竹千代少年
1549年 11月
霜月も下旬に差し掛かるころ、やや肌寒い風と、遠くに見える富士の山頂に被った白い衣が冬の訪れを伝えている。柔らかな朝日が開け放たれた障子から部屋に差し込み、い草の香りが漂う畳を優しく温めてくれた。
机に視線を移すと、香ばしく焼き上がったワカサギの丸焼き、大根と芋の煮物、そして大根の葉を入れた味噌汁。どれも新鮮な物ばかりだ。美味しそうなご馳走を前に、思わず涎が垂れた。
机の前に座ると同時に、顔の前に山盛りの玄米を盛った茶碗が置かれた。毎日の事だが、やっぱりいつ見ても驚いてしまう。ただ身体が資本のこの時代において、朝餉は一日分のエネルギーになるのだ。たらふく食べねば。
よそってくれたのは、もちろん稲穂さんだ。顔を向けると、ニコッと優しげな笑みを浮かべた。
「関介様、たくさん食べてくださいね」
「ありがと、稲穂さん」
感謝の言葉を口にすると、稲穂さんは早朝の淡い日差しのように微笑んだ。
ふと稲穂さんの茶碗を見ると、いつもよりも明らかに食べる量が少なかった。女性とはいえ、侍女さんたちのお手伝いをして、それなりに体を使う事も多いはずだ。晩まで体が持つのか心配だ。
「稲穂さん、それだけで足りる?」
「ええ、最近体調が優れなくて。ですが、ただの風邪ですので心配はご無用です。季節の移り変わりは、体調を崩しやすいものですから」
気丈に笑ってみせる稲穂さんだが、顔色も悪いように感じる。ここ数日、稲穂さんは体調が優れないでいた。もともと身体が丈夫ではなかった稲穂さんだが、館で働くようになってからは体力も付け、毎日メキメキと働いていた。少し前に働きすぎだよと声を掛けたのだが、恥ずかしい妻を持ったと思われたくないと、真剣な顔の稲穂さんに、それ以上何も言えなかった。
ここは夫として、頼れるところを見せたいのだが。頑張り屋さんな稲穂さんだ、僕から休んでと言っても、素直に聞いてくれるとは思えない。むしろ、心配を掛けたと思って余計に働き詰めてしまうかもしれない。
「そっか、あまり無理しちゃだめだからね」
「分かりました。ふふっ、相変わらず、関介様はお優しいです」
嬉しそうにはにかむ稲穂さんの顔を見て、僕も思わず頬が緩む。部屋の中は、穏やかな陽気に溢れた。
さてご飯を食べようとした時、背後の廊下から、慌ただしい足音が聞こえた。振り返ると、申し訳なさそうな顔をする若い従者と目が合った。従者は部屋に向かって正面に膝をついて座ると、頭を下げて言った。
「関介様、義元様から言伝でございます。何でも、大広間にてお待ちしとの事です」
「ええ、今からご飯にしようと思っていたのになあ」
そう文句を口にし、掴んだ箸を恨めし気に玄米へ突き刺した。稲穂さんは、はしたないですよと諫め、続けて諭すように言った。
「童のように、駄々をこねないでください。関介様、稲穂の事は気にしなくてもよいので、早く義元様の元へ向かってください」
無理やり箸を没収され、ガクッと肩を落とした。稲穂さんに言われては仕方がない。立ち上がり、廊下に出ようとした時、青年があっと口にした。顔を向けると、従者は更に申し訳なさそうに、遠慮がちに言った。
「その、正装で来るようにとの事でして」
正装でとは、一体何が行われるというのか。僕と稲穂さんは、互いに顔を見合わせ、首を傾げるのだった。
大広間に到着すると、想像よりも人の数は多くなかった。上段の間に承芳さんと雪斎さん。降りて横一列に、朝比奈泰能さんや鵜殿長持さんなど、主要な家臣さんたちが数人だけ並んでいた。
そして承芳さんの隣には、意外にも龍坊、もとい龍王丸の姿があった。今年で十一歳になる。承芳さんに似た柔和で優しげな目と、多恵さんに似た綺麗な白い肌、二人の遺伝子をしっかりと受け継いだ端正な顔立ちに成長した。父である承芳さんの隣で、精悍な顔をして正面を向いていた。やや緊張している様にも見えた。
部屋の後ろからこっそり入ったつもりだったが、すぐに承芳さんに見つかってしまった。手招きする承芳さんの近くまで歩み寄る途中、龍王丸とも目が合い、僕がニコッと手を振ると、やや硬い表情で手を振り返した。
「遅かったな関介。寝坊か?」
「違いますよ。というか、僕を呼ぶなら、昨日の内に声を掛けといてくださいよ。そのせいで朝餉が取れなくて、お腹ペコペコですよ」
文句を言うと、承芳さんは笑いながら、すまんすまんと軽く謝った。本当に反省しているのか。
不意に何者かに頭の上を触れられた感触を覚え、その手の行方を辿ると、龍王丸と視線がぶつかった。
「関介、烏帽子がずれてる。それに胸元の結び目も乱れてる。衣の乱れは心の乱れだ、しっかりしなさい」
叱られてしまった。龍王丸は紐を一度解くと、器用に結び直した。二十も離れた子に叱られ、衣類を直してもらうなんて、あまりに恥ずかしすぎる。雪斎さんは呆れてため息をつき、周りの家臣さんたちは苦笑していた。当然承芳さんは、お腹を押さえて爆笑していた。
とんだ羞恥プレイが終わると、僕はただちに列の一番奥に座った。隣に座っている関口親永さんが、声を殺して笑っていた。最初は我慢していたが、笑いすぎですと肩を叩いた。親永さんは目に涙を溜め、申し訳ありませんと謝ったが、口元がぷるぷると震えている。
