安祥城攻め 終
目を覚まして真っ先に視界へ飛び込んできたのは、出来すぎなまでの真っ青な空だった。爽やかな涼風が頬を叩く。うたた寝から起きたような、心地の良い感覚を覚えた次の瞬間、両頬に激痛が走った。身体を起き上がらせようとしたが上手く力が入らず、代わりに声にならないうめき声をあげた。僕の声に気が付いたのか、今にも泣きそうな喜介くんの顔が目の前に現れた。
「目を覚ましましたか、関介様」
「おはよ、喜介くん。ここは、駿府?」
そう尋ねると、喜介くんは更に心配そうな顔をした。そんなにおかしな質問だっただろうか。
「関介様、ここは安祥城を攻める直前に敷いた陣の中ですよ」
「安祥城……陣の中……そうだ、雪斎さんのとこへ謝りに行かなきゃ!」
急に頭の中がクリアになる。どうやら僕は、完全に寝ぼけていたらしい。頭の中が冴えると途端に、殴られた頬の痛みと、全身の疲労感が一斉に襲ってきた。逃げられない痛みに、身体をよじらせていると、頭の上で喜介くんが控えめに答えた。
「雪斎様なら、既に岡崎城へ向かわれました」
「そっか」
謝るタイミングを失ってしまったな。今回の城攻めは、僕のせいで失敗したんだ。殴られても仕方がない。むしろあの場で、怒りに任せて切り捨てられても、何も文句は言えなかった。僕のせいで、松平家の家臣が一人死んだのだから。
あれだけ激昂した雪斎さんは久しぶりに、いや初めて見たかもしれない。その怒りが僕に向けられたのは、間違いなく今日が初めてだ。それだけ、今日の戦が大事だったという事だ。
「私は、関介様が責められる謂れは無いと思います。関介様が指揮してくださったから、私たちは何とか生きて帰れたのです。本田忠高殿の討ち死には不運でしたが、関介様の指揮が無ければ、もっと多くの味方の兵が死んでいたはずです。あまり己を、責めないでください」
「ありがと、喜介くん。でも、悪いのは全部僕なんだ。戦は、勝たなきゃ駄目なんだよ」
「ですが……」
ようやく身体が言う事を聞いてきた。上半身だけ起こし、喜介くんの口元に人差し指を当てた。喜介くんは、何か喋ろうとした言葉を飲み込んだ。
「僕は元々弱い人間だから、言い訳をするともっと弱くなる気がするんだ。自分は悪くない、あの人が悪いんだって言うのは楽だよ。でも、それを言ってしまうと、弱い人間から一生戻れなくなる。その方が、我慢するよりよっぽど辛いんだ」
喜介くんは何も言わなかった。背後に感じる農兵隊の仲間たちの視線は、温かくて優しかった。
思い切り立ち上がってしまえば、何てことは無かった。頬の痛みも、戦で何も出来なかった悔しさに比べれば、何も感じなかった。澄み切った青空を、白鳥が優雅に舞っていた。
「駿府へ戻ろう。生き残った僕らには、まだ何かできる事があるはずだ。さあ、行こう」
「はいっ!」
農兵隊の声が重なった。僕らは駿府へ戻った。依然、安祥城には織田信広が立て籠もっている。本来なら、今回の戦で信広を捕らえたかった。だがそれは失敗に終わり、竹千代くんも織田の手の中だ。責任の一端は僕にある。でも前を向かなきゃ。前を向くのは、暗闇の中を進むようなものだけど、光は暗闇の先にしかないのだから。
駿府に戻ると、道場の弟子たちに、暫くの休暇を与えた。ほとんどが実家に帰り、両親がいない子も、友人について行くのだと。喜介くんも他の子同様、実家へ一度顔を見せるのだと。
がらんどうとなった道場を眺める。開け放たれた障子から、涼しい風が吹き抜ける。何かしていないと落ち着かない。濡らした雑巾を絞り、床を拭く。綺麗になってゆく道場の床と同じように、僕の心の汚れも少しずつ剥がれていくようだった。
不意に道場を出た廊下から、足音が聞こえた。最初は稲穂さんかと思ったが、遠慮のない偉そうな音で、すぐに違うと気が付いた。何年も付き合っていると、足音で誰かが分ってしまうらしい。
「どうしたんです、承芳さん。仕事はいいんですか?」
「仕事は後にでもできる。傷ついた友を慰めるのは、できれば早い方がいいだろう」
振り返ると、悪戯っぽい笑みを浮かべる承芳さんが、道場の手前に立っていた。掃除をしたばかりで、中に入るのを遠慮したのだろう。承芳さんの気遣いに、胸がふっと軽くなった。
