第56話 白紙と帳面
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第56話です。
その日の朝、シラード商会の奥の間で、エルムは御者の報告を聞いていた。
「お客様は、どちらまで」
「倉庫街の、二筋手前まで。その先は走って行かれました」
「……そう」
エルムは朝の茶を一口飲んだ。
夜明け前、倉庫街の古い倉庫で騒ぎがあった。白庭の借りていた倉庫で、男が何人も伸びていた。攫われていた学園の生徒は三人とも、朝のうちに家へ帰った。報せはもう、全部揃っている。
「道理で」
茶器が、受け皿の上で小さく鳴った。
「……道理で、茶が楽しいはずだ」
御者は何も言わなかった。言わないのが仕事だった。
エルムは窓の外の大市場を眺めた。眺めたまま、声だけが変わった。帳場に依頼書を置く時の、あの低さに。
「ヴェルナー家の一年。シュタム家の三年。ラティス運送の娘。……学生を三人、商品のように仕入れた者がいる」
「はい」
「白庭に資材を卸している工房。綱と薬を売る店。倉庫の貸し主。運びの請負。全部、調べなさい」
「潰しますか」
「いいえ」
エルムは首を振った。
「嘘も、暴力も要りません。商人には、売らないことができます。……うちと、うちの付き合いのある店は、今日から白庭に何も売らない。それだけです」
それだけ、の意味を御者は知っていた。王都の流通の半分は、シラード商会の付き合いでできている。
「残った取引先には」
「教えてあげなさい。白庭と商売を続けるか、うちと続けるか、好きな方を選べると。……選べるというのは、本当のことです」
エルムは茶を飲み干して、呟いた。
「学生は、商品ではありませんよ。オズワルド」
◇
同じ朝、灰色の建物の奥で帳面の写しが机に載った。
几帳面な字だった。
倉庫の人数。覆面の手際。檻の獣が一呼吸で寝返ったこと。学生三人は確かめの前に救い出され、覆面は三人の外から現れたこと。
末尾に、太い字で結論が書いてあった。
――覆面は、学生の中にいない。三人は外れ。学園に手を出しても、何も出ない。
机の主は長いことその頁を見て、判を一つ押した。
学園線、打ち切り。
現場の頭については、報告書は多くを語らなかった。商売から退いた、とだけある。
判を押した手が、余白に短い書き込みを足した。
――覆面の線は、十三番窓口の裏に続く。調べは、慎重に。
帳面は閉じられ、灰色の建物は表向きは今日も商会だった。
◇
その日の放課後、リオは図書館に呼び出された。
窓際の机に、白い手袋の司書が立っていた。
「お疲れのようですね」
「見て分かりますか」
「はい。いつもより三割ほど」
白紙先生は、紙の束を机に置いた。学園の届け出の写しだった。三人の生徒の欠席は、家庭の事情として処理されている。日付も判も、何の不思議もない顔で揃っていた。
「表の紙は、こちらで整えておきました。三人は今日と明日、家庭の事情でお休みです。あなたは何も知らない。いつも通り、寝ていてください」
「……助かります」
「九番の出番がなくて、何よりでした」
リオは椅子に座った。座ってから、前から聞きたかったことを聞いた。
「先生は、なんでいつも図書館にいるんですか」
白い手袋が本の背を一冊撫でて、止まった。
「……私の力は、使った分だけ、私から持っていきます」
「持っていく」
「忘れるのです。使うたびに、何かを。……何を忘れたのかも、忘れます」
図書館の静けさが、一段深くなった気がした。
「だから、ここにいます。図書館は、世界の覚え書きですから。私が何を落としても、ここの棚のどこかには、書いてある」
「……今までに、何を忘れたんですか」
「さあ」
白紙先生は、微笑んだ。
「忘れましたから」
いつもの、困っていなさそうな顔だった。いつもと同じに見えて、同じに見えることが今日は違って見えた。
リオは、それ以上聞かなかった。
聞かない線引きなら、隣の席の誰かさんで覚えている。
「リオ君」
「はい」
「今夜は、よく眠れますよ」
根拠は言われなかった。
言われなかったが、その通りになった。リオは開いた本を枕に、夕方の鐘まで眠った。
白い手袋が棚の向こうから伸びてきて、西日のカーテンを半分だけ引いた。
◇
その翌日。攫われていた三人は、一日だけ休んで学園に戻った。
戻った教室で、ノアが早速限界を迎えていた。
「……言えないんです。言えないんですけど」
「言えないなら言うなよ」
昨日まで剣術科の合宿に出ていたカイルが、弁当を広げながら言った。
「言えないんですけど、僕、すごいものを見たんです。本物を。ああいうのを本物って言うんだと思うんです」
「何も伝わらねえ」
「伝えられないんです!」
ノアは机に突っ伏した。突っ伏して、隣の席をちらりと見た。
リオは一限から、見事に寝ていた。
「……先輩は、昨日も寝てたんですか」
「こいつはいつも寝てるだろ。なあ、俺がいない間、ほんとに何もなかったのか?」
「何も」
窓際の席から、セナが答えた。帳面から顔も上げなかった。
「何もなかったわ。いつも通りよ」
「ふうん。……ならいいけどよ」
カイルは納得しない顔で弁当を食べた。
セナの帳面には、今日の予定が並んでいた。一番下の行にだけ、予定ではないものが一つ書いてあって線で囲ってあった。
十二個目、まだ。
囲いの線は、二重だった。
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