第47話 水の音 〜ラティス家の朝〜
お読みいただきありがとうございます。
新しいお話です。今回は一話完結、セナの家の話です。
秋の初めの朝だった。
窓の白花樹はまだ緑で、朝の風だけが先に冷たくなっていた。ヴァンスとダリオの席が空いて二週間。教室はもう、二つの空席に慣れていた。
その朝、セナが遅刻した。
鐘の三つ目が鳴り終わってから教室に入ってきて、席に着いて、それきり黙った。襟が曲がっていた。人の襟を毎朝直す人の襟が曲がっているのを、リオは初めて見た。
「……珍しいな」
「何が」
「セナが遅刻」
「……起きられなかったのよ。夜中まで帳面を見てて」
セナは机に肘をついて、それから膝の上のフワを撫でた。撫でる手が速かった。フワが迷惑そうに丸くなり直した。
「セナ、どうした。腹減ってんのか」
後ろからカイルが顔を出した。
「減ってないわ」
「じゃあ寝不足か。俺も昨日、稽古の後で――」
「ゴウが、仕事をしないの」
カイルの話が途中で止まった。
「ゴウって、亀の」
「苔背亀のゴウ。うちの、留守番と振動探知の」
セナは順番に説明を始めた。理由から順に、いつもの言い方で。
三日前から呼んでも来るのが遅い。庭の水場に頭を入れたまま、半刻も動かない。昨日の演習で、人の足音を三回拾い損ねた。
「三回よ。……ゴウが拾い損ねたことなんて、今まで一度もなかった。霧の山でも、坑道の実習でも。あの子は一番遅くて、一番外さない子だったの」
「病気か?」
「分からない。餌は食べてる。甲羅の色も普通。……糸からは、何か引っかかってるのは伝わってくるの。不満っていうか、もやもやしてるっていうか。でも、何にかは分からない。糸は気持ちは伝わるけど、言葉じゃないから」
リオは机に伏せたまま聞いていた。
契約の糸は、気持ちを伝える。痛い、怖い、嬉しい、嫌だ。それが何に対してかまでは、教えてくれない。それを言葉の近くまで持ってこられるのは、リオの触れ糸くらいだった。セナは糸を十二本持っていて、その十二本のどれも、そこまでは届かない。
伏せたまま、ゴウの水場の絵を思い出していた。あの家の庭の隅の、浅い石の水場。甲羅を干すのにちょうどいい深さで、潜るには足りない。
「ミラさんに、見せに行くわ。今日の放課後」
セナは自分で決めて、自分で頷いた。
それから襟に手をやって、曲がっているのに気づいて直した。
◇
第十三厩舎の診察台の上で、ゴウは籠から出されても動かなかった。
甲羅の直径は、セナの両手で囲えるくらい。背中一面に深い緑の苔が生えていて、その苔が手入れの証だった。乾かしすぎず湿らせすぎず、三年かけて育てた苔だ。
ミラは甲羅に手を当て、目と口と足の裏を診て、それから手をかざしてしばらく目を閉じた。
「……どこも悪くない」
「本当に」
「本当に。腹の中もきれい。目も澄んでる。亀は長生きよ。歳でもない」
「じゃあ、どうして」
「それは私の分野じゃないわ」
ミラは手を下ろした。
「体はうちの分野。それ以外は、テイマーの分野。……あなたの分野よ、セナ」
セナは鞄から帳面を出した。十二匹分の世話の記録だ。ゴウの頁を開いて、この十日分を指でなぞる。餌、水、苔の湿り、甲羅の艶、機嫌。全部の欄に丸が並んでいた。
「全部、いつも通りなんです。……糸で聞いても、もやもやしてる、しか返ってこなくて。何がって聞くと、そこで途切れるんです」
「糸はそういうものよ。うちの五十一本だって、痛いのはどこかまでは教えてくれない。どこが痛いかは、こっちが触って探すの」
ミラは帳面を指で軽く叩いた。
「帳面に載らないものも、あるわよ」
「……載らないもの」
「載らないから、困るんでしょう」
ミラはそれ以上言わずに、診察台の上のゴウの頭を指で一度なでて、籠に戻した。
◇
その夜、ラティス家の食卓で、セナは帳面を開いたまま食べていた。
「セナ。ご飯の時は閉じなさい」
「はい」
閉じて、一口食べて、また開いた。
母は「はいはい」と言って、それ以上は言わなかった。
