第73話 池の子の返しもの
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第73話です。
休みの朝、リオは帳場に顔を出して一言だけ言った。
「今日、私用で出ます」
グラントの筆が、一瞬だけ止まった。
この子が私用で休むのは、二度目だ。一度目は、友の剣のためだった。
「……行き先は」
「南の池です」
「そうか」
それ以上は、聞かれなかった。代わりに、戸棚から包みが一つ出てきた。バルカの握り飯だった。昨日の夜のうちに、頼んでもいないのに作られていたらしい。
「帳場ってのは、耳があるんでな」
「……いただきます」
ポケットの中で、あかりが小さく跳ねた。
前の日の放課後、セナにも言ってあった。池へ行って、預けていた記憶を受け取ってくる、と。セナは聞き終えて、約束を一つだけ付けた。
「帰ったら、顔を見せること。話さなくていいから、顔だけ」
◇
南の池は、夏の初めの顔をしていた。
葦は青く、水鳥は雛を連れていた。堤の泥は乾いて固くなっていた。ひと月前にここで何があったか、森はもう半分忘れた顔をしている。獣というのは、そういうふうにできている。
岸に立つと、待っていたように水が盛り上がった。
「りお!」
ちゃぷが、水音を立てて岸に上がってきた。濡れた髪の子供の顔が、輪郭ごと揺れている。水でできた子は、気持ちがそのまま形に出る。
「きた! ほんとに、きた!」
「約束したからな」
「きょうは、たたかい?」
「違う」
リオは池のほとりに腰を下ろした。
「……受け取りに来た。預けてたものを」
ちゃぷの揺れが、止まった。
子供の形をした水がしばらくリオの顔をじっと見て、それから池の真ん中を振り返った。
水面が、音もなく割れた。
大きな影が水の下からゆっくりと浮かんだ。金色の目が二つ、水面のすぐ下からリオを見上げている。十年前の夜にリオを抱え、記憶を預かって池を捨てた竜が、そこにいた。
――おおきく、なった。
糸を通さずに、声が胸に届いた。
「……ご無沙汰してます」
――あずかりもの、ぜんぶ、かえす。おもいぞ。
「はい」
――なく、ぞ。
「……そのために、来ました」
――ほんとうは、はやく、かえしたかった。だが、こわれる。うつわが、そだつのを、まった。
「待たせました」
――まった、かいが、あった。
金色の目が、ゆっくりと細くなった。笑ったらしかった。
◇
水が、腕に触れた。
触れた場所から、十年前の夜が戻ってきた。
今度は、外から組み立てた夜ではなかった。内側から見る夜だった。
家を出る時、父は戸口で一度だけ振り返った。
振り返って、笑った。笑っただけで、何も言わずに、燃える方へ走っていった。それが、父の最後だった。
そこからは、母の腕の中にいた。
揺れる視界。煙の匂い。遠くで父の声がして、それきり聞こえなくなった。母は走りながら、何度も何度も同じ調子でリオの名前を呼んだ。怖がらせない声だった。歌うみたいな声だった。
池のほとりの、葦の茂み。
母はそこにリオを下ろし、上着を脱いで被せた。
それから煙の方を一度だけ見て、向き直り、両手でリオの顔を包んだ。
白い煙が、母の背中で流れていた。
「リオ」
声は、震えていなかった。
「愛してる。――生きて」
それだけ言って、母は煙の中へ戻っていった。
戻る背中が、見えなくなるまで。
葦の間で、幼い自分がずっとそれを見ていた。
これが、白の中の声だった。十年のあいだ意味の分からないまま胸を温め続けた声の、中身だった。怒られている気がしなかったのは、当たり前だった。世界中のどの言葉よりも、優しい側の言葉だった。
そこから先は、知っている通りだ。
泣きながら池へ這って、水に手を入れて糸を伸ばした。
記憶はそこで現在に追いついて、終わった。
◇
気がつくとリオは泣いていた。
声は出なかった。出なかったが、止まらない。十年ぶんの涙は思っていたより音がなくて、思っていたよりずっと長かった。
あかりがポケットから出て、濡れた頬のすぐ横で暖炉の色に灯っていた。
ちゃぷは何も言わずに隣へ座って、濡れた手でリオの袖を握っていた。十年前と、同じ握り方だった。
竜は、水面の下から動かなかった。
泣き終わるまで、誰も急かさなかった。
泣くと、腹が減った。
リオはバルカの包みを開けて、握り飯を頬張った。塩が、いつもよりよく効いて感じた。一つを半分に割って、片方をちゃぷに差し出す。
「たべられる、かな」
「水に溶かせば、気持ちだけ伝わるかもしれないぞ」
ちゃぷは両手で受け取って、大事そうに水へ浸した。ほどけていく米を、長いこと眺めていた。
日が傾き始めた頃、リオはようやく顔を上げて池に言った。
「……全部、受け取りました」
――もう、あずかるものは、ない。
「はい」
――つよく、なったな。こども。
「……おかげさまで」
金色の目が細くなって、大きな影は水の底へ沈んでいった。最後まで、水面には波ひとつ立たなかった。
ちゃぷが、見上げてきた。
「りお、もう、こない?」
「来る」
リオは、濡れた顔のまま言った。
「今度は、ただ遊びに来る。弁当を持って」
「! おべんとう!」
水の子供が、池の上で三回跳ねた。
◇
帰り道、村の跡に寄った。
夕方の石碑の前には、誰かの供えた花がまだ新しかった。留守番の灯りが、石碑の脇で小さく灯り続けていた。あかりがそこに飛んでいって、灯りと何かを話して、戻ってきた。
リオは石碑の前に膝をつき、手を合わせた。
報告することはたくさんあった。あったが、全部まとめると短かった。
「……全部、聞いた。ちゃんと、届いてた」
それから立ち上がって、十年越しの返事をした。
「行ってきます。――生きてます、ちゃんと」
夕日が、来た時の坂を照らしていた。
いつか誰かと手を繋いで見た夕日と、同じ色だった。
王都に着いた頃には、夜になっていた。
約束どおり、ラティス家の門の前まで歩いた。報せてもいないのに、セナは門の灯りの下に出てきた。リオの顔を見て、泣いた跡とその奥の軽くなったものを順番に見つけたらしい。
「……おかえり」
「ただいま」
顔を見せるだけの約束は、それで果たされた。
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