第72話 帳面の右側
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第72話です。
白庭の主は、午後の帳場に一人で来た。
護衛はいない。年の頃は六十ほど。上等だが飾りのない外套に、使い込まれた革の鞄が一つ。往来ですれ違えば、羽振りのいい隠居にしか見えない男だった。
名乗りは、しなかった。
「名乗っても、もう値段のつかない名前ですのでな」
それが挨拶だった。
受付の間が、しんとなった。初老の事務員が取り次ぎに立った足音だけが、やけに大きく聞こえた。
グラントは奥の席を勧めて、約束通り茶を出した。リオは給仕として、茶を運んでその場に残った。主は湯呑みを一瞥して、口をつけなかった。
「時間が惜しい。商談に入らせてもらう」
鞄から、紙の束が出た。
几帳面に綴じられた、分厚い束だった。
「裁判は、あと三年は延ばせる。王都の外に資産を移す道も、まだ二つ残っている。おたくらの勝ちは、確定しているようでいて、紙の上ではまだ確定しておらん。……ここまでは、よろしいか」
「続けな」
「そこで、和解だ」
主は束の一枚目を、卓の上で滑らせた。
数字が、並んでいた。
「訴えをすべて取り下げる。白庭の王都の事業は清算し、相応の金を積む。おたくの派遣所の損害、十年前の件の見舞金。それから――」
主の指が、紙の一点を叩いた。
「村の件だ。一人あたりの相場に、誠意を乗せた。二十一人分で、この額になる」
帳場が、静かになった。
算盤の音も筆の音も、止まっていた。
一人あたりの相場。
その言葉を、主は商いの用語としてごく自然に言った。嫌味でも挑発でもない。この男の帳面には本当にそういう欄があって、そういう数字が入っている。それだけのことだった。
「悪くない額のはずだ。帳場の主なら、分かるだろう」
「……ああ、分かるぜ」
グラントは紙を手に取って最後まで読み、卓に戻した。
「商人として言やあ、破格だ。あんたは追い詰められてる側なのに、値付けだけは今日も正確だ。……大したもんだよ」
「では」
「断る」
主の眉が、初めて動いた。
「……理由を聞こう。金額なら、まだ上げられる」
「金額の話じゃねえんだ、これが」
グラントは茶を一口飲んだ。
「あんたの紙には、謝罪の欄がねえ。誰が、何をしたか書く欄がねえ。二十一人の名前を書く欄も、ねえ。右側の数字だけは立派だが……左側が、白紙だ」
「左側に価値はない。帳面とは、そういうものだ」
「あんたの帳面じゃ、な」
主は、しばらくグラントを見ていた。
理解できないものを見る目だった。それから、その目が給仕の方へ動いた。
「……君が、あの村の子か」
「はい」
「君個人の損害を聞こう。親二人。育った家。十年。……いくらだ。言い値で払う」
リオは盆を胸の前に抱えたまま、その目を見た。
池のほとりで剣と向き合った時のような熱は、湧いてこなかった。この男は、本当に分からないでいる。値段のつかないものがこの世にあると、帳面の右側しか見ずに六十年生きた男には、どうしても分からないでいる。
だから、教えるだけにした。
「……あんたの帳面には、書く欄がない」
「欄なら、作らせればいい。いくらだ」
「欄の名前が、書けないはずだ」
リオは言った。
「母さんの声も、親父の背中も、村の夕日も、売り物だったことが一度もない。最初から商いの外にある。……あんたは十年前、商いの外のものに手を出した。だから、商いの中で全部失くす。それだけの話だ」
主の手が、紙の束の上で止まっていた。
長い沈黙のあとで、老人は束を鞄に戻した。
「……取引は、不成立か」
「最初から、売り場が違うんだ」
グラントが言った。
主は立ち上がり、外套を直した。出ていく間際に一度だけ振り返って、湯気の消えた茶を見た。
「値段の分からんものを、初めて見た」
それが、白庭の主の最後の言葉だった。
◇
後のことは、紙が報せてくれた。
三週間後、白庭商会は破産した。本店は解体されて資産は差し押さえられ、庭の主は商いの一切から退場した。剣と呼ばれた男の裁きは長くかかるというが、外に出ることはもうない。
瓦版の見出しは、一行で済ませていた。白庭、落ちる。詰所では誰も騒がなかった。騒ぐ段階は、もうとっくに過ぎていた。
そして白庭の抜けた穴には、新しい商会の看板が立った。
シラード商会。
ルヴィナとの販路も王都の商権も仕入れの筋も、ほとんどがその名の下に移った。誰よりも早く誰よりも安く買い取ったのは、落ち先を先に決めていた商人だった。
エルムは後日、挨拶と称して帳場に現れた。
「ご報告まで。古巣の商い、諸々引き取りました」
「食えねえ野郎だ」
「商人ですので」
それから商人は給仕の方へ向き直って、頭を下げた。
「一つ、申し上げておくことが。剣に情報を売ったのは、私です」
帳場の空気が、わずかに張った。
「私は嘘を言いません。ですから隠しもしません。そして――負ける側に情報を売ったことも、ありません」
「……知ってます」
リオは、盆を置いた。
「あの茶は、苦かったですよ」
「でしょうな」
エルムは目だけで笑った。
「次の茶は、甘いものをお出ししましょう。新しい商会は、良い取引相手を失いたくない。……ああ、それと」
商人は、戸口で付け足した。
「新しい帳面は、左側から書くことにしました」
◇
夜の帳場で、グラントは帳簿を開いた。
今日の分の一番最後の行に、筆が置かれる。
――白庭商会の件、完了。
一行だった。
十年と、村一つと、二十一人と、この春からの全部。帳簿の上では、その一行に収まった。
「……終わったんですね」
「終わった。……いや」
グラントは筆を置いて、帳簿を閉じた。
「終わらせたんだ。お前らがな」
その時、階段の下から足音の群れが上がってきた。
戸が勝手に開く。先頭はバルカで、大鍋を抱えていた。後ろから詰所の連中が樽を転がし、ネムが杯の束を、ミラが酒瓶を、受付の初老の事務員まで干し肉の包みを抱えている。
「主任! 帳簿は閉めたか!」
「今、閉めた」
「なら、宴会だ!」
帳場は、あっという間に酒場になった。
杯が配られて、リオの手には果実水が押し付けられる。グラントは面倒くさそうに、それでいて満更でもない顔で立ち上がり、杯を高く上げた。
「……ご苦労だった。二十一人と、うちの看板と、うちの馬鹿どもに――乾杯!」
「「「乾杯!!」」」
杯のぶつかる音が、夜の二番街に響いた。
燭台の上であかりがぽんぽんと跳ねて、宴の真ん中で一番明るく光った。
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白庭編、これにて決着です。長い戦いにお付き合いいただき、ありがとうございました。ブックマークや評価で応援いただけると、残りの日々の物語を書く励みになります。
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