戸口が開いて、ロディスが帰ってきた。北の街道から三日ぶりで、革の上着に埃が積もっている。ゼグは獣舎に入れてきたらしい。
「ただいま。……なんだ、その顔」
「ゴウが仕事をしないの」
「聞いた。母さんから」
ロディスは上着を脱いで、それから庭に出た。セナもついていった。
庭の隅の水場に、ゴウはいた。
浅い石の水場に、甲羅の半分まで浸かって、頭を水の中に入れている。動かない。月明かりで、甲羅の苔が黒く見えた。
ロディスは腕を組んで、しばらくそれを見ていた。
運送屋の目だった。荷獣を毎日見る人間の、荷獣を見る時の目。
「セナ。うちの荷獣は、十日に一日、荷を外す」
「知ってるわ」
「お前の亀は、最後に荷を外したのはいつだ」
「……毎日、餌の後は自由にしてる」
「庭の中でな」
セナが黙った。
「働けない獣は、休ませるか、譲るかだ。運送屋じゃそう決まってる。荷を引けない荷獣を、引けるふりで繋いでおく方が、獣にはきつい」
「譲る」
セナの声が低くなった。
それから、一気に高くなった。
「譲るって、誰に。ゴウは三年うちにいるのよ。振動探知は私が一から教えたの。地面の震えと水の音を分ける教え方なんて本にも載ってないから、庭で毎日、水場の横に座って教えたの。あの子の苔も私が育てた。譲るなら苔ごと譲るの? 苔は水と日当たりで色が変わるのよ、そんなの引き取った先で誰が――」
止まらなかった。
ロディスは腕を組んだまま、終わるのを待っていた。初めてリオがこの家に来た日の、縁側と同じ姿勢だった。母が戸口から「はいはい」と言った。
セナの息が切れた。
切れたところで、ロディスが口を開いた。
「……休ませる方だ。言ってるのは」
「え」
「譲れとは言ってない。二つ並べただけだ。お前が勝手に後ろの方に噛みついた」
セナは言い返す言葉を三つまで数えて、どれも使えないと分かって黙った。
「休ませろ。荷を外して、荷の掛からない場所に置け。……それがどこかは、俺には分からん。俺は荷獣の主人で、亀の主人じゃない」
ロディスはそう言って、家に入っていった。
庭に、セナとゴウが残った。
水場のゴウは、まだ頭を水に入れたままだった。
◇
「見てほしいの。見て、思ったことを言ってくれるだけでいい」
翌日の昼、セナはそう言ってリオに頭を下げた。
ノルの時と同じ頼み方だった。あの時よりも、頭を下げる角度が深かった。
「……週末なら」
「ありがとう」
カイルは剣術科の合同稽古で終日拘束。「亀だって寝たい日があるんじゃね」と言って、セナに「亀は毎日寝てるわ」と返されていた。
週末、南門を出て街道を半刻。
白い柵の家の門を開けると、庭の奥から小さな影が四つ、五つ走ってきた。鈴尾鼬たちが先陣で、フワがセナの腕から飛び降りて列に加わった。
「あらあら、いらっしゃい」
母屋の戸口で、セナの母がエプロンで手を拭いた。
「リオくん、お昼まだでしょう。先に食べていってね。ゴウのことは、食べてからでいいから」
「……はい」
「あの子は逃げないわ。三日、水場から動いてないもの」
のんびりした声だった。この家で一番慌てていないのは、いつもこの人だった。
ゴウは来なかった。
「……来ないの」
セナが小さく言った。
「あの子、あなたが来ると、一番に走ってきたのよ。亀なのに。……最高速度で」
「ああ」
リオは足元の出迎えを一匹ずつ撫でてから、庭の隅へ歩いた。
水場のゴウは、五日前と同じ姿勢だった。甲羅の半分まで水に浸かって、頭を水に入れている。近づいても上げない。
リオは水場の横にしゃがんだ。
糸を伸ばせば、分かる。触れるだけの糸を一度触れさせれば、この子が今何をしているかは一息で分かる。
伸ばさなかった。
俺が聞けば、俺の答えになる。この子はセナの子で、三年かけてセナが教えた子だ。答えはセナが出すもので、リオが先に出してしまえば、セナは一生この子に自分で聞かなくなる。
だから、見るだけにした。
水面に、頭。甲羅の縁が水面に触れて、時々ごく小さく揺れる。
