第50話 ものさし 〜リオのテイムを測る回〜(後編)
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第50話の後編です。
夕方の柵の前で、唸りは続いていた。
若いグレートボアは柵の一番奥に体を押し付けて、人間たちを順に睨んでいた。潰れた前脚は地面に付けられず、浮かせたままだ。浮かせたまま、それでも牙はこちらを向いていた。
「手順を確認するわ」
セナの声はまだ掠れていた。
「教本の作法では、まず餌付けと声掛けで敵意を解く。数か月かけて。それから糸を差し出して、向こうが受けるのを待つ。……あなたの作法は?」
「同じだ。差し出して、向こうが咥えるのを待つ」
「同じなの?」
「いつもは」
いつもは、の意味をセナはすぐに聞かなかった。
リオは柵の中に入った。
ミラが閂を開けて、入った後ろで閉めた。閉める音に、ボアの唸りが跳ね上がった。
リオは柵の中央に座った。
面談の時と同じ。運動場の実験と同じ。何もしないで、座る。
体質が効くなら、これで少しは落ち着くはずだった。
落ち着かなかった。
ボアは奥の木に体を押し付けたまま、唸り続けた。鼻から血の混じった息が飛んだ。
「……効かないのね。あなたの体質」
「怪我と、罠の分が、上回ってる」
リオは座ったまま、糸を出した。
太い方の、契約の糸。いつもの作法で床を這わせて、ボアの前まで届ける。咥えるかどうかは、向こうが決める。縁は、相手に選ばせる。
ボアは糸を見た。
見て、前歯で噛み潰した。
潰された糸が、ほどけて消えた。リオの肩が一度だけ揺れた。
「……今の、痛いの?」
「痛くはない。……断られただけだ」
「教本通りね。敵意のある個体は、糸を受けない」
セナは帳面に書いた。作法での契約、不成立。
書いてから、顔を上げた。
「それで、どうするの。数か月は、この子にはない」
リオはしばらく、ボアの目を見ていた。
それから立ち上がって、振り向いた。
「セナ。ここから先は、見ない方がいいかもしれない」
「見るわ」
即答だった。
「測ってほしいって言ったのは、あなたよ。いいところだけ測るなら、帳面なんて要らないの」
リオは少し黙った。
黙って、頷いた。
「……強引に、通す。向こうが受けなくても、糸は通せる。やればできる。やらないだけで」
「やらない理由は」
「縁は、相手に選ばせるものだから」
「今日は」
「選ばせてたら、死ぬ」
それだけ言って、リオはボアに向き直った。
◇
糸が、もう一本出た。
同じ太さの糸だった。ただ、今度は床を這わなかった。
まっすぐ、立ったままボアへ伸びた。
ボアが牙で迎えた。噛み潰そうとして、潰れなかった。糸は牙の間を抜けて、首筋の奥へ静脈に針を入れるような正確さで入った。
ボアの体が、一度だけ大きく跳ねた。
跳ねて、止まった。
唸りが止まった。
柵の中から音が消えた。夕方の鳥の声がやけに大きく聞こえた。
セナは帳面を持ったまま動けずにいた。
数えるはずだった呼吸を、数え忘れていた。
「……三呼吸」
代わりに数えていたのは、ミラだった。
「敵意の塊に、三呼吸で通した。……私も、初めて見たわ」
リオは繋がった糸の向こうに、最初の言葉を送った。
――治すだけだ。
ボアの耳が動いた。
――それが済んだら、解く。山にも帰す。お前の脚を潰した罠は、お前を運んだ人間が壊した。……だから今は、寝ろ。
命令だった。
寝ろ、の一言が糸を通った瞬間にボアの膝が折れた。立っていられなくなったというより、体が言葉に従っていた。浮かせていた前脚から順にゆっくりと藁の上へ崩れて、目が閉じた。
三日間誰も触れなかった獣が、眠った。
「ミラさん」
「ええ」
ミラは薬箱を抱えて、柵に入った。入って、潰れた前脚の包帯を替え、薬を塗って添え木を当てた。ボアは目を閉じたまま、指一本分も動かなかった。
処置は四半刻で終わった。
三日できなかったことが四半刻で終わった。
◇
リオは糸を解いた。
解く前に、もう一言だけ送った。
――起きたら、飯を食え。人間の手からで、悪いが。
糸が消えた。
ボアは少しして目を開けた。
開けて、自分の前脚を見た。新しい包帯と添え木と、痛みの引いた脚を。それから、柵の外の人間たちを見た。
牙は出なかった。
唸りも戻らなかった。
ボアは人間たちをしばらく眺めて、それから水桶に顔を突っ込んだ。三日ぶりの水を、音を立てて飲んだ。
「……襲ってこないのね」
セナが小さく言った。
「糸はもう、解けてるのよね。命令も消えてるのよね。なのに、なんで」
