第75話 並ぶ
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第75話です。
夏祭りの誘いは、カイルから来た。
「夏祭り、みんなで行くぞ! ダリオたちの帰還祝いも兼ねてな!」
来たはずだったのだが、当日の夕方に集合場所の噴水前に立っていたのはセナ一人だった。
「……他の人たちは」
「カイルは『ホムラの飯の都合』、ノアは『ゼルの夜の見回り』、ダリオは『ガルフの毛繕い』、ヴァンスは『嵐鷲の機嫌』、テッサは『納期』ですって」
セナは伝言を読み上げる口調で言い、帳面を閉じた。
「五人揃って魔物と仕事のせいにしたわ。器用な学年よね」
「……行くか」
「行くわよ。ここまで来て帰るのも、癪だし」
よそ行きの上着に、いつもより丁寧に結った髪だった。迎えの朝にマルタが見たという格好を、リオは初めて隣で見た。
歩き出す前に、ポケットの中であかりが小さく言った。
「きょうは、しずかにしてるね」
「……気を使ったのか」
「おまつりは、ふたりで、まわるものって、ばるかが」
台所の大男は、余計なことまで教えるらしい。
◇
祭りの大通りは、人と灯りで煮えていた。
射的の屋台でセナは三発撃って、三発外した。
「……おかしいわね。理論上は当たるはずなのに」
「貸して」
リオは五発借りて、五発当てた。的の揺れと銃身の癖を読むのは、夜の仕事の初歩の初歩だ。店主が涙目で差し出した一番大きな景品を、そのままセナに渡す。
「……腕前の出所は、聞かないであげる」
「どうも」
飴細工の屋台では、竜の飴を見つけて二人で笑った。
「ちゃぷに見せたら、喜ぶかしら」
「食い物だと思って、水に浸けると思う」
リュート座の出店では月の飴が売られていて、セナは観劇の夜と同じ顔で一つ買った。
広場の隅では、影絵の出し物が掛かっていた。建国譚だ。槍も杖も持たずに山へ来た男が、森の入り口で三日三晩待つ。やがて獣が出てきて問う。誰だ、何をしに来た。
――共に住みたい。
男の影がそう答えるところで、子供たちが拍手した。
「……あなたの祖先かもね、あの人」
「糸は、持ってなさそうだけどな」
「糸なんて要らなかったのよ、きっと。三日三晩待てる人だもの」
待つことと結ぶことの国の話を、糸の少年と十二匹の少女が並んで見ていた。去年までの祭りは仕事の夜だった。覆面も、裏の口も、今年はない。ただ歩くだけの祭りは、思っていたより忙しなくて、思っていたよりずっと明るかった。
人混みが、一番深くなる角だった。
「セナ」
リオは、先に手を出した。
「はぐれる」
セナは差し出された手を見て、それからリオの顔を見た。間が、一つ。
「……そうね。はぐれるものね」
繋いだ手は、人混みを抜けてもどちらからも離されなかった。
◇
祭りの熱を冷ましに、川辺へ下りた。
いつもの場所だ。十三個目を聞いた石に並んで座ると、祭りの灯りが川面の向こうで揺れて囃子が遠くなった。
「ねえ。進路、どうするの」
「窓口に残る。……あそこが、俺の居場所だから」
「そう。じゃあ、王都にいるのね」
「セナは」
「獣医師会から誘いが来てるの。十二匹育てた実績と、首席三年分で。……まだ決めてないけど、王都からは出ないわ」
セナは前を向いたまま、理由を一つだけ足した。
「出る理由が、ないもの」
「……十二匹も、王都の方が暮らしやすいしな」
「ええ、そうね。十二匹と……あと、一人ね」
「一人?」
「スズがね、最近あなたの匂いを覚えすぎて、鞄に勝手に入るのよ。この前なんて、気づいたら窓口の前まで運ばされてたわ」
「知ってる。茶を出した」
「聞いてないわよ、それ」
川の音が、間を埋めた。
言うなら、今なのだろう、とリオは思った。
言葉は、いくつか持っていた。隣にいたい、とか。これからも、とか。口の中で転がして、どれも違う気がして選び直した。
横を見ると、セナは祭りの灯りを見ていた。灯りの方を見ているのに、こちらの視線に気づいている横顔だった。急かさない横顔だった。
急かされていないと分かったら――
選んでいる途中で、祭りの疲れと川風の心地よさと、隣の気配の安心が先に来た。
◇
肩に、重みが乗った。
セナは、硬直した。
見ると、リオの頭が肩に乗っていた。規則正しい寝息が、すぐ近くで続いている。
「……は?」
声が、裏返った。
「ちょっと。嘘でしょう。この流れで? この流れで寝る?」
返事は、寝息だった。
セナは怒ろうとして、息を吸って、吸ったまま止めた。
止めて、考えた。
眠り鹿の宿の、看板の由来を思い出していた。鹿は耳のいい獣で、物音一つで跳ね起きる。その鹿が脚を畳んで眠るのは、そこが本当に安全な場所の時だけ。
王都で一番の眠たがりは、どこでも寝ているようでいて、本当はずっと片方の耳を立てて生きてきた男だ。夜の仕事と隠し事と、十年前の夜を抱えたまま。
その男がいま、何も持たずに隣で眠っている。
告白の言葉の代わりに、一番無防備なものを預けて。
「……順番が、逆なのよ」
セナは小さく言った。
「普通は、言葉が先。眠るのは、その後。……でも、あなたらしいわ。言葉より、確かだもの」
呼吸を、数えかけた。
三つ数えて、やめた。数えなくても、もう分かっている呼吸だった。
「言葉はいつか、ちゃんと聞くわよ。……利子をつけて、返してもらうから」
寝息に向かって言って、セナは月の飴を一つ、口に放った。観劇の夜と同じ、気の長い甘さがした。
それから、そっと肩の頭を両手で支えて、自分の膝の上に下ろした。
王都で一番の眠たがりは、起きなかった。膝の上で、何も守っていない顔で眠っている。
セナはその髪を一度だけ直して、言った。
「いつでも、ゆっくり寝ていいからね。……これからは、ずっと」
祭りの灯りが、川面で揺れている。
月が雲を抜けた頃、ポケットから小さな光がそっと顔を出した。膝の上の寝顔を確かめて、起こさないように、また引っ込んだ。
◇
夢を、見ていた。
深い森の、大きな木の根元だった。
根が椅子のようにうねって、体をちょうどよく受け止めている。北の森で寝たあの根の形にも、村の森の匂いにも似た、どちらでもある場所だった。
大蛇がとぐろを巻いている。狼が輪になって伏せ、梟が枝にいて、狐が足元で丸くなっている。あかりが膝の上で「ぽかぽか」と言い、水辺でちゃぷが機嫌のいい水音を立てていた。
森の奥から、二人分の足音がした。
顔は、木漏れ日の逆光でよく見えない。見えないのに、誰かは分かった。二人は近くの木の根に並んで腰を下ろして、こちらを見ていた。何も言わない。急かさない。ただ、見ていてくれる。
安全な場所で眠る獣は、脚を畳んで眠る。
夢の中のリオは脚を畳んで、世界で一番深く眠った。
「……ただいま」
寝言は、川辺の夜に小さく落ちた。
膝の主が、ふ、と笑う気配がした。
「おかえりなさい」
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