第51話 ただの休み
お読みいただきありがとうございます。
新しいお話です。今回は一話完結、事件のない話です。
前の晩、バイト帰りのリオが宿へ戻る前に帳場へ寄ると、燭台の上であかりが首をかしげた。
「あした、きゅうか?」
「違う」
「なに」
「……休み」
「おなじ」
同じではない、と言いかけてやめた。説明できる自信がなかった。
休暇はグラントがくれるもので、休みはセナと約束したもの。違いはそれだけで、それが全部だった。
「あかりは、留守番だ」
「なんで」
「……なんでだろうな」
あかりは燭台の上で帽子を直して、それ以上は聞かなかった。
聞かない代わりに、宿へ帰るリオの背中に一言だけ言った。
「あした、いってらっしゃい」
「……まだ今日だ」
「れんしゅう」
誰かに教わったらしい。たぶん、マルタだ。
◇
休みの日の朝、眠り鹿の宿の食堂に栗色の髪の少女が立っていた。
「……本当に、迎えに来たのか」
「言ったでしょう」
セナはよそ行きの上着を着て、いつもより髪を丁寧に結っていた。丁寧に結った、と分かるのがまずかった。リオは分かったことを顔に出さないことにした。
カウンターの奥で、マルタが手を止めていた。
止めて、セナを見てリオを見て、またセナを見た。
「あらあらあら」
あら、が一つ多かった。
「あの、女将さんですね。初めまして。同じ学園の、セナ・ラティスです。今日は、その」
「はいはい。何も聞かないわよ」
マルタは笑って、紙包みを二つカウンター越しに投げた。セナが慌てて受け取った。
「朝ごはん。歩きながらでも食べられるやつ。……行ってらっしゃい、二人とも」
何も聞かない人は、必要なものだけ正確に寄越す。
宿を出てから、セナが包みを見て言った。
「……いい宿ね」
「いい宿だ」
◇
セナは、歩きながら帳面を出した。
見慣れない、小さい帳面だった。十二匹の世話帳面でも、検証の帳面でもない。三冊目だ。
「本日の予定。九時、南市場。十時、三番街の新しい菓子屋。十一時、中央広場の古本市。昼は市場に戻って屋台。午後は――」
「……測る日じゃないんだろ」
「測らないわよ。これは予定。予定と計測は別物なの」
「休みの予定を、帳面につけるのか」
「つけるわよ。休みを無駄にしないために」
セナは当然の顔で帳面を閉じた。
無駄にしない休み、という言い方が既に休みから遠い気がしたが、リオは言わないことにした。この人は、こういう人だ。十二匹の名前と好物と寝相を全部覚えている人の休みは、こうなる。
「じゃ、九時。南市場から」
セナが歩き出した。
歩幅が、いつもより小さかった。
◇
予定は、九時十五分に崩れ始めた。
南市場の入口で、犬が来た。
茶色い雑種で、リオの足に体当たりして尻尾を千切れそうに振った。配達の時に何度か道を聞いた顔見知りだ。
「……知り合い?」
「まあ」
犬の後ろから、もう二匹来た。それから屋根の上に鳩が三羽並び、魚屋の天幕の陰から猫が一匹降りてきた。
市場の人混みの中で、そこだけ小さな獣だまりができた。
「他人のふりしなさいよ」
「してる」
「尻尾が三本、あなたの脚に巻きついてるのに?」
買い物客が振り返り始めていた。微笑ましいものを見る目と、少し珍しいものを見る目が半々だった。セナはリオの袖を引いて、獣だまりごと市場の裏道へ退避した。
裏道で、犬が先に立って歩き出した。
歩いては振り返り、歩いては振り返りする。
「……案内する気よ、この子」
「らしいな」
「どこへ」
「知らない。……聞いてみるか?」
「休みの日に糸は禁止」
セナは即答して、それから犬の顔をしばらく見た。十二匹の主の目で、耳の角度と尻尾の高さを読んだ。
「……悪い場所じゃなさそうね。ついて行きましょう」
予定の帳面は、開かれなかった。
◇
犬の案内は、当たりだった。
裏道を三つ抜けた先に、小さな広場があった。古い井戸と、色づいた大きな木が一本。木の下に、椅子を四つだけ出した菓子屋の屋台が出ていた。三番街の新しい菓子屋とは別の、誰も知らないような店だった。
行列は、なかった。
焼き菓子は、温かかった。
「……予定にない店ね」
「うまいけどな」
「うまいのよね。悔しいけど」
セナは二個目を買った。買ってから、犬に一欠片やろうとして止まった。
「……人の食べ物、あげていいの?」
「こいつは平気だ。腹が、鉄でできてる」
「聞いたの?」
「前にな。仕事中に」
犬は欠片を一口で食べ、満足して来た道を帰っていった。案内料だったらしい。