「分からない」
「分からないの?」
「命令された側が、どう感じてるのかは……聞いたこと、ない」
自分で言って、リオは自分の言葉に遅れて冷えた。
強引に通した糸の向こうで、あの三呼吸の間にボアが何を感じていたのか。怖かったのか楽になったのか、何も感じる暇がなかったのか。
聞けば、分かる。聞いたことが、一度もなかった。
セナはしばらく何も書かなかった。
書かない時間の長さが、この項目の重さだった。
やがて短く書いた。
強制、可。三呼吸。本人は使わないと決めている。理由、縁は相手に選ばせるものだから。
最後の一行を書く時だけ、ペンが少し柔らかく動いた。
◇
帰り支度の頃には日が落ちかけていた。
ボアの柵の前に餌皿を置くと、今度は人間が三歩下がっただけで食べ始めた。ミラが「上々よ」と言った。
セナは厩舎の長椅子で、帳面を最初からめくり返していた。
「……まとめるわよ。全部で、九頁。言葉が分かる。大型が三十呼吸。敵意の塊に三呼吸。糸なしで獣が寄る体質。解いても縁が残る。強制が利く。……それで、できないことは教本と同じ。人間、対話不能、一度に一体」
「ああ」
「結論。あなたのそれは、学園で教えてるテイム術と、たぶん別のものよ。少なくとも、同じ教本の上にはない」
「……別の、何だ」
「分からない。分からないけど」
セナはペンを回して、仮説の頁を開いた。
「一つだけ、考えたことがある。……普通の糸が何本も張れるのは、細いからよ。あなたの糸が一本しか張れないのは、太すぎるから。それで、糸っていうのは、使い込んだ形に育つものなの。うちの子たちの糸も、三年で役目の形になった」
「うん」
「だからね。あなたの糸は、よほど大きなものと、一度だけ結んだことがあるんじゃないかって思うの。糸が、その形のまま戻らなくなるくらい、大きな何かと」
リオは、答えなかった。
答えられなかった。
頭の隅を、夏の午後がよぎった。池のほとり。水音。ちゃぷ、と水面を叩く音。この夏に返してもらった、一つきりの記憶。
あの池には、何かがいた。
何かと、遊んでいた。
「……覚えてない」
それが、精一杯だった。
「そう。……まあ、仮説の欄だから」
セナはそれ以上押さなかった。
押さない代わりに、帳面の仮説の頁を縦にゆっくり破った。
リオが目を丸くした。
「……破るのか」
「これだけじゃないわ」
セナは九頁全部を、綴じ目から順に破っていった。言葉の頁も三十呼吸の頁も、強制の頁も。破った紙を重ねて四つに畳み、ミラに差し出した。
「燃やしてください。厩舎の竈で」
「いいの? 今日一日の成果でしょう」
「成果だから、残さないんです」
セナはリオを見た。
「この帳面が誰かに読まれたら、あなた、国に連れて行かれるわよ。どこの国でもいい、どこかの国に。……数字っていうのは、そういう力があるの。だから、測った結果は、ここに置いていく」
自分の頭を、指で一度つついた。
「ここなら、誰にも読めないもの」
ミラが紙の束を受け取って、竈の方へ歩いていった。歩きながら、聞こえるか聞こえないかの声で「いい友達ね」と言った。
◇
帰り道は、南門までの長い坂だった。
夕焼けが王都の屋根を順に赤くしていた。あかりがポケットから顔を出して、夕日と自分の光を見比べていた。
「ねえ」
坂の途中で、セナが言った。
「最後に、一つだけ約束して」
「……内容による」
「この力のことで、何かあったら。誰かに知られたとか、誰かに狙われたとか、自分でも分からないことが起きたとか。……必ず、私にも言うこと」
セナは前を向いたまま言った。
「一人で抱えるのは、なし。今日から、私は知ってる側なんだから」
リオは少し考えた。
知ってる側。
グラントと、窓口のみんなと、それから何人かの夜の側の人たち。知ってる側は今まで全員、夜の側にいた。
昼の側に、初めて一人できた。
「……分かった」
「よろしい」
セナは頷いて、それから思い出したように付け足した。
「あと、もう一つ。今度の休みも、空けておいて」
「……また測るのか」
「違うわよ」
セナは先に坂を下りて行った。下りながら、振り向かずに言った。
「今日のは、測る日。今度のは、ただの休み」
夕日で、耳が赤く見えた。
夕日の、せいかもしれなかった。
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三話にお付き合いいただき、ありがとうございました。
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