第70話 竜の池(後編)
お読みいただきありがとうございます。
第70話、決着です。
男の剣が、変わった。
狙いがリオではなくなった。霧の中の獣たちへ順番に、正確に、死の線を引いていく。
堤の蛙へ踏み込むと見せて、跳んだリオの着地点を薙ぐ。梢の栗鼠へ切っ先を向けて、割り込んだリオの肩口を浅く裂く。熱さは一瞬遅れて来た。血の匂いに、霧の向こうの獣たちがざわめいた。
「ほらな。簡単だ」
男は笑っていた。
「お前は俺を殺せない。獣には俺を殺させない。竜も出さない。……縛りだらけの盤で、よくやるよ」
三度目の誘いは、空だった。
灯りを撒いて飛ぶあかりへ、男が石を拾って振りかぶる。
体が、出る。
出た先に、剣が待っていた。
石は投げられていない。最初からそういう線だった。誘われたと気づいた時には間合いの中にいた。伸び切った足。戻らない体勢。正面に、振り上がった刃。
――ここで、死ぬ。
世界が、白くなった。
「ほんばん!」
あかりの閃光だった。囮の稽古の、まぶしい方。
男の目が線を見失った一瞬にリオは泥へ転がり、葦の根の間へ沈んだ。頭上を刃風が通って、葦が束で宙を舞った。
「……今のは効いたぜ」
男の声から、笑いが減っていた。
「灯りの玉まで駒かよ。だが、種の割れた手品は二度は食わねえ」
葦の陰で息を整えながら、リオは確かめ終えていた。
この人は、見えている。
気配読みが上手い、という話ではない。獣がどこから回り込んでも、男の立ち位置は常に、届くものすべての線の外にある。牙の線。爪の線。刃の線。来るものの線が、全部見えているとしか思えない。
だから、殺気のない駒だけが効くのだろう。
殺さない。触れない。ただ飛ぶだけ、鳴くだけ、崩すだけ。線にならないものは、あの眼にも映らない。この三日で用意した盤は、間違っていなかった。
◇
池の面が、揺れ始めていた。
血の匂いのせいだ。水の下で、我慢が軋んでいる。リオは泥に伏せたまま、池へ伸ばした糸を保ち続けた。
――出るな。まだ大丈夫だ。
揺れは収まらない。収まらないまま、水位だけが静かでない速さで上がっていく。
男もそれに気づいた。
「……お出ましか」
丘の上の細長い箱へ、男が走る。留め金に手が掛かる。
外した瞬間――箱が、ばらけた。
蓋が落ちる。側板が外れる。中の装置が泥に転がり出る。繋ぎの革紐は全部齧り切られ、留め金の芯は細い歯の痕だけを残して抜け落ちていた。三日のあいだ、鼠たちが夜ごと通った成果だった。
男は転がった装置を長いこと見下ろしていた。
「……いつからだ」
「初日の晩から」
「はっ」
男は天を仰いだ。
「はっははは! 道理で、楽をさせてくれると思ったぜ!」
笑いながら剣を構え直した。
構えから、遊びが消えた。
「いいぜ、番人の倅。竜は諦めた。――お前の首だけ貰って帰る」
◇
そこからは、死の線の洪水だった。
誘いも駆け引きも、もうない。最短の線だけが嵐のように続く。
ナイフで二度受けて、二度とも腕が跳ね上がった。三度目で、ナイフが半ばから折れた。折れた半分を投げ捨てて、泥を転がって葦の道を抜ける。
それでも線は追ってくる。
肩が裂けた。腿が裂けた。浅い。浅いが、積もる。
それでも首の皮一枚で繋がり続けられたのには、理由があった。男の頭の中の地図が、三日前の池のままだからだ。獣たちが夜ごと作り変えた泥と水の道を、リオだけが知っている。追う足が二度、乾いているはずの場所で沈んだ。読み違えるたびに、男の舌打ちが霧に響いた。
獣たちは、見ていることしかできない。近づけば斬られる。それが分かる程度には、この森の獣は賢かった。賢いまま、霧の中で何十の目が、悲鳴のように光っていた。
池の縁まで追い詰められた。
背中に水の気配。足元は泥。男は五歩の先で、もう線を引き終えた顔をしていた。
「終いだ」
踏み込みが、来る。
避ける足はもう残っていない。ナイフは折れた。獣は間に合わない。
死ぬ、と体が言った。
次の瞬間、手が勝手に動いていた。
リオは、残っていたただ一つの持ち物を、ありったけ男に叩きつけた。
