第63話 紙と看板
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第63話です。
週が明けて、教室はいつも通りだった。
いつも通り眠く、いつも通り隣の席から視線が刺さっていた。
「襟」
「……ん?」
「襟。曲がってる」
セナの手が伸びてきて、寝押しのついた襟を直した。入学の頃からたまにやられる。直されている間は動くなという決まりが、いつの間にかできている。
「よし」
「……ありがとう」
「眠そうな顔ね」
リオは机に頬杖をついたまま、口だけ動かした。
「親の墓に、行ってきた」
襟から離れかけた手が、一度止まった。
止まって、袖の皺を一つ伸ばしてから離れた。
「……そう。おかえり」
それだけだった。どこの墓か、誰と行ったか、何があったかは聞かない。聞かれないと分かっているから、言えた。
「今度、聞いてもいい日が来たら」
「ん」
「その日まで、聞かない」
帳面を開く音がして、授業が始まった。
昼休みには、カイルが刷りたての紙を机に広げに来た。
「おい、また出てるぞ。第二弾だ」
見出しは前より太い。夜の口入れ屋は誰を貸しているのか、とある。
「……らしいな」
「らしいなって、お前のバイト先だろ。言い返さなくていいのかよ」
「言い返す相手が、書いてない」
刷り元の名は、今度も聞いたことのないものだった。カイルは紙を乱暴に畳んで、机に顎を載せた。
「俺はあそこの飯を食ったことがあるんだ。あんなうまい飯を出す店が、悪い店のわけないだろ」
「理屈になってない」
「なってるんだよ。飯は、嘘つかねえ」
セナが横から紙を取り上げて、刷り元の名を帳面に書き足した。三つ目の名前だった。
◇
放課後の派遣所は、紙の匂いがした。
いつもの帳場の墨の匂いではない。受付の間に、届いたばかりの手紙が積まれている匂いだった。
「本日づけで、三通です」
受付の初老の事務員が、開封した手紙を主任の机に揃えて置いた。
「西市場の金物屋、堀端の料理宿、それから製本屋。どこも長い付き合いのお得意です。文面は三通とも似ております。――此度の派遣は、見合わせたく」
「丁寧な字だ」
グラントは三通を順に読んで、順に置いた。
「断り状ってのは、丁寧になるんだ。後ろめたいからな」
受付の間の奥では、算盤方が帳面を繰っていた。珠の音が、いつもより重い。
「保留が十一件。取り下げが四件。新規の求人は、今週ゼロです」
「ゼロか」
「ゼロは、私が帳面を預かってから初めて見ます」
張り紙の件も報告に上がっていた。二番街の角の食堂が、店先のヴェイル人材派遣の求人札を外した。店主は目を合わせず、すまんねとだけ言ったらしい。
実働の詰所の方が、受付より騒がしかった。
「読んだか、今朝の。夜更けに人の出入りが、だとよ」
「派遣業が朝だけ働くかっての。急病の代番は夜中に決まるんだよ」
「みんな噂に流されやがって。うちの派遣で回ってる店が、王都に何軒あると思ってんだ」
怒っているのは古株たちだった。大きい声の後ろで、春に入ったばかりの若いのが一人だけ黙って求人の控えを数え直していた。数えても増えない紙を、何度も数えていた。
台所のバルカは、いつもより無口だった。
客が来ない日の仕込みは余る。余った分は、まかないの椀に化ける。リオの前に置かれた椀は、いつもの大椀より一回り大きかった。
「……食え。余りもんだ」
「余りもの、って量じゃ」
「文句があるなら残せ」
残せないのを知っていて言う。リオは黙って全部食った。空いた椀を見て、バルカの眉間が一本だけ緩んだ。
帳場は、家族だけの店ではない。
受付と算盤と詰所で、ここの給金で飯を食う者が大勢いる。リオは盆を持って詰所を回りながら、潰されるという話の大きさを初めて紙の枚数で見た。
◇
夜の客も、来なかった。
こちらは理由が逆だった。
「眠り鹿に、言付けだけ残ってった客がいる」
グラントは帳場で、マルタから回ってきた紙片を広げた。署名はない。ほとぼりが冷めた頃にまた、とだけある。
「疑われたから来ねえんじゃねえ。見られてるから来られねえんだ。裏の客ってのは、持ち込む姿を誰にも見られたくねえ連中だ」
「……表が騒がしいと、裏も止まる」
「そうだ。裏ってのは、表が静かだから使える。……うまい攻め方だ。感心するぜ」
グラントは紙片を畳んだ。燭台の火に近づけて、やめた。畳んだまま帳場の引き出しに仕舞った。
「燃やさないんですか」
「客の字だ。ほとぼりが冷めたら、こっちから伺う」
◇
数日分の空気が詰所に溜まった頃、グラントが受付の間に出てきた。
珍しいことだった。主任は普段、奥の帳場から動かない。
「手を止めなくていい。聞くだけ聞け」
算盤の音が、止まった。全員、手を止めていた。
「紙で殴られてる。痛えのは分かる。だがな、看板ってのは紙じゃ燃えねえ」
グラントは受付の壁を見た。古い商館の三階で、二十年掛かっている木の看板の方を。
「この看板が燃える時は、一つしかねえ。うちが客を売った時だ。名前も、素性も、居場所も、誰にも売らねえ。それをやってる限り、看板は残る。客は紙を読むが、仕事は看板で選ぶ。……だから、いつも通りやれ。いつも通りが、一番の返事だ」
詰所の古株が、鼻を鳴らした。
「……言われなくても」
「おう。言われなくてもやってるのは知ってる。だから聞くだけでいいと言った」
算盤の音が、戻った。心なしか、珠が軽い。
◇
夕方、表の戸が開いた。
杖をついた通いの婆さんだった。月に一度は来る、苦情の常連だった。
「ばあさん。……読んでねえのか、瓦版」
「読んだよ」
婆さんは当たり前の顔で、いつもの長椅子に座った。
「夜に人が出入りするんだってね。結構なことじゃないか、働き者で。――それより主任さん、隣の犬だよ。今夜もうるさいんだ」
リオは、茶を出した。
燭台のあかりが、婆さんの横でぽんと一つ跳ねた。
「で、聞いとくれ。飼い主がまたね――」
苦情は、半刻続いた。犬の種類から飼い主の人相、吠える刻限まで、婆さんの口は衰えを知らない。リオは相槌の打ち方だけ気をつけて、最後まで聞いた。
「あんたは聞くのが上手いね。出世するよ」
「……どうも」
「じゃ、頼んだからね。主任さん、茶、ごちそうさん」
杖の音が階段を下りていき、帳面に載ったのは一行だった。
苦情一件。隣家の犬。
三日ぶりの、一行だった。
その帳面の脇に、夕方の便で届いた手紙が一通残っていた。
断り状の束とは、紙の格が違う。上等な封蝋に、商会の紋。差出人は、エルム・シラード。
文面も、一行だった。
――あの茶を、もう一度。貸しを一つ、使わせていただきます。
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