と、その相棒である。
御者は例の古参だった。街道に出てしばらくすると、御者は苦笑いして手綱を差し出してきた。
「……あんたが隣にいると、こいつら妙に張り切っちまってな。いっそ、握ってみるかい」
「いいんですか」
「会長の決まりだ。護衛の指図は荷主より重い。――もう護衛じゃないが、まあ、似たようなもんだろ」
リオが手綱を受け取ると、二頭の耳がぴんと立った。
それからの戻り便は、古参の御者いわく「三十年で一番早い戻り」になった。飛ばしたわけではない。二頭の歩みが、最初から最後まで一度も乱れなかっただけだ。休憩のたびにリオの髪は食まれ、王都に着く頃には、寝癖は過去最大の版図を獲得していた。
急ぎ荷は月曜の夜、予定より二刻も早く商会の蔵に納まったという。
◇
火曜の朝、リオの体調は予定通り治った。
「よお、リオ! 月曜どこにいたんだよ。飯とか、ちゃんと食えてたのか?」
「寝てた。食べてた」
「元気そうで何よりだよ!」
「そっか。なあ聞けよ、昨日も自主練でさ、あの下がる感じ、ちょっとだけ分かってきた気がするんだよ。ガルド先生、次いつ来るかな」
「……気が向いたら、来るんじゃないか」
「なんだよそれ」
なんだよそれ、とリオも思うが、あの人はそういう人である。
席に着くと、セナが横から手を伸ばして、いつものように襟を直した。
「二日も休むなんて、珍しいわね」
「腹の風邪で」
「そう」
セナはそれ以上、聞かなかった。ただ、直し終えた襟を軽く叩いて、一言だけ付け足した。
「……顔色は、いつもよりいいけど」
街道の日差しのことは、言わないでおいた。
放課後、眠り鹿の宿に帰ると、食堂の隅に見慣れない樽がひとつ、鎮座していた。
「あんた宛てだよ。ソルとかいう明るい兄ちゃんが、えらい勢いで礼を言って置いてった」
マルタが、盆で樽を指す。
ソル。先日、西の山道で山賊から助け出した、あの配達係の青年である。無事に仕事へ戻ったらしい。何よりだが、礼の桁がおかしい。
蓋を開けると、干し芋がぎっしり詰まっていた。樽で、である。
「……食べます」
「一人で食べきったら承知しないよ。スープに沈めるからね」
干し芋のスープとは何だ、と思ったが、マルタが言うなら、たぶんうまいのだろう。
リオは干し芋を一本咥えて、二階へ上がった。
今夜は、依頼のない夜だ。
つまり、朝まで眠れる夜である。
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