第7話 冴えないおっさんと子供(前編)
「リオ! 今日の四限、絶対サボるなよ!」
朝一番、教室に飛び込んできたカイルの声は、いつもの三割増しだった。
「……四限。剣術科の何かだろ。俺、テイム科なんだが」
「一年から三年の合同公開稽古だよ! しかも今日は特別で、先生たちに直接挑んでいいんだ。分かるか? 日頃の恨みを、合法的にぶつけていい日ってことだ」
「恨まれてる自覚はあるんだな、先生たちも」
「マリウス教官の追い込み走の恨みは深いぞ……。とにかく見学自由だから、絶対来いよ!」
というわけで、四限。
リオは剣術科の演習場の隅で、見学の列に並ばされていた。セナは「課題があるから」と図書館へ逃げた。賢明な判断だと思う。
演習場には、受け手の教師が三人立っていた。
中央にマリウス教官。騎士団帰りの体は岩のようで、木剣を提げて立っているだけで、そのあたりの空気が締まって見える。隣にもう一人、常勤の剣術教師。
そして端に、見慣れない男が一人いた。
中肉中背。癖のある白髪交じりの髪に、無精髭。着古した稽古着はどこかの道場の払い下げのようで、腰の得物も飾り気のない数打ちに見える。年の頃は四十半ば。往来ですれ違えば、十人が十人、覚えていない類の男だった。
今学期から来た非常勤講師で、名をガルドというらしい――というのが、生徒たちの知っている全部である。
リオは、素知らぬ顔でその男を見た。
男も、見学の列に一度も目をやらなかった。
つまり、いつも通りである。
◇
挑戦は、マリウス教官の列から始まった。
さすがに上級生が中心で、質は高かった。
三年の主席の突きは、見学席から悲鳴のような歓声が上がる速さで、あのマリウス教官が初めて半歩、受けで下がった。
「……今のは肝が冷えたぞ。その突き、騎士団でも通じる」
教官が笑い、演習場が沸く。続く二年の双剣使いは変則の連撃で教官の袖を一度掠め、悔しそうな教官の顔に、また沸いた。
一本を取った者こそいないが、取られる側が本気で汗をかいている。アルフェンの剣術科は、強い。改めて見ると、よく分かる。
一方――端のガルドの列には、誰も並んでいなかった。
見た目が見た目である。せっかく挑むなら、名物のマリウス教官から一本を狙う方が名誉になる。それが生徒たちの勘定だった。
「じゃ、俺、空いてるあっち行くわ」
並ばずに済むなら空いている列へ。食堂と同じ理屈で、カイルはガルドの前に立った。
◇
結果から言えば、カイルは三回転がされた。
一回目は足場。二回目は呼吸。三回目は、打ち込みの途中で視線を釣られて。
だが、三回目の直前、カイルは一度だけ、崩されかけた体勢を強引に立て直した。膝と腰を割って、半歩下がって、仕切り直した。そこからもう一度打ち込んで、転がされた。
起き上がったカイルに、ガルドは初めて、質問をした。
「おい。最後の一本の前、なんで下がった」
「え? ……なんか、やべえって思ったんで」
「何がやばかった」
「分かんないっす。分かんないですけど、そのまま行ったら転ぶなって」
「そうか」
ガルドは顎の無精髭を掻いた。
「今日この場で、転がる前に自分から下がったのは、お前だけだ。覚えとけ」
「……っす!!」
カイルの返事が演習場に響き渡った。本人はたぶん、半分も意味が分かっていない。分かっていないが、嬉しいことだけは分かる顔だった。
そして、その頃には周りも気づき始めていた。
「……おい。カイルの奴、三回行って、一回も剣に触られてなくないか」
「っていうか、あの先生、動いたか? 今」
ざわめきを割って歩いてきたのは、マリウス教官だった。自分の列を止めてまで、である。
「レイヴン殿。私にも、一手願えますか」
「……勤務の範囲外だぞ」
「四限の内です」
ガルドは心底面倒くさそうに首を鳴らして、受けた。
結果は、四合だった。
マリウス教官の剛剣が四度目に空を薙いだ時、教官の軸足はなぜか砂の浅い窪みの上にあり、崩れかけたその体を、ガルドの手のひらが軽く支えた。倒しすらしなかった。
「――参りました。……相変わらずですな」
「歳のわりに、しつこくはなった」
二人の間にだけ通じる言い方だった。昔、どこかで手合わせたことがあるのだろう。
演習場は、静まり返っていた。