「他に心が乱れている者はおらぬか? よければ始めるぞ」
雪斎さんが言うと、部屋の中にピンと緊張が張り詰めた。何も聞かされていないけど、一体何が始まるというのだろうか。
室内が静かになったのを確認した雪斎さんは、小さく、だが厳かに入れと口にした。その瞬間、上段の間から見て正面の障子が、勢いよく開け放たれた。そこには、無数の人間が膝をついて待機していた。
先ず初めに部屋へ入ってきたのは、僅か十歳にも満たない少年だった。続いて五、六人の従者と思われる人たちが入ってきた。
全員が腰を下ろしたことを確認し、承芳さんは目の前の少年に向かって、なるべく怖がらせないよう優しい声で言った。
「三河からよく来てくれたな、竹千代。ここは織田の脅威も無い、安全な場所だ。そして、これからは其方の家だ」
あの少年が竹千代くんか。当主である承芳さん、今川義元を前にしても全く動じていない。というより、ぽけーっとしているのか。当主からのありがたい言葉を頂いた竹千代くんは、なんとその場で欠伸をしたのだった。全く隠そうともせず、悪びれる様子も無かった。承芳さんと雪斎さんは、突然の事に目を丸くした。欠伸の声を聞いた背後に座る従者たちは、竹千代くんのまさかの行動に顔を真っ青にした。
室内に何とも言えない、複雑な空気が流れた。誰も何も言えないでいた。竹千代くんだけが、呑気にぽけーっとした顔で、天井のシミを眺めていた。これは、とんだ大物が来たのかもしれないな。
不意に、承芳さんの忍び笑いが聞こえてきた。みんなの視線が集まる。笑い声は段々と大きくなり、最後にはワハハと、畳を叩いて大笑いを始めた。
「竹千代、お前は実に面白い男だ! その度胸、まさに松平の当主に、そして我が嫡男龍王丸を支えるに相応しい! これで今川家は安泰だ」
そう言うと、再び大口を開けて笑った。従者たちも安堵の表情を浮かべている。室内の空気が一変し、穏やかな雰囲気に包まれた。竹千代くんは、最初は何が何だか分かっていないようで辺りをキョロキョロと見渡していたが、承芳さんの笑う顔を見て、にまっとはにかんだ。彼はもしかしたら、今川家を変えてしまうような、とんでもない存在になるかもしれない。将来はきっと、承芳さんの重臣に、そして龍王丸の腹心になるのだろう。
龍王丸は、笑い声で溢れる部屋の中で、ただ一人だけ真剣な表情で竹千代くんの顔を見ていた。まるで、品定めをするかのように、鋭い目の奥が光った。
ふと視線を外に移すと、庭に迷い込んだ一羽のメジロが、伸びた木の枝先にとまっていた。辺りをしきりに見渡すメジロが、どうしてか竹千代くんと重なって見えた。澄んだ大空をようやく見つけたメジロは、小さな身体を目一杯に広げて羽ばたいていった。
ようやく解放されたのは、稲穂さんと別れてから半刻も経ったころだった。空腹が限界を迎え、さっきから腹の音がとまらない。早く美味しいご飯が食べたい。
自室が近付くにつれ、足取りが軽くなる。自室が見えると、思わず頬が緩んだ。部屋の前で一度立ち止まると、緩んだ頬を引き締め、努めて明るい声を上げながら入室した。
「おまたせ、稲穂さん。さあご飯にしよう」
僕が部屋に顔を出した瞬間、びしゃっと液体の跳ねる音が聞こえた。音のした方を見て、僕は目を見開いた。
稲穂さんは机の前で口元を押さえ、すぐ顔の近くには黄色っぽい嘔吐物がこぶし大ほど広がっていた。嘔吐物には溶け切れていない米粒と野菜が混ざっていた。すぐさま彼女のもとに駆け寄ると、優しく背中を撫でた。身体が熱い。
驚いたように顔をこちらに向ける稲穂さん。顔色はそこまで悪くはないようだ。少しだけ安心した。
「稲穂さん、大丈夫!?」
「関介様、これはその。突然気分が悪くなり」
顔を赤らめる稲穂さん。恐らく吐いてしまったのが恥ずかしいのだろう。僕は全く気にしないし、それよりも稲穂さんの体調の方が心配だった。
稲穂さんの背中が小刻みに震えたかと思うと、僅かに聞こえるほどの囁き声で、申し訳ありませんと身体をかがめた。今度は両手いっぱいほどの嘔吐物が、机の上に広がった。彼女の背中をのの字にさする。こうすると楽になると、まさに稲穂さんから教えてもらったのだ。嘔吐物の中に、昨日の魚の身が見えた。消化が上手くできなかったのだろう。今は何も言わず、ただ背中をさすり続けた。
えづきが収まってから、稲穂さんにどこが悪いか、痛いところは無いかと聞くも、彼女は泣くばかりだった。安静にした方がよいと思い、侍女さんを呼び、休める場所へ連れて行ってもらった。
一人残された僕は、食器や手付かずの料理を片付けた。嘔吐物は古紙で拭き取り、丸めて捨てた。遅れてやってきた侍女さんが、慌てて私がやりますと言ったが、丁重に断った。
一人になると心配な気持ちが心の中を支配する。顔を振って深呼吸をした。僕が慌ててどうする。妻が困っている時、助けられるのは夫だけだというのに。自分自身に落ち着けと言い聞かす。
それから僕は、およそ半刻ほど廊下を行ったり来たりするのだった。廊下の床は冷たくて、心臓が止まってしまいそうだった。