糸だった。
考えてのことではない。人間に糸は繋がらないことくらい知っている。知っていて、撃った。溺れる手が藁を掴むのと同じだ。テイマーの手には、最後はこれしかなかった。
そのないはずの一本が、まっすぐ男の胸へ走った。
繋がった。
一瞬だけ、確かに、触れた。
触れた糸を、十年が走った。
燃える屋根。塞がれた道。井戸の裏の泣き声。池へ走る母の背中。二十一の名前。十年、置き場所を決めて仕舞ってあったもの、全部。糸の太さのまま、まとめて。
男が、止まった。
振り上げた剣が、止まった。
死線の眼は、死の来る線を見る。だが糸の向こうから来たそれは死ではなかった。殺意ではなかった。だから線がなかった。見えない重さが見えないまま、男の芯を一瞬だけ掴んだ。
その一瞬。
リオには、全部見えた。
止まった剣。流れた軸。空いた顎。
踏み込む。
拳の底に、折れたナイフの柄頭。
「うおぉぉぉぉっ!!」
喉が、勝手に吼えていた。三日分の、十年分の声だった。
顎の先、一点。
体重ごと、打ち抜いた。
男の首が跳ねた。
膝が落ちる。長剣が手を離れて泥に刺さる。大の字ではなく、糸の切れた操り人形の落ち方で、男は泥の上に崩れた。
落ちていく口が、何かを言いかけた。
「……み、えなかった……」
それきり、動かなくなった。
リオは肩で息をしながら、倒れた男から目を離さずに三つ数えた。起きない。息は、ある。顎の先の一点。ガルドに百回転がされて覚えた、人が確実に落ちる場所だった。
気を失っている間に、縄を掛けた。
リッツの縄で手首を、肘を、膝を、別々に縛る。結びは全部、暴れるほど締まる結びにした。ナンバーズ級の相手に縄一本で足りると思うほど、窓口の育ちは甘くない。仕上げに布で猿轡を噛ませて、ようやく長い息を吐いた。
「……言っとくけど」
誰に聞かせるでもない声が、出た。
「殺さない。あんたは――裁く」
殺せば、ただの仇討ちで終わる。裁けば、十年前の二十一人が帳面に載る。窓口の後始末は、そういう流儀だった。
◇
気を失ったままの男の横に膝をついて、リオは最後に一つだけ言った。
「ヨナス・アルクス。エマ・アルクス。……それから、十九人」
返事はない。聞こえてもいないだろう。
「二十一人、全員に名前がある。あんたの帳面に、書く欄がなかっただけだ」
それで、よかった。返事のために言ったのではなかった。
池の真ん中が、小さく盛り上がった。
濡れた髪の子供が顔だけ出して、こちらを見ていた。
「……がまん、した」
「ああ」
「ちゃぷ、がまん、できた」
「偉かった」
子供の顔がくしゃりと歪んで、水に沈んだ。池の面に細かい波がしばらく走って、消えた。
膝から、力が抜けた。
リオは泥の上に座り込んで、空を見た。昼の空だった。三日ぶりにゆっくり見る空だった。
あかりが降りてきて、血の滲んだ肩の横で光を細くした。
「りお、いたい?」
「……痛い」
「しなない?」
「死なない。依頼だからな」
夕方、南の街道から窓口の荷馬車が来た。
御者台のグラントは泥だらけのリオと縛られた男と池を順に見て、それだけで全部分かった顔をした。
「……依頼完了か」
「完了です」
「上出来だ」
グラントは気を失ったままの男を荷台に転がして、縄の結びを一つずつ確かめた。
「……いい結びだ。リッツに見せてやりてえ」
それから、転がした男に聞こえない声で付け足した。
「こいつの行き先は決まってる。表の司直と、十年前の紙の山だ。……うちの後始末は、丁寧で有名なんでな」
帰りの荷馬車で、リオは眠った。
今度は、肩を借りる前に落ちていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
十年前から続いた因縁、ひとつの決着でした。ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。よろしければ、ブックマークや評価で応援いただけると、残りの物語を書き切る励みになります。
次回もよろしくお願いいたします。




