第49話 狩らずに待つ男(後編)
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第49話の後編です。
学園祭の二日目、講堂は満席だった。
去年と同じで、来賓は二日目に来る。前の三列は招かれた客の席で、その後ろに生徒と家族が詰めていた。
客席の真ん中あたりに、セナの母がいた。隣にロディスが腕を組んで座っている。荷を一日空けてきたらしい。その二列後ろに一年のノアがいて、落ち着かない顔で舞台の袖を見ていた。ゼルは今、舞台の裏にいる。
左の壁際に、魔法科の令嬢が一人。取り巻きは廊下に置いてきたらしく、扇子だけを持って座っていた。
そして最後列の端に、二人。
白い手袋の司書と、黒い衣装の長い髪の女。
二人は何も話さずに座っていた。古い友達というのは、そういうものらしかった。
舞台袖の暗がりで、リオは幕引きの紐を握っていた。
足元に、裏の半分がいた。ゴウが板に甲羅を付け、ノルが一番奥で目を光らせ、ユキが冷たい空気を出していた。舞台の熱がこちらまで来ないようにしているらしい。
そして袖の一番前に、ゼルがいた。
出番は最後の場面だけだ。それまでは袖で待つ。ノアからは「本番の間、先輩のそばに置いてやってください。先輩の横だと、あいつは落ち着くので」と頼まれていた。ブレイドラプトルは刃の爪を畳んで伏せ、舞台の方を見ていた。
ネイトの太鼓が鳴った。
幕が上がった。引いたのはリオだった。
◇
板の山があり、山の陰に獣がいて、舞台の真ん中に男が一人立っていた。
カイルは台詞を十行しゃべった。
委員長が四十から削った十行だった。槍も杖も持たずに山へ来た理由。狩る気はないということ。共に住みたいということ。十行で全部言えた。四十要らなかったことが、客席に伝わった。
トトが舞台の端で獣の名前を読み上げた。鈴尾鼬、苔背亀、綿羽鳥。図鑑ノートの持ち主には、適役だった。
そしてカイルが、森の入口に座った。
三日三晩の場面だった。
台詞はない。
カイルは座って、黙った。
十秒。二十秒。客席がざわつき始める。三十秒。
客席のざわつきが、消えた。
舞台の上で、声の一番大きい男が黙って座っている。それだけで、待っているように見えた。稽古の五日目にやっと三十秒持った男が、本番では一分持った。
セナが、舞台の下で鈴を一つ鳴らした。
十二匹が、山の陰から降りてきた。
六匹が舞台の上を歩いて、カイルの周りに座った。六匹は袖の暗がりへ入って、リオの足元に丸くなった。客席から見えるのは表の六匹だけだ。
男の周りに、獣がいる。
絵になっていた。
最後列で黒い衣装の女が膝の上で指を組み直したのが、袖からでも分かった。
◇
川の場面が来た。
テッサが舞台の端で筒を構えた。
光の川の仕掛けは、筒を三本繋いだ一本の通り道だ。光が一本目から二本目、三本目と通り抜けて、先へ行くほど遠くまで伸びる。稽古の最後には七列目まで届いていた。本番は最後列まで届かせると言い張って、テッサは昨夜、三本目の出力を上げてきていた。
一本目が光った。
二本目が光った。光が舞台の縁から客席の上へ伸びて、五列目、七列目、十列目。
三本目が、弾けた。
上げた出力に、繋ぎ目が耐えられなかったらしい。
音が先だった。乾いた、大きな音。それから閃光。講堂の天井まで白く染めて、一瞬で消えた。
稽古では一度も出なかった、音と光だった。
舞台の上の六匹が、一斉に走った。
全部、袖へ。リオのいる暗がりへ雪崩れ込んできた。フワが胸に飛び込み、鈴尾鼬が二匹、足の間に潜り、耳長が背中に回った。ユキが袖の空気を一気に冷やした。裏にいた六匹と合わせて、十二匹が袖の暗がりで一つの塊になった。
舞台の上には、座ったカイルだけが残った。