「……セナ」
「なに」
「あいつ、水場で何してる」
「頭を入れてるだけよ。ずっと」
「何してる」
「だから、頭を……」
セナは言いかけて、リオを見た。
「……聞いてる?」
「たぶん」
「水の中で? 何を」
リオは答えなかった。
答えない代わりに、別のことを聞いた。
「セナが、ゴウに演習でいつも言うこと。……何だっけ」
セナが固まった。
固まって、口を開いて、閉じた。
それから、ゆっくりと言った。
「……水の音は拾わなくていい。地面だけ」
「ああ」
「三年前に、教えたの。この水場で。亀は水の中の音の方が得意だから、地面の震えを覚えさせるのに、水の音を毎回、切らせた。水の音を聞くたびに、地面だけ、って。……そうしないと、振動探知にならないから」
「なった」
「なったわ。学年で一番」
セナは水場を見た。
水に入れたままの、ゴウの頭を。
「……私、ずっと言ってたのね。水の音は拾うな、って。三年。この子が一番得意なことを、毎日」
リオは何も言わなかった。
言うことは、もうなかった。
セナはしばらく水場を見てから、立ち上がった。
「兄さん」
獣舎の方へ、声を張った。
「街道で、荷獣に水を飲ませる場所。深いところ、知ってる?」
獣舎から、ロディスの声が返った。
「二つ目の橋の下だ。淵になってる」
「連れて行って」
「荷車を出す」
兄は妹に、理由を一つも聞かなかった。
◇
荷車は街道を南へ下った。
御者台にロディス。荷獣は角の丸い二頭で、この家の一番古い組らしい。荷台にはセナと、籠に入ったゴウと、リオ。
ゴウは籠の中で、甲羅の裏を荷台の板に付けていた。
「……車輪の音を、聞いてる」
セナが言った。
「地面の震えを聞く姿勢よ。私が教えた姿勢」
「ああ」
「あの子、教えたことは、全部やるの。ずっと」
それきりセナは黙った。
二つ目の橋は、街道が川を渡る石の橋だった。橋の下手で川が大きく曲がり、曲がった内側の水が深く澱んでいる。緑色に見えるほど深い。荷獣がここで水を飲むのは、流れがゆるくて足を取られないからだとロディスが言った。
ロディスは荷獣を外して水際へ連れて行った。
セナは籠を抱えて、淵の岸に下りた。
岸の石にゴウを置く。
置いて、手を離す。離しかけて、止まった。
手が甲羅の上で止まっていた。
三年育てた苔の上に。
「……セナ」
「分かってる」
セナの声が震えていた。
「分かってるわ。……戻ってこなかったら、それでいい。この子が水の方がいいなら、それでいい。私が決めることじゃない。この子が決めることよ。あなたがいつも言ってる通り。縁は、相手が選ぶ。……分かってる」
自分に言い聞かせている声だった。
手は、まだ甲羅の上にあった。
リオは黙っていた。
ロディスも黙って荷獣に水を飲ませていた。こちらを見ていない。見ないでいてくれている。
セナは息を吸った。
授業モードの吸い方だった。ただ、出てきたのは授業の声とは違っていた。
「――ゴウ」
甲羅から、手を離した。
「今日は、水の音を拾っていいわ。……地面は、聞かなくていい」
ゴウの頭が、水面から上がった。
三年ぶんの決まり文句の、裏返しだった。
ゴウは首を伸ばして、セナを見た。それから淵を見た。それからもう一度セナを見た。
そして、岸の石から水へ滑り落ちた。
ぽちゃん、と音がして、それきりだった。
緑の水面に、波紋が広がって、消えた。泡も出ない。甲羅の影もすぐに見えなくなった。淵は深く、底は見えなかった。
セナは岸に座り込んで、膝を抱えた。
リオも座った。
糸を伸ばせば、居場所は分かる。あの子が今どこにいて、何を聞いているかも。
伸ばさなかった。
荷獣が二頭とも水を飲み終えた。ロディスは荷獣を木陰に繋いで、自分は御者台に腰掛けて煙草を吸い始めた。煙が川風に流れた。
日が傾いた。
水面は動かなかった。
御者台から、ロディスが煙を吐いて言った。
「アルクス」
「はい」
「お前、探せるんだろう。あの亀」
「探せます」
「探すのか」
「探しません」
