第68話 挑戦状
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第68話です。
再開から五日で、受付の間は元の忙しさに戻った。
聴聞の顛末は瓦版が書いた。書いたのは例の刷り元ではない、まともな刷り元の方だった。捏造の苦情で老舗を潰しかけた役人の名前は、紙に載って王都を一回りした。
断り状を寄越した店は、三軒とも注文を戻してきた。
新しい客も増えた。受付の算盤は、朝から止まらなくなった。
その昼下がりに、男は来た。
受付の初老の事務員が奥へ取り次ぎに来た時だけ、声が硬かった。
「……ご主人に、お客様です。お名前は仰いません。左のお耳が、半分」
帳場の空気が、変わった。
リオは盆を置いた。
グラントが目だけで頷いた。
◇
男は客用の椅子に断りなく座っていた。
上等な旅装。深い笑い皺。帳場の中で、誰の手も届かない一点。
「いい店だなあ。繁盛してるじゃねえか」
「……何の用だ」
「客だよ。客」
男は懐から紙を一枚出して机に置き、指で押して寄越した。
依頼票だった。うちの様式ではない。品目の欄に、乱暴な字が走っている。
「たいした商売やってんだってな。どんな依頼もこなす窓口、だっけか」
男は椅子の背にもたれた。
「三日後の夜明け、俺は南の竜の池に行く。行って――竜を殺す」
帳場の筆の音が、全部止まった。
「依頼だ。……止めてみな」
グラントは、紙を見なかった。男だけを見ていた。
「受けるかどうかは、こっちが決める」
「おう、決めな。……ただし受けなきゃ、三日後に竜が一匹死ぬだけだ」
「竜を殺すのに、許可はいらねえ。レニオの法じゃ、竜は誰の物でもねえからな。役所は止めねえ。騎士団も動かねえ。……止めたい奴がいるとすりゃ、この世でお前らだけだ。なあ? 持ち込む先が、ここしかねえんだよ」
男は笑って、それから帳場の隅へ目を動かした。
リオを、見た。
「あんたが来るかは、あんたの勝手だぜ」
声の調子は、世間話のままだった。
「逃げたきゃ、逃げてもいい。――十年前みたいによ」
音が、消えた。
リオの中で何かが音もなく切れて、切れた後は妙に明るかった。
逃げない。
点々のない声が、出た。
「ヨナス・アルクスと、エマ・アルクスの息子だ」
帳場の窓の外で、荷馬車の馬が一斉に嘶いた。屋根の鳩が飛んだ。軒先の犬が吠え、遠くの獣舎から長い遠吠えが返った。王都中の獣が、一瞬だけ同じ方を向いた。
男の笑い皺が、深くなった。
「……いい目だ」
「依頼、受けた」
「はっ」
男は立ち上がり、上着を直した。
「三日後の夜明けだ。待ってるぜ、番人の倅」
会釈を一つ残して、足音が階段を下りていった。
帳場には乱暴な字の依頼票だけが残った。
◇
夜、帳場に地図が広げられた。
「ガルドを呼ぶ。装置が出るならテッサの嬢ちゃんだ。なんなら竜技団の翁にも……」
段取りを並べるグラントの前で、リオは首を振った。
「俺が、一人で行かせてください」
グラントの手が止まった。
目を上げて、リオを見る。いつもの眠そうな顔を探して、見つからなかった。
「……理由を言え」
「あの人は、竜の水の中から一人で歩いて帰った人です。腕の立つ人を連れて行くほど、向こうの土俵になる。ガルドさんが行けば、斬り合いになります。斬り合いになったら、どちらかが死ぬ」
「お前なら、ならねえってのか」
「俺は、斬り合いをしに行きません」
リオは地図の湿地を指でなぞった。
「俺の仕事は、竜を出させないことと、誰も死なせないことです。それなら、俺と、向こうの森にいる魔物たちが一番強い。……ネムさんに夜目と気配の消し方を、ガルドさんに足運びと間合いを、バルカさんに三日戦える体の作り方を、シェラさんに糸の使い方を教わりました。全部、使います」
グラントは長いこと黙っていた。
黙って、依頼票を取り上げた。乱暴な字の下の受付の欄に、筆で書き足す。
品目、竜の池の保全。受付、リオ。
「……受けたのはお前だ。なら、お前の仕事だ」
紙を帳場の釘に刺した。正式な受理の印だった。
「一つだけ条件を付ける。死ぬな。死んだら、依頼不履行だ」
「窓口の仕事に、死人は出ません」
リオは自分の帳面を閉じた。
「……誰も、です」
誰も、の中に誰が入っているかを、グラントは聞かなかった。聞かずに、戸棚から古い革袋を出して寄越した。中身は火口と薬と細引き、それに鞘の古いナイフが一本。夜の仕事の一式だった。
◇
一人で行くことと、一人で支度することは、違った。
バルカは何も言わずに、干し飯と塩と小さな味噌の壺を革袋に詰めた。三日分より多かった。ネムは首巻きを一本くれて、歌うように言った。
「夜明け前が、人の眠りの一番深い時間よ。……向こうも、人間」
リッツからは結び直しの早い縄が届き、ミラからは獣の傷薬が届いた。使うのは獣にではなく自分に、と但し書きがあった。
学園には、財団から実習の届が出た。品目は保全業務の実習。一文字も、嘘は書いていない。
届の話を聞いた放課後、帰り道でセナに並ばれた。
並んで、しばらく黙って歩いてから、リオの方から言った。
「三日、学園を空ける」
「……実習、らしいわね」
「過去の清算を、してくる」
セナの足は、止まらなかった。止まらないまま、一つだけ聞いた。
「危ないこと?」
「窓口の仕事に、死人は出ない」
「……答えになってないけど、聞かない約束だものね」
セナは前を向いたまま、息を一つ整えた。
「帰ったら、全部話す」
「約束よ。じゃあ、引き留めない」
セナは角を曲がる前に一度だけ振り返って、それきり振り返らなかった。
◇
その夜のうちに、リオは南へ発った。
三日あるのではない。三日しかない。森を味方にするには、夜の数が要る。
街道を外れる手前で、ポケットのあかりが顔を出した。
「こんどは、あかりも、いく」
「ああ。頼りにしてる」
「まかせて。……ひかるのは、とくいだから」
月のない夜だった。
夜の仕事で鍛えた足が、考えるより先に湿地への道を選んでいく。
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次回、決戦です。