自分たちの知る一番強い教官が、四合で、汗ひとつかかせられずに。
あの冴えない非常勤は何者だ、という顔が、ずらりと並んでいた。
リオだけは、知っている。裏の世界であの人が何と呼ばれているかを。
――剣聖崩し。
人間が相手なら、たぶん王都で一番厄介な男。
ちなみにリオも、昔この人に体捌きを仕込まれている。教え方は「実際にやられて覚えろ」の一点張りで、覚えるまで文字通り百回転がされた。床のカイルには同情しかない。
講義の締めに、ガルドは静まり返った演習場へ、面倒くさそうに一度だけ言った。
「型は覚えろ。型は良いもんだ。……ただし、型のまま来るな。以上」
解散の号令と同時に、剣術科の生徒たちがガルドに殺到した。
教えてください、次はいつ来るんですか、弟子は取らないんですか。囲まれたガルドは、心底うんざりした顔で手を振った。
「ああ、分かった分かった。……気が向いたら、たまには教えに来てやる。今日はもう店じまいだ」
気が向いたら、の一言に、演習場がまた沸いた。
リオは列を離れ、あくびを噛みながら演習場を出た。
出口の脇に、いつの間にかガルドが立っていた。ついさっきまで生徒に囲まれていたはずの男が、である。
すれ違いざま、互いに目も合わせなかった。
「――土曜。東門。朝六時」
声は、リオにしか届かない大きさだった。
「……はい」
それだけだった。
後ろでカイルが「あれ、リオ、今なんか言ったか?」と首をかしげていたが、リオは「眠い、って言った」で押し通した。
◇
翌日、図書館で受け取った本には、いつもの薄紙が挟まっていた。
『オルドナ商会・隊商護送。王都〜レーデン、二泊三日。同行者一名。帰路は商会の戻り便を手配済み。詳細は当日』
オルドナ商会といえば、王都でも五本の指に入る大店だ。反物と工芸品を主に扱う老舗で、窓口の古いお得意様でもあるという。
同行者一名。誰かは書いていない。
書いていないが、土曜、東門、朝六時である。
――ガルドさんと護送か。
人は向こう、魔物はこちら。分担が最初から決まっている組み合わせだった。楽といえば、一番楽な相方かもしれない。
問題は、月曜だ。往きの護送が二泊三日である以上、どうやっても一日はみ出る。
「白紙先生。月曜なんですが」
「往きが二泊三日。お帰りは」
「商会の戻り便に乗せてもらえるそうです。急ぎの荷らしいので、月曜の夜には王都に着くかと」
「では、月曜に体調の悪くなる予定を。治る予定は、火曜の朝に入れておきます」
この図書館では、予定はいつも先に決まっている。
◇
土曜、朝六時の東門は、隊商の熱気で膨らんでいた。
幌馬車が六台。荷はレーデンの祭りに合わせた反物と工芸品で、積み荷の総額は聞かない方が眠りにいい額らしい。馬車を曳くのは馬ではなく、カーゴホースが十二頭。馬より二回り大きい馬型の魔物で、力が強く、長距離に強い。大店の隊商の定番だ。
「おお! おお、来てくださった!」
恰幅のいい老人が、両手を広げて出迎えた。オルドナ会長その人である。
「いつものお二人だ! いやあ、今回は積み荷が積み荷ですからな、無理を言って指名させていただきました。これで枕を高くして眠れます」
「お世話になります」
リオが頭を下げると、会長は深く頷いた。
「道中のことは、何であれお二人の指図に従うよう、皆に申しつけてあります。長い付き合いで学んだ、うちの決まりですのでな」
護衛の言うことは、荷主より重い。それを笑わずに言える客は、そう多くない。
「どうも」
リオの隣で、ガルドが会釈とも言えない角度で頭を動かした。
今日のガルドは、昨日にも増して冴えなかった。着古した旅装に、うっすら寝癖。腰の剣がなければ、隊商に紛れた日雇いの荷番にしか見えない。
そして、その様子を少し離れた場所から見ている若い男がいた。
仕立てのいい上着に、算盤胝のある指。歳は二十半ば。今回の隊商の差配を任された、番頭候補のドニという男だと、後で知った。
ドニは、隣の古参の御者に小声で言った。小声のつもりの声だった。
「……おい。護衛はどこだ」
「あちらのお二人ですよ」
「は? あの、冴えないおっさんと子供が?」
リオの耳は、拾ってしまった。
