第54話 覆面(後編)
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第54話の後編です。
一呼吸分、倉庫の中の誰も動かなかった。
探している者が、向こうから入ってきたのだから。
「……ふ、覆面だぁぁ!」
若い見張りの叫びで、時間が動いた。
「は? おい、捕まえてた奴らじゃねえのか!?」
「じゃあ隅の三人は何だ!」
「知るか! やれ、囲め!」
誰も囲めなかった。
扉の外では、先に見張りが二人伸びていた。足元を鼠が走った、と目を落とした瞬間に、まっすぐな拳が顎へ届いた。音は、倒れる音さえしなかった。開いた扉が、そのまま何事もなく開いただけに見えたのは、そういうことだ。
覆面が敷居を越えた。速い。灯りの届かない床を選んで走る。
一人目が棒を振り上げて、振り下ろす前に沈んだ。懐へ入られて、腹に一発。
二人目は、振り向いた顔に一発。
三人目は背を向けた。向けた襟首を掴まれて、床に沈んだ。
今日の覆面は、容赦がなかった。
そして、止まらなかった。
檻まで一直線。格子の前で膝を突き、太い糸が鞭のしなりで檻の中へ入った。
牙が迎えた。噛み潰せなかった。糸は牙の間を抜けて、首筋の奥へ。
一呼吸。
それで終わりだった。
アッシュウルフの唸りが、止まった。血走っていた目から、泡を飛ばしていた口から、力だけが抜けていく。覆面は格子越しに手を入れて、首の革輪を毟り取った。魔石ごと、床で踏み砕いた。
「――おい」
旦那と呼ばれた大男だけが、動じていなかった。
腰の棒を抜いて、肩で回す。
「そいつはうちの商売道具だ。餌代が高くついて――」
覆面が閂を外した。
檻が開いて、灰色の獣が出た。出て、敵だったはずの男たちへ向き直った。もう泡は飛ばしていない。静まった獣は、暴れていた時より三倍怖かった。
「噛むな」
布越しの低い声が言った。
「追え。壁まででいい」
灰狼が走り、見張りたちが散った。
大男だけが、その場に残った。残って、檻と覆面を見比べてから初めて声の調子を落とした。
「……おいおい。マジかよ」
三日飢えさせて、薬で昂らせた獣だぞ。
そう続けた声は、もう商売人の声ではなかった。
◇
大男は、強かった。
それは、セナにも分かった。棒の先が覆面の袖を掠め、布を裂き、二度三度と追い詰める。学園の剣術科の型とは違う、人を倒すためだけの棒だった。ナンバーズが相手でなければ負けないという言葉は、はったりではなかったらしい。
ただ、相手が二人いた。
覆面が引き、入れ替わりに灰狼が低く飛ぶ。棒が狼を払えば、死角から覆面が間合いを潰す。前後を挟まれて、大男の足が初めて下がった。
「二対一たぁ、卑怯じゃねえか」
「ここに、何人いたと思ってる」
棒が大きく振られて、狼が一度跳び退いた。
「――噛んでいいぞ」
布越しの声が言った。
次の打ち合いで、狼の牙が棒の腕に届いた。大男の体勢が初めて崩れて、崩れた懐へ覆面が入った。
何をしたのかは、セナの位置からは見えなかった。
大男が膝から落ちて、床で動かなくなった。それだけが見えた。
◇
倉庫の裏口で、几帳面な男が足を止めていた。
逃げる途中だった。逃げ切れる、とも思っていなかった。覆面がこちらを見ていたからだ。
覆面は、追ってこなかった。
代わりに、布越しの声が倉庫を渡ってきた。
「帳面を持ってるな」
「……ええ」
「書いておけ。覆面は、学生の中にはいない。三人は外れだ。学園に手を出しても、何も出ない」
几帳面な男は、覆面をしばらく見た。
主を失った灰狼が覆面の足元に寄り添うのを見て、倒れて動かない旦那を見て、それから自分の胸元の帳面を見た。
「……帳面に、書いておきます」
男は背を向けて、慌ただしく夜へ逃げていった。
逃がしたのだと、セナは少し遅れて理解した。白庭に伝える者が一人は要る。学生は外れだと。もう攫う意味はないと。
この人は、戦いながらそこまで考えている。
◇
「出口は南だ。夜明けまでには家に帰れる。……窓口の者が、外で待ってる」
布越しの低い声が三人に言った。
「……すごい」
ノアが呟いた。囁きになっていなかった。
「自分でも戦えて、一瞬でテイムして、従えた子と並んで戦って……あんなテイマー、いるんだ」
「行くぞ」
ベルントがノアの襟を掴んだ。掴みながら、自分も覆面から目を離していなかった。
「名は聞かん。今夜のことも言わん。……だが、覚えておく」
三年の主席が、覆面に向かって深く頭を下げた。二人が先に、南の戸口へ走った。
セナは、走らなかった。
走れなかった。
胸元から灰色の小さな体が飛び出して、覆面の肩に乗ったからだ。
スズだった。
覆面の頬に、布の上から体を擦りつけている。尻尾が、千切れそうに振れていた。
「……スズ」
セナは言った。自分の声が遠くに聞こえた。
「その子、人見知りなのよ。私の家の、十二匹で一番の」
覆面は答えなかった。
「筒の使い方は、私なら分かるって。そう思って寄越したでしょう。倉庫街の獣はみんな、あなたの味方だった。それに――」
一歩、近づいた。
「窓口が、動いてた」
覆面は、まだ答えなかった。
答えないことが、答えになり始めていた。
「ねぇ。――リオ、なの」
覆面の手が、ゆっくり上がった。
セナの返事を待たずに、自分の指で布の結びを解いた。
布が落ちた。
夜明け前の薄明かりの中に、見慣れた、眠そうな顔があった。
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