客席がざわついた。前列で誰かが立ち上がる音がした。
袖の入口から、セナが滑り込んできた。
「みんな、無事ね」
声は落ち着いていた。落ち着いた声のまま片膝をついて、震えている十二匹を順に見た。
「怖かったわね。もう鳴らないわ。テッサが筒を止めたもの」
舞台の端で、テッサが三本目の筒を抱えて涙目で頷いていた。
「聞いて。あなたたちの役は、まだ終わってないの。山に戻って、あの人のところへ降りるところから、やり直すのよ。……できるわね?」
鈴が、手の中で小さく鳴った。
十二匹の震えが、順に止まっていく。
リオは袖の床に座ったまま、何もしなかった。何もしない人間が隣にいるだけで、獣の息は早く戻る。今日の裏方の仕事は、最初からそれだった。
フワが、最初に出た。
袖から舞台へぽてぽてと歩いて、板の山を登った。鈴尾鼬が続いた。耳長が、ユキが、ゴウが続いた。十二匹が一匹ずつ山に登り、山から降りて、黙って座っている男の周りに集まっていく。
客席から見れば、逃げた獣たちが、自分から戻ってきたのだった。
カイルが、口を開いた。
「……驚かせた」
台本にない声だった。
「悪かった。……もう一回、待つ」
そして、黙った。
閃光の間も獣が走った間も、この男は一度も立ち上がらなかった。台詞を全部忘れた顔で、それでも座っていた。
客席の誰も、動かなかった。
◇
袖に、一頭だけ残っていた。
ゼルだった。
伏せていた体を起こし、刃の爪を開いて、閃光の出た舞台の端を睨んだまま動かない。首の飾り羽が立っていた。群れの見張り役の体だった。音の出た場所を警戒して、群れと危険の間に立とうとする体だ。
だが、この講堂にゼルの群れはいない。ノアは客席で、ここからでは届かない。
セナが鈴を握ったまま、首を横に振った。
「駄目。この子には私の鈴は通じないわ」
テイムはできない。ノアの契約がある。契約の上書きは、誰にもできない。
だが、触れるだけの糸なら、通る。
リオは紐を置いて、細い糸を一本伸ばした。
――大丈夫だ。音は、もう鳴らない。
ゼルの首の羽が、ゆっくりと寝た。
――行ってこい。お前の出番だ。
ゼルが、爪を畳んだ。
畳んで、袖を出た。舞台を横切り、座っている男の正面まで歩いて、そこで伏せた。
男の前に、獣が伏せた。
建国譚の、一番大事な場面だった。
最初の拍手は、客席の真ん中からだった。セナの母だった。次にロディス。次に一年生の一団。次に、講堂全部。
誰もが、全部を演出だと思っていた。
閃光も、獣が逃げたのも、自分から戻ってきたのも、最後の一頭が伏せたのも。
リオは糸を戻して、紐を握り直した。
拍手の中で、舞台の端ではテッサがずっとしゃがみ込んでいた。
弾けた三本目の筒を外して、繋ぎ直していた。川の場面は途中で終わったままだ。修理屋の娘は、舞台がどれだけ進んでも、自分の場面を諦めていなかった。
繋ぎ直して、最後に一度、筒の尻を蹴った。
実家の修理屋の、仕上げの流儀だった。
光が、出た。
一本目を通り、二本目を通り、直したばかりの三本目を抜けて、客席の上を渡った。十列目、十五列目、最後列。稽古で一度も届かなかった、最後列まで。
最後列の端に座った黒い衣装の女の、頭の上で止まった。
女は光を見上げなかった。
舞台袖の暗がりの、紐を握る手を見ていた。
◇
男が老いる場面で、客席は笑った。
カイルの老け方が下手だった。腰の曲げ方が大げさで、歩き方が老人ではなく腹痛の人だった。笑いながら、それでも客席は静かになっていった。山の上の十二匹が一匹ずつ降りてきて、老いた男の周りに座っていったからだ。
ゼルは最初から、男の前に伏せていた。
ネイトの太鼓が一つ、止まった。
男が、横になった。
リオは紐を握り直した。