「冗談だろう。今回の護衛料、いくらか知ってるのか。俺の給金の三年分だぞ。腕利きの傭兵団を丸ごと雇える額だ。それが……おい、見ろ、おっさんの方はもう荷台で寝ようとしてるじゃないか」
見ると、本当だった。ガルドは最後尾の幌馬車に上がり込み、荷の隙間に体を沈めて、目を閉じるところだった。
「会長は昔からああおっしゃるが……本当に大丈夫なのか、あれで」
ドニの声には、落胆と、積み荷の総額分の不安が滲んでいた。
リオは、聞こえなかった顔で、カーゴホースの列へ歩いた。
護衛の評価は、道中でしか変わらない。それに――
十二頭のうち、右列の三頭目。
歩き出す前から、あの子の足が気になっていた。
◇
隊商は、朝の街道を滑り出した。
初日は平野の一本道で、護衛の出番は少ない。リオは最後尾の馬車の縁に腰かけ、半分眠りながら、風の匂いと車輪の数だけを数えていた。
ガルドは、本当に寝ていた。
堂々と、幌の下で、いびきまでかいて。
「……おい、見ろ。護衛が高いびきだぞ」
「ドニさん、声が大きいですよ」
「これが落ち着いていられるか。この積み荷だぞ」
ドニの苛立ちは、昼を過ぎる頃には隊商全体にうっすら染みていた。護衛が働かないという不安は、荷を扱う人間の背中を硬くする。
リオが動いたのは、昼の休憩の時だった。
右列三頭目のカーゴホース。朝、東門で目をつけた子だ。荷を曳いている間は分からない程度に、歩様がわずかに右へ流れる。休憩で荷を外した瞬間、右前足の置き方に、はっきり庇いが出た。
「すみません。この子の足、見せてもらっても」
「ん? ああ、構わんが……」
古参の御者が首をかしげる横で、リオは馬体の斜め前に立ち、目の高さを落とした。カーゴホースの大きな鼻面が、ふん、と匂いを確かめに降りてくる。
蹄を持ち上げる。嫌がらない。
蹄鉄の内側、溝の脇に、小石が一つ、深く噛み込んでいた。
「石です。今日中に抜けば、何ともないです」
「どれ。……こりゃあ、深いな。よく分かったね、あんた。こいつら我慢強いから、足を引きずる頃にはだいたい手遅れなんだが」
「歩き方が、少しだけ右に流れてたので」
「歩き方って……曳いてる時のかい?」
御者の目の色が、変わった。
石を抜き、薬を塗って詰め物をする間、カーゴホースは大人しく足を預けていた。終わると同時に、大きな唇がリオの髪をむしゃむしゃと食む。
「こら。飯じゃない」
翌朝には、十二頭全員が、リオの姿を見るたび鼻を鳴らすようになっていた。餌もやっていないのに、である。
「……妙な子供だな」
ドニがぽつりと言うのへ、古参の御者が笑った。
「妙どころじゃありませんよ、ありゃあ」
◇
二日目の夜営。
リオは火の番を装って、半分だけ起きていた。
昼間あれだけ寝ていた男は、日が落ちると、幌の下から音もなく消えた。今は野営の外周のどこかにいる。姿は見えない。ただ、時折、闇の遠くで小枝が一本鳴り、少しして別の方向で夜鳥が一羽立つ。
歩いているのだ。野営を囲む大きな円を、夜通し。
並の護衛は、夜を二交代か三交代で守る。あの人は昼を全部捨てて、夜を全部ひとりで持つ。それが一番確実だと知っているからそうするだけで、昼間の自分が他人にどう見えるかは、最初から勘定に入れていない。
――勘定に入れないから、ああ見えるんだよな。
リオは火に薪を一本足して、目を閉じた。半分だけ。
夜半、薪を取りに来たふりのガルドが、火の横にしゃがんだ。
「明日の峠。客が来るぞ」
「……何人ですか」
「九。足音の癖からして、半分は山賊崩れの素人だ。残りは、銭で雇われた元傭兵ってとこか。一昨日から、こっちと同じ宿場をなぞってやがる」
「寝てたのに、よく気づきますね」
「寝てる間も、耳と足の裏は起きてる」
無茶を言う。だが、この人が言うなら、明日の峠には九人いる。
「魔物は」
「連れてるな。夕方の風に、犬の匂いが混じってた。それと犬笛だ」
「なら、いつも通りで」
「おう。人は俺、獣はお前だ」
ガルドは薪を一本だけ持って、また闇に溶けた。
◇
三日目の朝。何も知らないドニは、いつも通り護衛の勤務態度に眉を寄せながら、隊商を峠道へ進めた。
両側を斜面に挟まれた、細い登りの道。
その先の曲がり口に――倒木が、一本、横たわっていた。




