幕間 眠り鹿の冬
お読みいただきありがとうございます。
幕間です。眠り鹿の宿の、女将の話。
宿屋の朝は、竈の火から始まる。
マルタは夜明け前に起きて火を入れ、湯を沸かし、その日の客の数だけ皿を数える。眠り鹿の宿の女将を二十年やって、体がそういうふうにできあがった。
二階の奥に、下宿の学生が一人いる。
よく食べてよく眠る、いい下宿人だ。礼儀は悪くないし家賃は遅れない。廊下で会えば眠そうに頭を下げる。
夜中に、窓の桟が鳴る日がある。
猫でも通ったような軽い音。朝になると、磨いてあったはずのあの子の靴が、夜の前より汚れている。
マルタは、聞かない。
聞かないのがこの宿の商いだと、ずっと昔に決めた。
◇
冬の洗濯物に、時々妙な布が混ざる。
長い、色の抜けた布だ。煤の匂いと夜の匂いがする。端の方が、刃物とは違う破れ方をしている。
マルタはそれを他の洗濯物と同じように洗う。同じように干して、破れたところは繕っておく。繕いながら考えることは針目の数だけあるが、口には出さない。
洗い上がった布は畳んで二階の部屋の籠に戻す。
籠に戻すと、数日でまた煤の匂いになって戻ってくる。
名前も知らない布の洗濯を、もう二年やっている。
◇
秋の終わりの朝、栗色の髪のお嬢さんが食堂に立っていた日のことはよく覚えている。
よそ行きの上着で髪をいつもより丁寧に結って、うちの下宿人を迎えに来た。あらあらあら、と声が出た。あら、が一つ多かった自覚はある。
紙包みを二つ投げたのは、ああするのが一番早いからだ。歩きながら食べられるものを包んだのは、あの二人が店で向かい合って食べる段になったらたぶん黙り込むからだ。
包みの中身は朝焼きの一番良いところにした。
それも、言わない。
夜に帰ってきたあの子の皿に、肉を一切れ多く載せた。あの子は気づいた顔をして、何も聞かれないと分かっている顔で黙って全部食べた。
いい夜だった。
◇
この宿と窓口の付き合いは、先代からのものだ。
二階の奥に、帳面に載らない部屋が一つある。夜の側の人間が、何も聞かれずに眠れる場所。それがこの宿の、裏の商いだった。裏といっても、やることは表と同じだ。飯を出して、寝かせる。それだけのことが、あちら側の人間には一番手に入らないのだと、先代は言っていた。
三年前、あの子を連れてきたのは窓口の主だった。
眠れる場所を一つ頼む、と言っただけで、何の説明もしなかった。マルタも聞かなかった。聞かずに、一番日当たりのいい部屋を空けた。
冬のあの数日のことも覚えている。
夕方に上等な馬車があの子を乗せていき、夜中に窓の桟が鳴って、朝になっても戻らなかった。
窓口の若い人が来て、今日は帰りが遅れます、とだけ言っていった。
マルタは夕飯の仕込みを一人分遅らせた。
竈の前で遅らせた鍋を見ながら、二十年前に決めたことをもう一度数えた。聞かない。詮索しない。帰ってきた客に温かいものを出す。宿にできるのは、それで全部だ。それで足りるように、宿というものはできている。
あの子は次の日の朝に帰ってきた。
土と夜と煤の匂いをさせて、立ったまま眠りそうな顔で。
「……おかえり」
「ただいま、です」
「飯にするかい。寝るかい」
「……両方」
食べながら寝かけたので、皿を下げて寝かせた。
階段を上る足音が途中で一度止まって、壁にもたれる音がして、また上っていった。
マルタは竈の火を落として、その日は店の塩を多めに撒いた。
誰に、ということもない。ただの験担ぎだ。
◇
先代からこの宿を継いだ時、看板の由来を聞いた。
眠り鹿。
鹿というのは、耳のいい獣だ。物音一つで跳ね起きて逃げる。その鹿が脚を畳んで眠るのは、そこが本当に安全な場所の時だけだという。
だから宿の名前にした、と先代は言った。
うちの看板は、飯でも酒でもない。よく眠れる、ということだ。
春になって、下宿の学生は三年生になった。
今日も食堂の隅の席で、湯呑みを前にしたまま船を漕いでいる。春の日が、その頭の上まで差している。
脚を畳んで眠る鹿を、マルタは起こさない。
皿の肉を、一切れ多くするだけだ。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
面白い、続きが気になると思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想をいただけると励みになります。




