第60話 生まれた村(前編)
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第60話です。
休みの日の朝、帳場の前に荷馬車が停まっていた。
乗合ではない。窓口が付き合いで使う運送屋の古い馬車だった。御者台にグラントが座り、リオはその隣に乗った。
出がけに、眠り鹿の宿でマルタに弁当を持たされた。
二人分だった。
行き先も、連れも、言っていない。それでも包みは二人分で、片方の包みだけ紐が二重に結んであった。揺れる馬車の上でも解けないように、ということらしい。
何も聞かない人は、今日も必要なものだけ正確に寄越した。
あかりは、リオの上着のポケットにいた。
「きょうは、しごと?」
「違う」
「おやすみ?」
「……違う」
あかりはそれ以上聞かずに、帽子を目まで下げた。
王都の南門を出て、街道を南へ。春の畑が流れていき、やがて人家がまばらになり、湿地の匂いが風に混ざり始めた。
グラントは手綱を握ったまま、ほとんど喋らなかった。
喋らないことに意味のある、喋らなさだった。帳場で茶を淹れる時の沈黙とも、依頼を断る時の沈黙とも違う。長い間仕舞ってあったものを取り出す前の沈黙だった。
リオも、聞かなかった。
聞かないでいる技なら、窓口で覚えた。
昼を過ぎた頃、馬車は街道を外れた。湿地の縁に沿ってしばらく進み、森の際で止まった。
「ここからは、歩きだ」
グラントは馬車の馬に水をやって木陰に繋いだ。手慣れていた。何度もここで同じことをしてきた手だった。
◇
道は、なかった。
ないのに、グラントの足には迷いがなかった。下草の薄いところを選んで森の奥へ入っていく。
三つ目の倒木を跨いだあたりで、リオは気づいた。
グラントが曲がるより先に、自分の足が曲がっている。
枝の低い場所では、言われる前に頭が下がる。石の多い斜面では歩幅が勝手に変わる。小さな沢を渡る時は濡れない飛び石を迷わず選んだ。
体が、道を覚えていた。
夜の仕事で鍛えた足は、考えるより先に道を選ぶ。その足がいま、教わった覚えのない道を選んでいる。
坂を登り切ったところで、リオは理由もなく振り返った。
木々の切れ目から、来た道が長く見下ろせた。夕方にここを通れば、ちょうど夕日が正面に来る角度だった。
誰かと手を繋いで、ここで夕日を見た。
覚えているのは、それだけだった。誰の手かも、いつの夕日かも、記憶は教えてくれない。ただ振り返る癖だけが足に残っていた。
獣の気配が、遠巻きに付いてきていた。
敵意はない。近寄りもしない。梢の上と茂みの奥から、懐かしいものを見送る距離でこちらを見ている。
あかりがポケットから顔を出した。
「……ここ、やさしい感じがする」
「……なんで、そう思う」
「りおの、においがするから。森ぜんぶから」
リオは、答えられなかった。
◇
森が、ふいに開けた。
草に呑まれた広場があった。広場を囲んで、石を積んだ四角がいくつも並んでいる。
礎石だった。
数えると、二十ばかり。石の面にはところどころ、火を浴びた黒ずみが残っている。
焼けた村の、跡のようだった。
どの四角の中も草と若木で、十年分の緑が家の形を覆い隠していた。焼けた匂いは、もうどこにもない。緑は、焦げ跡の上から生えたことなど知らない顔で茂っていた。
リオは、広場の入り口で足を止めた。
どの石にも、見覚えはない。
ないのに、広場の真ん中の井戸の跡を見た時に喉の奥で何かが小さく鳴った。
ここで、水を飲んだことがある。
理屈ではなく、体のどこかがそう言っていた。
礎石のひとつの陰で、何かが動いた。
鹿だった。
若い鹿が一頭、崩れた竈の跡のそばで脚を畳んで眠っていた。二人の足音に耳だけ動かして、目を開けもしない。
脚を畳んで眠る鹿は、そこが本当に安全な場所の時だけ、そうして眠る。
いつか聞いた看板の由来が、胸のどこかで鳴った。
焼かれた村は十年かけて、獣が脚を畳んで眠れる場所に戻っていた。
風に、音が混ざっていた。
