第48話 祭りの客席(後編)
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第48話の後編です。
最前列は、砂の匂いがした。
大演習場の柵のすぐ内側。去年、リオはこの柵の向こう側にいた。覆面の下でゼノの背に乗り、三万人を背中に感じていた。今年はその三万人の一番前に座っている。
柵に手を掛けると、砂が指についた。
「……近いわね」
セナが言った。
「竜が降りてきたら、砂がかかる距離よ」
「かかる」
「経験者みたいに言わないで」
言葉に詰まった。
六人が並んだ。左からカイル、テッサ、セナ、リオ、クラリス、エリアナ。護衛たちは最前列の券がないので、五列後ろで背伸びをしていた。
あかりがポケットの縁に両手を掛けて、演習場を覗いた。
「ひのわ」
「もう少しだ」
「もうすこし」
演習場の真ん中に、火の輪が三つ立っていた。去年と同じ高さで、去年と同じ間隔だった。
太鼓が二つ目を打った。
竜舎の大扉が開いた。
◇
十二頭が、順に空へ上がった。
一頭ずつ、乗り手を背に乗せて。手綱はない。合図だけで飛ぶのがアルバ竜技団の様式で、乗り手は膝と声と手のひらだけで竜に伝える。
群れの長が最初だった。
ゼノ。その背に、白髭の老人。マキアス翁は五十年、この竜の背に乗っている。座長が自分で飛ぶのは、開幕の一頭目と決まっていた。
去年、この老人は客席で自分の相棒を見上げていた。
今年は自分で乗っている。
ゼノが一度、演習場の上を大きく回った。翼の風が最前列まで降りてきて、セナの髪が舞いエリアナの扇子が閉じた。
「――大きい」
クラリスが息を止めて言った。
「本で読んだのと、全然……」
十二頭が空に並んだ。
舞が始まった。
十二頭が輪になり、輪が解けて二列になって交差した。交差の瞬間、翼の先が触れそうで触れない。乗り手たちの合図は客席からは見えない。見えないから、竜が自分で舞っているように見える。
去年と同じだった。
去年と違うのは、背中に人がいることだった。
「……去年の方が、すごかったよなあ」
後ろの席から声がした。
去年も観た客らしい。隣の連れに、大きな声で言っている。
「去年は乗り手がいなかっただろ。竜だけで飛んでた。あれは伝説だったよ。今年は普通だ」
リオは振り向かなかった。
振り向かずに、小さく言った。
「今年の方がいい」
セナが聞いた。
「どうして」
「乗ってる人がいる」
「去年もいたでしょう。覆面の人が、一人」
「一人だ。今年は十二人」
リオは空を指した。
「一頭に一人。毎日世話をして、毎朝鱗を拭いて、その人の合図であの子たちは飛んでる。去年のは、一人が十二頭を飛ばした。……今年のは、十二組が飛んでる」
セナはしばらくリオの横顔を見て、空へ目を移した。
十二頭の背に、十二人。合図は見えない。見えないが、竜が翼を切るたびに、背中の人間の膝が同じ向きに動いていた。
「……そうね。十二組の方が、いいわ」
十二頭が火の輪を抜けた。
一頭ずつ間を置かず、輪の炎を翼でかき混ぜて。
三万人が沸いた。
そして、太鼓が三つ目を打った。
竜舎の大扉が、もう一度開いた。
◇
墨色の竜が出てきた。
十二頭より一回り小さい。鱗は黒に近い墨色で、日を受けると青く光る。その背に、日に焼けた若い乗り手がいた。
ユーゴだった。
鞍を握る手が、ここからでも白いのが分かった。
「……十三頭目?」
カイルが言った。
「去年、十二頭だったよな。一頭増えた」
「若いのが飛ぶ、って」
リオは言った。
「そう聞いた」
ノワールが、空へ上がった。
上がり方はよかった。翼の打ち方に無駄がなく、風を殴っていなかった。風の向きを一度確かめてから、その上に乗った。あの秋の空で覚えたことを、この子はまだ覚えていた。
十二頭が輪を作った。
輪の真ん中を、ノワールが飛ぶ。若い一頭を、十二頭が囲んで見せる舞だった。翁が組んだ演目らしい。長の群れの真ん中で、一番若いのが飛ぶ。
ノワールが輪の中で一度、二度と旋回した。
三万人の目が墨色の一頭に集まっていた。
火の輪が、近づいた。
ノワールは輪の真ん中から抜けて、火の輪へまっすぐ向かった。
そこで、力んだ。
最前列から見えた。翼の打ち方が変わった。風に乗るのをやめて、風を殴った。三万人の目に押されたのか、乗り手の白い手が固すぎたのか。どちらでもよかった。
墨色の体が、右に流れた。
火の輪の、右の縁へ。
リオの手が、柵を握った。
糸を伸ばせば、届く。ここからあの子まで、触れるだけの糸なら一息で届く。届いて左だと一言だけ言えば、あの子は左に切る。去年の秋の空で、そうやって何度も直した。
伸ばさなかった。
伸ばせば、あの子の初舞台がリオの舞になる。ユーゴの舞でも、ノワールの舞でもなく。
柵を握る手に、力が入った。
入って、口が勝手に開いた。
「――左だ!」
叫んでいた。
三万人の歓声の中で、届くはずのない声だった。糸ではなく、ただの声。
「左に切れ! いけ! いけぇ!」
セナが目を丸くしてリオを見た。カイルも、テッサも。
この男が声を張ったところを、三人とも見たことがなかった。
セナは驚いた顔のまま、リオの柵を握る手を見た。
見て、何も言わなかった。
