第54話 覆面(前編)
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第54話です。前・後編でお届けします。
夜明け前が、一番冷える。
倉庫の隅で、セナは二人と背中を寄せ合っていた。縄は解いたまま手首に巻いて、後ろ手に隠している。夜明け前の倉庫は薄暗く、隅の学生の手元までは誰も見ない。いつでも動けて、いつでも元に戻れる形。それもベルントの指示だった。
扉の外が、騒がしくなったのはその頃だ。
馬の足音が一つ、駆け込んできた。伝令らしい。扉越しの声は潜めてあったが、夜の倉庫はよく響く。
「――十三番窓口が動いてる」
「は? 窓口が、なんで動く」
「知るか。学園を抑えたのも、ラティスの家を抑えたのも窓口だとよ。衛兵が一人も出てこねえ。全部、窓口が止めてる」
「ただの苦情窓口だろうが、あそこは」
「表はな。……裏を知らねえ奴は黙ってろ」
短い沈黙があった。
それから、別の声が低く聞いた。
「ナンバーズは? ナンバーズは出てるのか!?」
「出てない。それは確かだ。窓口の若いのが、走り回ってるだけだと」
「なら大丈夫だろ」
誰かが笑って、話は終わった。
積み荷の陰で、セナは膝の上の拳を見ていた。
窓口。
あの人のバイト先だ。何の仕事かはよく知らないけれど、いつも忙しそうにしている、あの。
――走り回っているの。リオなの?
浮かんだ顔を、もう一度打ち消した。届けてくれただけで十分だ。あの人は、戦う人ではない。
スズは夜のうちに、換気窓から出ていった。引き留めなかった。あの子はたぶん、外の誰かのところへ帰る。別れ際に、セナの指を一度だけ甘噛みしていった。
「窓口ってのは、そんなに怖いのか」
ベルントが囁いた。
「私も詳しくは知らないわ。でも……リオの、バイト先よ」
「せ、先輩の?」
ノアの囁きが裏返りかけて、ベルントの肘で止まった。
◇
几帳面な男が入ってきたのは、それからすぐだった。
後ろに、男がもう一人。
大きい。ベルントより一回り大きい。着ているものは上等なのに、歩き方だけ裏路地の歩き方だった。腰に短い棒を差して、手ぶらのように歩く。
「旦那。窓口の件は」
「聞きました。繰り上げます」
几帳面な男は、几帳面に告げた。
「夜明けを待ちません。確かめを、今やります」
旦那と呼ばれた大男が顎をしゃくると、檻が運び込まれてきた。
中で、灰色の獣が暴れていた。アッシュウルフ。灰狼とも呼ばれる中型の魔物だ。目が血走って、口の端から泡が飛んでいる。首に革の輪が嵌められ、輪には小さな魔石が埋まっていた。
セナは、息を呑むより先に理解した。
あの首輪は昂らせる道具だ。魔物を飢えと怒りで満たして、箍を外す。獣医師会が何度も禁止を訴えている、裏の道具。
大男が檻を一度蹴り、獣がひるんだ隙に三人へ向き直った。
「聞こえてたろ。窓口がお前らを拾いに動いてるとよ。……残念だったな。寿命が縮まったぜ」
誰も答えなかった。
「知らねえ顔だな、お嬢ちゃんたち。十三番窓口ってのは、表じゃ苦情の受付。裏じゃ夜の口入れ屋だ。竜の喧嘩から化け物の後始末まで、金次第で何でも捌く。まともな役所なもんか」
セナはその講釈を、知らない街の話のように聞いた。
あの優しそうな帳場と、同じ場所の話とは思えなかった。
「ま、ナンバーズが出てくるってんなら俺も逃げ支度をするさ。だが来てるのは使いっ走りだけだ。そこらの奴に、俺は負けねえ」
大男は腰の棒を抜いて、檻の格子を軽く叩いた。それだけで、暴れていた獣が奥へ下がった。叩き方を知っている手だった。
「だから確かめを先に済ませる。一人ずつ檻の前に立て。糸を使わねえで、こいつを黙らせた奴が覆面だ」
「黙らせられなかったら」
セナは聞いた。声が硬くなるのは止められなかった。
「お前らの中に覆面がいりゃ、誰も怪我しねえで済む。さっさと名乗り出るんだな」
答えになっていなかった。
なっていないことが、答えだった。
「……俺からだ」
ベルントが立ち上がった。
「年長からやる。文句はないな」
ノアの顔は紙の色だったが、それでも震える膝で立とうとした。セナはその袖を引いて座らせ、自分が立った。
「私からよ。言い出した者勝ち」
「どっちでもいい」
大男が初めて笑った。
「どうせ、順番の問題だ」
◇
同じ頃、倉庫街の獣たちはおかしくなっていた。
市場の残飯を漁っていた野良犬が、揃って顔を上げた。屋根の鳩が、飛びもせずに場所を空けた。溝の鼠が走るのをやめ、壁際で動かなくなった。
風はない。音もない。
それでも獣たちは、何かが通るたびに道を譲った。
譲りながら、低く鳴いた。吠え声ではなく、腹の底の唸りに似た声で、同じ方へ向かって鳴いた。
倉庫の屋根の上を、影が一つ音もなく移っていった。
影の胸元で、スズの毛が逆立っていた。繋いでもいない糸の外から流れてくるものに、小さな体の毛が勝手に立った。
獣は、人より先に知る。
怒っている人間の匂いを。
◇
檻が、三人の前まで引き出された。
アッシュウルフが格子に体当たりして、檻ごと床を滑った。繋ぎ止めの鎖が鳴る。
セナは一歩前に出た。
出ながら、頭の中で数えていた。檻までの歩数。格子の隙間。首輪の魔石の位置。黙らせる手はない。でも、時間を稼ぐ手ならいくつかある。
閂に、大男の手がかかった。
「待て」
声を出したのは、見張りの一人だった。
「……外が、静かすぎねえか」
全員が、一度動きを止めた。
言われてみれば、静かだった。火桶を囲む見張りの話し声が、途絶えている。犬の遠吠えも、いつの間にか止んでいた。
「おい、表のやつらを呼んでこい」
大男が顎で指す。若い男が一人、扉へ歩いて閂に手をかけた。
かける前に、扉が開いた。
外から、ゆっくりと。
夜明け前の薄闇を背にして、布で顔を覆った人影が、敷居の上に立っていた。
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次回、後編です。




