第69話 竜の池(前編)
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第69話です。
湿地の森はリオを覚えていた。
葦の間を抜けると、まず鹿が顔を上げた。水鳥が鳴き、梢の栗鼠が走って報せを回した。夏の工事の時に、荷車を止めて錘を運んだ顔ぶれだ。あの三日間を、森の側も忘れていなかった。
リオは池のほとりに荷を下ろし、糸を一本ずつ配って回った。
鼠たちには男の荷物。背負い箱の紐と留め金を、合図で齧れるように。
蛙たちには堤。水の通り道を、夜のうちに付け替えられるように。
鳥たちには空。男が来る道筋と、連れの有無を報せるように。
どの頼みにも一つだけ、同じ断りを付けた。
――男に、触るな。近づくな。仕事が済んだら、すぐ逃げろ。
獣たちは、不思議そうにした。敵が来るのに、牙も角も使うなという。それでも糸の向こうで頷く気配が、一つずつ返ってきた。
あかりは、別の稽古をしていた。
発端は、灯りの申し出だった。
「あかりが、もやしちゃ、だめ?」
「駄目だ。お前が本気を出したら、人が死ぬ」
「……わるいひとでも?」
「悪い人でもだ。窓口の仕事に、死人は出さない。……頼むのは、光だけだ」
あかりはしばらく考えて、分かったと言った。それから光を絞って散らし、岸のあちこちで小さく灯す稽古を始めた。遠目には焚き火が三つにも五つにも見えた。
「どう?」
「上出来だ」
「ほんばんは、もっと、まぶしいよ」
夜は、水辺の仕事をした。
蛙と水鼠が泥を運び、堤の高さが指二本ぶん変わる。水の通り道が一本増えて、一本塞がる。昼に見れば、何も変わっていない池だった。夜ごとに、別の池になっていった。
◇
二日目の夜に、池の真ん中が小さく盛り上がった。
濡れた髪の子供が、水音もなく岸に上がってきた。
「りお」
「……久しぶり」
ちゃぷは隣に座って、じっとリオの顔を見た。
「たたかいの、におい、する」
「ああ。三日目の朝、人が来る」
「わるい、ひと?」
「……十年前に、村を焼いた人だ」
子供の形をした水が、一瞬だけ形を失くした。池の面に、細かい波が走った。
リオは糸を伸ばした。
伸ばして、頼んだ。頼みごとは一つだけにした。
「何があっても、出ないでくれ」
「……ちゃぷ、つよい。てつだえる」
「知ってる。けど、あの人の狙いはそれだ。お前が出てきたところを、仕留める道具を持ってくる」
「でも」
「それにな」
リオは水面を見た。
「お前が人を呑めば、今度こそ竜は狩られる側になる。王都で、竜の討伐の話が通る。……俺は、お前を人殺しにしない。親父とお袋の、番人の仕事の続きだ」
ちゃぷは長いこと黙っていた。
黙って、濡れた手でリオの袖を握った。
「でるの、がまん、する」
「頼んだ」
「りお、しなない?」
「死なない。依頼だからな」
子供は頷いて、水に戻った。戻り際に一度だけ振り返って、十年前と同じ顔で笑った。
◇
三日目の未明、リオは干し飯の残りを全部食ってネムの首巻きを締めた。
腰の後ろに、グラントの革袋のナイフを差した。
殺すための刃物ではない。縄を切り、堤を直し、受けねばならない時に剣を受けるための道具だ。夜の仕事に、刃物を持たずに出る者はいない。持った上で、抜かずに済ませるのが上手い仕事だと、帳場の誰もが言う。
ネムの言葉を、もう一度だけ考えた。
夜明け前が、人の眠りの一番深い時間。向こうも、人間。
つまり、寝込みを襲えば勝てる、という意味だ。男が今夜どこで寝ているかは、鳥の報せで分かっている。忍び込むだけの腕も、ある。
リオは、やらないと決めた。
寝ている人間を襲うのは、殺すための手だ。俺は殺しに行くんじゃない。止めに行くんだ。