低い弦の音だ。間を置いて、一節ずつ、池の方から聞こえてくる。
グラントは、驚かなかった。
何も言わずに広場を抜けて、一番奥へ歩いていった。
奥に、池があった。
大きい。森の水を集めて、底の見えない色をしている。風が渡っても、波はすぐに収まった。
主のいない水面は、ただ広かった。
◇
池のほとりに、石碑が立っていた。
墓石ではない。大人の背丈ほどの、一枚の大きな石だ。池の色に似た灰色の肌に、文字は一つも彫られていない。周りだけ草が刈られ、苔もついていなかった。手を入れ続けている者がいる石だった。
その石碑の脇に、黒い服の長身が立っていた。
ラウル・ベルカント。窓口の十番、葬送楽師。立ったまま飴色の弦楽器を抱えて、間を置いては低い一節を置いていく。こちらに気づくと、弾く手を止めずに目礼だけを寄越した。
先に、来ていたのだ。
グラントは背負い袋から鎌と手桶を出した。慣れた順番で石碑の周りの春の草を刈り、池の水を汲んで石の肌を上から流した。
毎年夏の終わりに丸一日だけ帳場を空ける人の、一日の中身がこれだった。
「……ここに、村の全員が眠ってる」
手を動かしたまま、グラントが言った。
「二十一人だ。年寄りが多かった。夜の仕事から退いた連中と、その家族と。……全員ここに運んで、全員で埋めた。葬ったのは俺と、ガルドとネムだ。送りの一節は、十年ずっとあの人が弾いてる。……どこの空の下にいても、この日だけは戻ってきてな」
「名前は、彫らないんですか」
「彫らねえ」
グラントは手桶を置いた。
「夜の側の人間の名前は、死んだ後も狙われることがある。それにな――名前を知ってる奴しか、ここには来ない」
リオは、動けずにいた。
悲しい、という形になる前の、名前のつかないものが胸の真ん中に置かれていた。置かれたまま、どこへ運べばいいのか分からなかった。
「あかり」
グラントが、リオのポケットの灯りに声をかけた。
「頼みがある。……灯りを、二十一出せるか」
「にじゅういち?」
「ここに眠ってる、全員の数だ」
あかりはふわりと浮かんで、石碑の前へ降りた。
光を小さく絞る。絞った光が、ほどけて増えていく。
一つ、二つ――二十一。
小さな灯りが、石碑の前の刈られた草の上に灯明の形に並んだ。頼まれた数を、小さな灯り手は一つも間違えなかった。
二十一の灯りが、春の夕方の中で揺れた。
ラウルの弦が、灯りの数だけ低い音を一つずつ置いていった。
リオは、膝をついた。
夏の午後の記憶が、胸の置き所のないものの隣に並んだ。池のほとりで水音を立てて笑っていた、あの二人。
あの二人も、この石の下にいる。
手の合わせ方は、グラントの見様見真似で覚えた。
曲が、終わった。
ラウルは楽器を黒い箱に納めて、リオの前に立った。黒い袖がすっと持ち上がり、指先に飴が一つ載っていた。
「……大きくなった」
リオが受け取ると、葬送楽師はそれだけ言って森の方へ歩き出した。長い話の邪魔はしない、という背中だった。
◇
グラントは隣に膝をついて、長いこと手を合わせていた。
終わってから、石碑を見たまま言った。
「ヨナス・アルクスと、エマ・アルクス。……お前の親父と、お袋だ。俺の、古い仲間だった」
初めて、名前を声で聞いた。
リオは石碑を見た。文字は彫られていない。二十一人分の名前はこの十年、グラントの中にだけ刻んであったらしい。
「……知ってたんですね」
「ああ」
「最初から、全部」
「全部だ」
グラントは池へ目を移した。
「十年、言う日を探してた。早すぎれば、お前が潰れる。遅すぎれば、俺が腐る。……お前が自分の手で覆面を外した、と聞いた時に決めた。もう、聞ける背中になってる」
主のいない池を、春の風が一度だけ渡っていった。
「長い話になる。……座れ」
リオは、座った。
二十一の灯りが、石碑の前で揺れ続けていた。
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次回、十年前の話です。