右に流れたノワールの下に、影が入った。
ゼノだった。
群れの長が輪を離れて、若い一頭の右下に滑り込んだ。滑り込んで、翼を一度大きく打った。
風が、下から上がった。
右へ流れる体を、下からの風が押し上げた。押し上げて、輪の中心の方へ戻す風。長が、若いのに風を作ってやったのだった。
ノワールが、その風を感じた。
感じて、一瞬翼を止めた。
乗るか。
リオは息を止めた。
ゼノの風に乗れば、火の輪は抜けられる。長の風に乗って抜ける。それで舞は成立する。誰も文句は言わない。
ノワールは、乗らなかった。
翼を、左に切った。
ゼノの風の外へ、自分で。切って体を一度大きく傾け、傾けたまま風を掴んで――火の輪の真ん中へまっすぐに戻した。
自分の風で。
墨色の体が、炎を抜けた。
翼の先が炎をかき混ぜて、火の粉が最前列まで降ってきた。あかりがポケットから飛び出しかけて、リオが帽子を押さえた。
一呼吸の間、演習場は静かだった。
それから、三万人が立ち上がった。
地鳴りだった。朝の劇の拍手より大きかった。カイルが柵を叩いて叫んでいた。テッサが両手を上げていた。クラリスが両手で口を押さえていた。エリアナの扇子が開いたまま止まっていた。
セナは、立ち上がらなかった。
座ったまま、リオの手を見ていた。
柵を握っていた手が、いつの間にか開いていた。
「……開いたわね」
「何が」
「手」
リオは自分の手を見た。
開いていた。
空の上でユーゴが鞍から手を離して、両手で顔を覆っていた。ノワールはそれを気にせず、火の輪の向こうで大きく一つ旋回した。
◇
舞は終わりのはずだった。
十二頭が竜舎の方へ降りていく。翁のゼノが先頭で、順に高度を下げていく。
ノワールだけが、降りなかった。
降りずに、客席の方へ向きを変えた。
「……お、おい」
ユーゴの声が空から降ってきた。合図を出しているらしい。降りろ、と。
ノワールは聞かなかった。
客席の上を低く一周した。三万人の頭の上を、翼の風を降らせながら。悲鳴と歓声が同時に上がった。
そして最前列の真上で止まった。
空中で翼を打って、止まった。真下に、六人がいた。
ノワールが、鳴いた。
一声。長く、高く。
去年ゼノが宿舎に向かって鳴いた、あの鳴き方だった。
三万人が、また沸いた。
「新演出だ!」
「客席への挨拶だ! 去年もあった!」
「毎年やるのか、これ!」
ノワールは一声だけ鳴いて、それから素直に竜舎の方へ降りていった。ユーゴが空で頭を抱えているのが見えた。
最前列で、セナが空を見上げたまま言った。
「……ねえ」
「なんだ」
「あの竜、あなたを見てなかった?」
「気のせいだ」
「真上で止まったわ」
「ここには六人いる」
「…………」
セナはそれ以上言わなかった。
「俺を見てた!」
カイルが叫んだ。
「絶対俺を見てた! 目が合ったもん!」
「合ってないわよ」
「合った!」
テッサが笑いを堪えて肩を震わせていた。堪えきれていなかった。
反対側で、エリアナの扇子が一度だけ動いた。
クラリスは、何も言わずに前を向いていた。前を向いたまま、口元だけが少し笑っていた。
二人とも、何も言わなかった。
あかりがポケットから顔を出した。
「ひのわ、きれい」
「ああ」
「あのこ、じぶんで、とんだ」
「……ああ」
演習場の砂の上に、火の粉がまだ落ちていた。
◇
竜舎の裏口の前で、翁が待っていた。
白髭に火の粉の焦げ跡がついていた。
「……最後のは、演出じゃねえ」
「そうですか」
「若いのが勝手にやった。乗り手が顔を真っ青にして謝ってきた。……止めなかったのは、俺だ」
翁は鼻を鳴らした。
「三万人の前で、自分の風で火の輪を抜けた竜だ。一声くらい、好きに鳴かせてやれ」
「はい」
「客席で観て、どうだった」
リオは少し考えた。
「……今年の方が、いいです」
「そうか」
翁はそれだけ言って、手を上げた。
上げて、竜舎の中へ戻っていった。
瓦版屋がその背中とリオの顔を交互に見ていた。
見て、諦めた顔で帳面を閉じた。
◇
眠り鹿の宿に帰り着いたのは、日が落ちてからだった。
一階の食堂で、マルタがカウンターを拭いていた。
「おかえり」
「ただいま」
「ちゃんと帰ってきたわね」
「はい」
「何もこぼさなかった?」
「……何も」
マルタは笑って、皿を出した。
スープだった。温め直した匂いがした。
「食べて、観て、帰ってきた。それでいいのよ」
リオは皿の前に座った。
座って、ポケットのあかりを机の上に出した。あかりは燭台の隣に座って、赤い帽子を直した。
「あのこ、じぶんで、とんだ」
もう一度、言った。
「ああ」
リオはスープを飲んだ。
帳面には、今日は何も載らない。
載らない日が、一年に一度くらいはあっていい。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
三話にお付き合いいただき、ありがとうございました。
【登場人物メモ】
ノワール……アルバ竜技団の若い黒飛竜。ゼノの空の弟子(第35話)。
ゼノ……アルバ竜技団の群れの長。翁と五十年の相棒(第20話)。
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