木の下の椅子で、二人は焼き菓子の残りを食べた。
十時の菓子屋にも十一時の古本市にも、間に合わない時間になっていた。セナは帳面を出して予定の頁を見て、何も書き直さずに閉じた。
「あのね。一応言っておくけど」
「うん」
「予定通りに行かなくて、怒ってるわけじゃないのよ」
「知ってる」
「……なんで分かるの」
「二個目を買った」
セナは黙って、三個目を買いに立った。
◇
昼過ぎの大通りで、よく知った声が飛んできた。
「あーっ!」
ネイトだった。隣にトトもいた。二人とも腕に古本の束を抱えている。古本市の帰りらしい。
「リオと、セナさんだ! 二人で何してんの!?」
声が、大通り中に通った。ネイトの声は今日も鍛え上がっていた。
セナの肩が、一瞬だけ跳ねた。
跳ねて、戻った。
「……散歩よ」
「ふたりで?」
「ふたりで。べ、別に、隠れることじゃないでしょ」
開き直りまでに、二呼吸かかった。
トトが古本の束を抱え直して、首をかしげた。
「散歩っていうのは、犬の散歩?」
「犬は、もう帰った」
リオが答えると、トトは「そう」と頷いてそれ以上は聞かなかった。図鑑の人は、興味の範囲が獣で終わっている。助かる範囲だった。
「じゃ、俺ら帰るな! ……あ、そうだ」
ネイトが振り向いて、にっと笑った。
「月曜、楽しみにしてるな!」
「何がよ!」
セナの声が裏返った。二人はもう走り出していた。
しばらく、気まずい沈黙が流れた。
流れてから、セナが小さく言った。
「……月曜、学園に行きたくないわ」
「俺は毎日そうだ」
「あなたのは、ただの眠気でしょ」
セナが笑った。
気まずさは、そこで終わった。
◇
夕方、二人は川辺にいた。
街道が王都を出る手前、川が大きく曲がる場所だ。夕日が水面を順に赤くして、対岸の屋根の向こうに沈みかけていた。
石の上に並んで座って、マルタの紙包みの残りを分けた。
セナが帳面を出した。
予定の頁を開いて、一つずつ線を引いていった。南市場、菓子屋、古本市、午後の分。引き終わると、予定は全部消えた。
「……今日、計画の半分も回れなかったわ」
「残念だったか」
「それが」
セナは帳面を閉じて、膝に置いた。
「全然」
川の音だけが、しばらく続いた。
「ねえ。一つ、教えてあげる」
「うん」
「沈黙が何呼吸続いたら気まずいか、知ってる? 教本には載ってないけど、私の経験では、十呼吸」
「十呼吸」
「十を超えると、人は天気の話を始めるの。カイルは三呼吸だけど」
「あいつは、ゼロだろ」
「ゼロね。訂正するわ」
それきり、どちらも喋らなかった。
川が流れ、夕日が沈んで、対岸の家々に灯りが一つずつ点いた。遠くで犬が鳴いた。たぶん、昼間のあの犬だ。
長い沈黙だった。
長かったが、天気の話はどちらからも出なかった。
「……今、何呼吸だった?」
セナが聞いた。
「数えてなかった」
「……私も」
セナは膝の上の帳面を見た。
見て、結局何も書かなかった。
書かないことが増えていくのが、今日という日だった。
◇
南門の前で、別れることになった。セナの家は門の外、リオの宿は門の内だ。
「送らなくていいの、って顔してるけど」
「してない」
「うちまで、送らせないわよ。十二匹が騒ぐもの。……あなたが来ると、全員起きるの」
「それは、悪い」
「悪いと思うなら、今度は昼に来なさい」
セナは門の方へ二歩歩いて、立ち止まった。
立ち止まって、振り向かずに言った。
「次の休みは」
「空いてる」
「……何も聞かずに空けるのね」
「ああ」
「変なの」
声が、笑っていた。
セナは今度こそ歩き出して、門の向こうの夕闇に消えた。最後まで、振り向かなかった。振り向かないまま、片手だけ小さく振った。
リオは、それを見てから歩き出した。
宿に帰ると、マルタは夕食の皿を出しながら何も聞かなかった。
何も聞かないまま、皿の肉が一切れ多かった。
夜に帳場へ顔を出すと、あかりが燭台の上から覗き込んできた。
「やすみ、どうだった」
「……普通」
「ふつう、って、なに」
リオは少し考えた。
考えて、答えをやめて椅子に座った。
「……いい日、ってことだ」
「ふつう、は、いいひ」
「今日のは」
あかりは帽子を直して、納得したのかしていないのか、光を一つぽんと跳ねさせた。
帳面には、今日も何も載らない。
載らない日が、少しずつ増えていた。
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