ロディスは煙草を口に戻した。
「……そうか」
それきりだった。この家の男たちは、聞くことと聞かないことを、最初から決めているらしかった。
セナは一度も水面から目を離さなかった。抱えた膝の上で手を組んで、その手が時々白くなるまで握られた。
長かった。
リオは眠らなかった。眠れる場面ではなかった。
橋の上を、荷馬車が二台通り過ぎた。橋の影が、淵の半分まで伸びた。
水面が動いた。
淵の真ん中で、緑の水が盛り上がった。
甲羅が出た。
苔が水を含んで、来た時より二段濃い緑になっていた。頭が上がって、岸を探して、岸のセナを見つけた。
ゴウは泳いできた。
亀の泳ぎで、ゆっくり、まっすぐ。岸の石に前足を掛けて、這い上がって、セナの足元まで来た。
来て、甲羅の裏を地面に付けた。
振動を聞く姿勢だった。セナが教えた姿勢。
セナが、甲羅に手を置いた。
濡れた苔の上に。
ゴウは動かなかった。地面に甲羅を付けたまま、頭だけをセナの膝に寄せた。
何かを伝えていた。
水の中で聞いてきた何かを、地面を通して。それがどんなものかはリオには分からなかったし、糸を伸ばせば分かるとしても、伸ばす気はなかった。
セナは長いこと、手を置いていた。
それから、小さく言った。
「……分かったわ」
何が分かったのかは、言わなかった。
言わなくてよかった。
ゴウが頭を上げた。
上げて、岸の濡れた石を見た。次の瞬間、甲羅の苔から水が滲んだ。滲んで、甲羅の周りの石の上に薄く広がった。手のひらほどの、水の膜だった。
ゴウはその膜の上で、もう一度甲羅の裏を地面に付けた。
「……え」
セナが目を見開いた。
「今の、水……。ゴウ、あなた、今、自分で」
膜の向こうで、荷獣が一頭、足を踏み替えた。
ゴウの頭が、その方を向いた。
乾いた石の上ではなく、自分で張った水の膜の上で、荷獣の足音を拾っていた。
「水を、張った……。苔から」
セナの声が震えていた。さっきとは違う震え方だった。
「野生の苔背亀は、水辺でしか振動を拾わないの。水が地面の震えを運ぶから。……だから私は、水なしで拾える子に育てたのに。この子、水の方を、自分で持ってきた」
半日、淵の底で何を聞いてきたのかは分からない。
分からないが、上がってきた時にこの子は、水を連れてきていた。
◇
帰りの荷車は、行きより遅かった。
荷獣が満腹で、御者が急がなかった。
「亀一匹に半日か」
御者台からロディスが言った。
「運送屋の理屈じゃ赤字だ」
「兄さんが連れてきたのよ」
「……ああ」
煙草の煙が後ろへ流れた。
「十日に一度だ。うちの荷獣と同じ」
「……分かってる」
「分かってるなら、いい」
荷台の隅で、リオは籠に背中を預けて寝ていた。
行きは眠れなかった分を、帰りに取り戻している。セナは起こさなかった。
籠の中のゴウは、甲羅の裏を荷台の板に付けていた。
車輪の音を聞いていた。
聞きながら時々、首を伸ばして川の方を見た。
◇
翌週の演習で、ゴウは足音を全部拾った。
それだけなら元に戻っただけだが、拾った場所が違った。演習場の隅の水桶に頭を突っ込んで、桶の水を通して、裏門の外を歩く教官の足音まで拾った。裏門は、演習場から柵二つ向こうにある。
「……亀、治ったのか」
柵の外から見ていたカイルが言った。
「治ったんじゃないわ。覚えてきたのよ」
「何を」
「水の音の、使い方」
セナは帳面を開いて、ゴウの頁に新しい欄を一つ足した。
欄の名前は、まだ書いていなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
【登場人物メモ】
ロディス・ラティス……セナの兄。獣付き運送屋の跡取り。相棒は鎧殻熊のゼグ(第5〜6話)。
ミラ・フォルカ……第十三厩舎の主。王都獣医師会の獣医師。
ゴウ……セナの苔背亀。振動探知と留守番の担当(第6話・第9話)。
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