それに、眠らせ屋の歌に寝かされて育った自分が人の眠りを武器にしたら、ネムに合わせる顔がない。
三日目の夜明けは、霧だった。
鳥が三度鳴いた。南の街道から一人、連れなし。
男は歩いてきた。
旅装のまま、背に細長い箱を負っている。池の見える丘で足を止めて、霧の中のリオに笑い皺を深くした。
「……ほんとに一人で来やがった」
「そっちもな」
「俺は昔から一人だよ」
男は背の箱を下ろして丘の草に置いた。留め金が三つ。中身は見えない。見えなくても、分かった。竜を仕留めるための何かだ。
「段取りを言うぜ。まず竜を起こす。起きたところを、こいつで眠らせる。永遠にだ。……起こし方は決めてある。一番早いのは――」
男はリオを指した。
「お前が死にかけることだ。十年前と同じにな」
「悪いが」
リオは素顔のまま言った。覆面は、持ってこなかった。
「竜は出ない。俺も死なない。あんたは今日、何も持たずに帰る」
「はっ。……やってみな、番人の倅」
男が、腰の長剣を抜いた。
王都の帳場では帯びていなかったものだ。鞘走りの音が、霧の中で妙に澄んで聞こえた。
「商人の付き合いじゃねえからな、今日は」
長い刃の先が、こちらを向く。
音より先に、風が来た。
風の意味を体が分かるより早く、ガルド仕込みの足が勝手に横へ飛んでいた。立っていた場所の霧が、一直線に裂けて散った。踏み込みから斬り上げまで、目が追えなかった。
着地と同時に二の太刀の気配。
下がる。下がりながら、リオは頭の中の盤面に最初の駒を置いた。
正面からやり合う相手ではない。一寸も、一瞬も、正面に立たないこと。
「いい足だ」
男は追わず、長剣を肩に載せた。
「誰仕込みだ? ああ、当ててやろうか。あの剣聖崩しの――」
言葉の途中で、男の姿が消えた。
霧を裂いて、間合いが潰れる。
リオは逃げなかった。逃げる代わりに、張っておいた一本目の糸を引いた。
男の足元の茂みから水鳥が十羽、一斉に飛び立った。
羽音と水飛沫が視界を割る。その隙にリオは泥の道を三つ跨いで、霧の奥へ消える。鳥は誰も男に触れていない。ただ、飛んだだけだ。
「……なるほどなあ」
男の声が霧の中で弾んだ。
「殺気のねえ駒ばっかり並べやがる。読みにくいったらねえや」
◇
戦いは朝のあいだ中、続いた。
男が踏み込む。獣が飛ぶ。泥が崩れ、霧が流れて、リオが消える。男の剣は一度もリオを捉えず、リオの獣は一度も男に触れない。
潮目が変わったのは、日が昇り切った頃だった。
男がふいに狙いを変えた。
リオではなく、堤の上の鹿へまっすぐ踏み込んだ。
若い鹿だ。仕事を終えて、離れるのが遅れた。剣が届く。あの太刀筋なら、届けば死ぬ。
考えるより先に、体が出ていた。
鹿の前。剣の間合いの内側。ガルドの教えが頭の隅で鳴ったが、もう遅い。初太刀は屈んでかわした。二刀目は抜き打ちのナイフで剣の腹を擦り上げて逸らし、鹿が逃げ切る時間だけをそこで稼いだ。腕に、痺れだけが残った。
鹿が霧に消える。
リオも跳び退がる。
男は追わなかった。
追わずに長剣を肩に載せて、笑っていた。
「……見つけた」
嫌な笑い方だった。
「お前、獣が斬られる線に入ると、必ず自分から前に出るな」
霧の向こうで、男がゆっくり首を回した。
「十年前もそうだ。番人の夫婦は、ガキを逃がすために自分から線に入ってきた。……血筋だねえ。なら、簡単だ」
男の目が、霧を透かして何かを数え始めた。
獣たちの、位置を。
リオの背中を、初めて冷たいものが伝った。
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次回、後編です。




