幕間 帳面の読み方
お読みいただきありがとうございます。
幕間です。エルム・シラードの話。
夜更けの執務室で、エルム・シラードは帳面を開いていた。
従者はもう下げてある。燭台が一つと、茶が一杯。商会の名代の机には、昼間は決して載らない種類の紙が夜だけ載る。
帳面の読み方は、あの家で習った。
若い頃のエルムに、白庭の古株はこう教えた。帳面は嘘をつかない。人は嘘をつくが、金の動いた跡は消えない。だから紙を読め。人の顔より、紙を読め。
良い教えだった。
あの家で貰ったものの中で、あれだけは今も値打ちがある。
◇
十年前の経費帳を見つけたのは、この春のことだ。
瓦版の仕込みで古い金庫の棚卸しがあり、名代の立場で立ち会った。目当ての紙の二段下に、焼けた村の年の綴りがあった。
読んだ。
口入れ屋への支払いが一件。宛名は偽名で、人数分の前金。注文書が一件。特注の檻、一基。竜を生かしたまま運ぶための寸法。生かしたまま、の一文には二重線の念押し。それから、後始末の払いが数件。
帳面は、嘘をつかない。
あの年、あの家は竜を買いに行って村を一つ焼いた。
帳面の右側には、それだけの金額が並んでいるだけだ。村の名前も死んだ者の数も、左側のどこにも書いていない。書く欄が、最初からない。
その欄のなさを、エルムは長く眺めた。
自分が何の帳面をつけてきた家なのか、眺めながら考えた。
会議で、エルムは何度も反対してきた。焼却に反対し、実験に反対し、干拓に反対した。反対が通ったことは一度もない。それでも、決まったことは完璧にやった。雇われ者とはそういうものだと、割り切ってきた。
だがこの経費帳は、割り切りの外にあった。
村一つの代金を払った家に、知らずに仕えていたのだ――ここまでは、まだ言い訳が立つ。知らなかったのだから。知った上で同じように仕え続けるなら、それはもう割り切りとは言わない。共犯と言う。
◇
冬の、子供の件を思い出す。
学園の娘を三人、倉庫に閉じ込めた仕事だ。あれはエルムの帳面を通らずに動いた。通っていれば、止めていた。止められなかったので、後から怒った。あの家に入って初めて、人前で声を荒らげた。
商いには、線がある。
線のない商いは、商いではなくただの略奪だ。略奪の帳面をつける人生は、若い頃に思い描いたどの人生とも違う。
だからエルムは、春からずっと別の帳面をつけている。
誰にも見せない、売り物の帳面だ。
◇
売り物は、先日の茶会で仕上がった。
仕上げたのは、本人の黙秘だ。
出身を言わない。両親を言わない。竜との距離を言わない。言わない場所が綺麗に並んで、十年前の経費帳に欠けていた左側へぴたりと収まった。
焼けた村には、子供がいた。
生きて王都で学生をやっていて、夜は覆面で獣を従える。
どの帳面にも載っていない一行を、いまエルムだけが持っている。
売り先の片方を、エルムはよく知らない。
剣と呼ばれる男について知っているのは三つだけだ。十年前の生き残りで、ルヴィナでは英雄で、あの家では一番高い給金が帳面に載っている。給金の額は、腕の額だ。帳面は、嘘をつかない。
売り先は、二つある。
一つは窓口。警告として売れば、恩が立つ。もう一つは、あの家の剣。確証として売れば、忠義が立つ。どちらに売っても、エルムは嘘を言わない。嘘のない商人のまま、どちらの顔も立てられる。
――そして、どちらに売っても、同じことが起きる。
剣と、竜の子がぶつかる。
あの家の武力の頂点と、あの家が十年買えなかったものが正面から勘定を合わせる。帳面の右側しか見ない家は、その勘定だけは紙の上で済ませられない。
そしてぶつかれば、勝っても負けても、あの家は大きく欠ける。
欠けた商い――ルヴィナとの販路、王都の商権、仕入れの筋――は宙に浮く。宙に浮いた商いは、落ち先を先に決めていた者が拾う。拾うための器なら、もう用意してある。シラードの名で立つ、あの家の判子の要らない商会だ。
勝つのは、おそらく窓口の側だ。
竜がついている子は、殺せない。殺せない相手に、あの家は一番高い剣を振り下ろす。そういう盤面を、エルムは組んでいる。勝つ側に恩を売り、潰れる側の商いを拾う。
万一、窓口の側が潰れたところで――王都で一番手強い商売敵が一つ消えるだけのことだ。どちらに転んでも、エルムの帳面に損の書きようがない。
どちらに転んでも儲かる取引だけをやりなさい。
それも、あの家で習ったことだ。
エルムは茶を一口飲んだ。
茶会の最後の答えを、エルムは気に入っている。
バイト先です、飯がうまい。嘘がなく、何も渡さず、それでいて全部を言っていた。あの窓口は、あの子の居場所だ。
居場所というのは、高く売れる。
冷めた茶は、茶会の日の味がした。嘘のない茶は何よりの贅沢だと、あの日は本当のことを言った。良い取引相手には長生きしてほしいというのも、本当のことだった。
本当のことだけで組んだ商いが、一番強い。
それも、あの家で習ったことだ。
◇
帳面を閉じて、懐の内側に仕舞う。
売り時は、まだ先だ。紙の雨が降り切って窓口が一番安くなった日が、この商品の一番高い日になる。
商品は、寝かせると値が上がる。
窓の外に、王都の夜の灯りが並んでいた。あの灯りのどこかで、眠そうな学生が今夜もまかないを食っているのだろう。
エルムは燭台の火を消した。
「……私はあの家で、帳面の読み方を習いました」
暗がりの中の声は、誰に向けたものでもなかった。
「習ったものは、使うためにあります」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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