第74話 それぞれの帳面
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第74話です。
夏の工房街に、上等な馬車が停まった。
降りてきたのはエルム・シラードで、向かった先はテッサ・ロディの工房だった。騒ぎのあとも、工房の戸は相変わらず開けっ放しで、中から槌の音がしている。
「三度目の、お誘いに参りました」
「来ると思ってました」
テッサは手を止めずに答えた。手だけは、いつも通り正確に動いている。
「シラード商会は大きくなります。王都一の工房を、王都一の商会の中に。悪い話ではないはずです」
「お断りします」
「……三度目も、ですか」
「三度目も、です」
テッサはそこで初めて槌を置いて、ゴーグルを額に上げた。
「でも、仕事は受けます。これまで通り、一件ずつ。図面を見て、面白かったら引き受ける。つまらなかったら断る。……職人は棚に並ぶ品物じゃなくて、腕を売るものなので」
「それは、お抱えにするより高くつく」
「でしょうね」
エルムは、長いこと黙っていた。
黙って、それから、鞄から図面を一枚出して卓に置いた。
「では早速、一件。ルヴィナとの定期便に積む、揺れない保冷箱を」
テッサの目が、図面に吸い付いた。
「……面白い」
「でしょうね」
工房の奥で、咳払いが一つ聞こえた。テッサの父が、隠れる場所もないのに隠れたつもりで、娘の啖呵を聞いていたらしい。
エルムは帰り際、奥に向かって頭を下げた。
「良い職人を、お育てになった」
「……聞こえてます、って言ってますよ」
「聞かせております」
商談は、成立した。
雇い主と職人ではなく、客と職人として。四度目の勧誘は、もうないらしかった。
◇
学園の生徒会室で、クラリスは進路届を書いていた。
リオが書類を届けに行くと、委員長は書きかけの紙を隠しもせずに言った。
「進路、決めましたの」
「……聞いても?」
「司直です。審問の、書記官から始めます」
意外ではなかった。あの審問の間で、一番姿勢よく記録を見つめていたのはこの人だった。
「わたくしの学級日誌も、審問のお役に立ったと聞きましたわ。三年分の日付と出欠が、時系列の裏取りになったとか。……几帳面も、捨てたものではないでしょう」
「委員長の日誌は、王都で一番正確だと思います」
「当然ですわ」
クラリスは満足そうに頷いて、それから真面目な顔に戻った。
「正しさというものを、ずっと考えていましたの。規則を守ることが正しさだと思っていた時期もありました。……でも、あの審問で分かりましたわ。正しさは、紙の側から変えられる。誰かが正しい紙を書けば、十年前の嘘でも、ひっくり返る」
クラリスはペンを置いて、リオを見た。
「それと。正しくない場所に、正しい人たちがいることも、わたくし、知っていますから」
「……どこの話ですか」
「さあ。どこの話でしょう」
委員長は澄ました顔で、進路届の続きを書き始めた。知っていることを知らないままにしておく技術なら、この学年の生徒は全員、三年かけて鍛えられている。
◇
エリアナには、茶会に呼ばれた。
侯爵家の、庭の見える部屋だった。出てきた菓子は胡桃ではなく、ちゃんと季節の果物だった。
「審問の文書のこと、聞きたいのでしょう?」
「……はい。あれは」
「わたくしが、お父様に進言しましたの」
エリアナは、こともなげに言った。
「家は白庭の金の流れを、ずっと前から記録していましたわ。商いの保険というものです。出す気は、ありませんでした。貴族は札を抱えるもので、切るものではないの」
「なら、どうして」
「あなたが、先に全部差し出したからよ」
侯爵家の令嬢は、扇を閉じた。
「名前も、過去も、命も張って、全部表に出した人がいるのに、紙一枚を出し惜しむのは――格好が、つかないでしょう」
それから、わずかに声を落とした。
「工人展の頃には、気づいていましたわ。覆面の彼と、居眠りの彼が同じ人だと。……黙っていたのは、詮索が下品だからよ。貴族の嗜みというものです」
「……助かりました。ずっと」
「ええ、感謝なさい。そして今後も、わたくしの退屈しのぎに付き合うこと。それが札の代金です」
割に合うのかどうか、リオには分からなかった。分からなかったが、頭は下げておいた。
帰り際、エリアナは扇の陰で付け足した。
「それと。次の学園祭の劇、楽しみにしていますわよ。……今度は、幕の表側でね」
返事はしないでおいた。あの人の退屈しのぎは、安請け合いすると高くつく。
◇
放課後の稽古場では、今日もカイルが吼えていた。
「おっしゃあ! 見たかリオ! 三連続!」
赤く灯った刃が、藁束を三つ、焦がさずに斬り落としていた。火の出力を絞る稽古は、ホムラが来てから倍の速さで進んでいるらしい。当のホムラは切り株の上で、斬られた藁をもそもそと燃やして食べていた。
「次は五連続やるぞ、相棒!」
「……今、飯の途中」
「お前ほんと自由だな!」
騒がしい相棒たちを眺めながら、リオは思った。
剣も、糸も、帳面も、進路も、人の数だけ形が違う。違うまま、それぞれの場所で先に進んでいく。
それでいいらしい、ということを、この三年で覚えた。
◇
夕方の帳場は、今日も忙しかった。
リオは盆を持って詰所を回り、新しい依頼票の束を帳場に運んだ。グラントが筆を走らせながら、ふと言った。
「夏の終わりに、墓参りに行く。……今年は、大所帯になるぞ」
「大所帯?」
「ガルドにネムにバルカに、ラウルも戻る。マルタも行くと言い出した。ついでに、花を持った知らねえ奴らも来るだろうよ」
名前を知る者しか来られなかった場所は、もうない。
「……賑やかですね」
「ああ。……あいつらは、賑やかなのが好きだった」
帳場の釘には、新しい依頼票が増えていた。品目はどれも他愛ない。迷子の猫。夜泣きの子守り。倉庫の鼠。
他愛ない依頼が積まれていくのを、リオは良い眺めだと思った。十三番窓口に持ち込まれる悩みが小さい間は、王都が平和だということだ。
筆の音が、夕方の帳場に続いていた。
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