幕引きは待つ仕事だと、あの人は言った。意味は今日分かった。下ろすのが一呼吸早ければ、客の息を断ち切る。遅ければ、余韻が間延びして死ぬ。この劇がどこで終わるかを決めるのは、舞台の上の誰でもなく、袖の暗がりで紐を持っている人間だった。
太鼓の残りが講堂から消えるのを待って、三つ数えた。
引いた。
幕が、下りた。
拍手は、幕が下りてから来た。
◇
舞台裏は、混乱していた。
カイルが床に座り込んで「台詞、全部飛んだ」と三回言い、テッサが三本目の筒を抱えて「壊れてない! 壊れてないから!」と誰にともなく主張し、セナが十二匹を一匹ずつ数えていた。
「……十二。全部いる」
「いる」
「本番で袖に走られたのは、初めてよ。……全員、自分の足で戻ったけど」
「偉かった」
「偉かったわね」
セナはフワを抱き上げて、それから袖の暗がりを見た。
「ゼルは」
「ノアが連れて帰った」
「……あの子、鈴も合図もなしに出ていったわね」
「偉いな」
「…………そういうことにしておくわ」
セナはしばらくリオを見て、それ以上聞かなかった。
クラリスは、舞台袖の壁に背中を付けて立っていた。台本を胸に抱えて。
「……台本と、違いました」
「違いました」
「閃光も、山も、獣が伏せるのも……書いていません」
「書いてなかったです」
「でも」
クラリスは台本を抱えたまま、目をこすった。
「書いたものより、良かったです」
それだけ言って、しばらく泣いていた。委員長は、泣くのも正しい姿勢で泣いた。
◇
講堂の外で、黒い衣装の女が待っていた。
隣に白い手袋の司書。二人の前にクラリスとエリアナが並んで立ち、背筋を伸ばしていた。
「良い舞台だったわ」
シェラが言った。
「三本目の筒が弾けたところから、特にね。……あれ、演出?」
「……い、いえ」
「そうでしょうね。だから良かったのよ」
シェラは二人の令嬢を順に見た。
「うちの舞台、今度は裏から観にいらっしゃい。表から観るのとは別のものよ。……荷運びの子が案内するわ」
「しません」
後ろから、リオが言った。
「あら。じゃあ私が案内するわ。荷運びの子も付き合いなさい」
「…………」
クラリスが息を吸った。
「あの、リュート様。本当に……裏から」
「本当に」
「アルクスさんが、案内を」
「荷運びですもの」
エリアナは扇子を開いた。
開いて口元を隠し、リオを見た。
「……荷運び、ね」
その一言だけだった。
シェラは二人に手を振って、司書と並んで門の方へ歩いていった。
歩きながら、すれ違いざまにリオの耳元で言った。
「――最後の一頭、あなたの糸でしょ」
「……見えるんですか」
「見えないわよ。あの子だけ、誰の合図もなしに出ていったもの。そういうのは、だいたいあなた」
「……一本だけです」
「一本で済ませたのが上手いのよ。舞台ではね、手数の少ない裏方が一番良い裏方なの」
それだけ言って、行ってしまった。
白紙先生は、門の前で一度だけ振り返った。
「――今年は、静かでしたね」
「……はい」
静かだった。閃光と逃げた獣と伏せたゼルと、最後列まで届いた光の川を除けば。
教室に戻ると、クラリスがもう黒板の前に立っていた。
「来年の出し物は、劇です」
「えー!」
「決まりました」
委員長が、机を叩いた。
今度は少し大きな音だった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
二話にお付き合いいただき、ありがとうございました。
【登場人物メモ】
ノア・ヴェルナー……一年のテイム術科。相棒はブレイドラプトルのゼル(第40話)。
ロディス・ラティス……セナの兄。獣付き運送屋(第47話)。
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