承芳さんと一緒に、縁側の淵に腰掛けた。足をぶらつかせると、風が思いのほか冷たく感じた。承芳さんは何も言わないし、何も尋ねてこなかった。僕が喋るのを、ただ目を細め庭を眺めて待っていた。
「すみません、織田信広を捕らえることは出来ませんでした」
「生きて帰ってきたのだ、それだけでよい」
「本田忠高さんが討ち死にしました。僕のせいです。僕のせいで、城攻めに失敗したんです」
「それは不運だったな。だが関介は生きている。だったら、次にまた手柄を立てればよい」
おもむろに承芳さんの顔を見ると、彼の視線とぶつかった。農兵隊たちの前では強がっていた。弱い自分を出さないように、師範として情けない姿を見せないようにと。だけど、承芳さんの前なら、弱い自分も卑怯な自分も、全部出せる。承芳さんの隣は、温かくて心地よかった。
「僕を責めないんですか?」
「それは和尚の役目だ。私は、関介に嫌われたくない」
そう言うと、いつものようにへらっと笑った。そんな事じゃ嫌いませんよ。言葉にして伝えたかったのに、喉に何かが詰まっていて言えなかった。思わず涙が溢れそうになる。よかった、言葉にしていたら、涙声になっていただろう。この年にもなって、僕はまだ泣き虫だった。
目元を袖で拭い、承芳さんの顔を見てニコッと笑いかけた。きっとこれで、言葉以上に伝わるはずだ。長い時間を共にした僕らに、必要以上の言葉はいらなかった。
「そうだ、和尚のところへいくなら、明日以降がいいぞ。今行けば、恐らく斬られる」
殴られた時の雪斎さんの剣幕を思い出し、両肩がビクッと震えた。今日の夢で見そうだ。
「でも、改めて謝りに行きたいですし」
「律儀な男だな、関介は。だが謝りに行く必要は無いと思うぞ」
どうしてと尋ねると。承芳さんは、何だか楽し気に言った。
「和尚のやつ、帰って来るなり、凄まじい剣幕で関介への文句を並べてきたんだ。愚図だ愚鈍だ、使えない武士は犬にでも喰わせておけばよいとか」
「確かに、今会いに行ったら、斬られて犬の餌にされそうですね」
「その後にぽつりと、次は無いと思えと呟いたんだ。期待していない者に、怒りなど湧かないさ。それでは、私はもう行くよ」
それだけ言って、承芳さんは腰を上げた。足音が遠ざかっていくのを、ただ黙って庭を眺めながら聞いた。足音が聞こえなくなったところで、誰もいない空へ呟いた。
「ありがとうございます、承芳さん」
今日は雲一つない天気なはずなのに、頬に雨がつたった。温かい雨だった。
1549年 11月
霜月のある日、集合の号令がかかった。夏ごろから、決戦は霜月と言われており、そこまで驚きもしなかった。農兵隊のみんなも、覚悟の決まった顔をしている。
準備は進めていた。この日のために、特別な訓練もしてきた。軽装備ながら、全員が甲冑を身に着け、城門前に集まる。既に多くの兵士たちが集まっていた。前回同様、兵の数は一万を超える。
肌の裂けるような緊張感が漂っていた。二回目となる安祥城遠征で、今回こそ失敗は許されない。未だ織田信秀に動きはない。小豆坂の大敗が、想像よりも織田にダメージを与えていた。仮に織田信秀が、前回の安祥城攻めの失敗後に直ちに東三河へ侵攻していれば、松平は持ちこたえる事ができず、織田に下っていた事だろう。まさに不幸中の幸いだった。
およそ七か月前に通った道だ。三月当時は、芽吹きかけの小さな植物たちが目立った。霜月ともなると、新緑の面影が僅かに残る程度で、背の高い木に生えた葉は鮮やかなオレンジ色に染まっていた。いつの日か、承芳さん夫婦と龍坊、僕ら夫婦と喜介くんの六人で、紅葉狩りをした日を思い出した。楽しい思い出のはずの紅葉は、今は戦場に流れる鮮血に見えた。
前回と同じ小高い山に布陣することとなった。荷物持ちも兼ねている僕らは、武器や食料を、所定の場所に置く必要がある。僕は兵糧の入った袋を担ぎ、よたよたとその場を右往左往する。見かねた他の農兵隊が、背負っていた袋を強引に受け取り、さっさと別の場所へ歩いていった。師範としての威厳は何処へ。
不意に名前を呼ぶ声が聞こえ首を振ると、陣幕から顔だけ出した雪斎さんが、こちらへ手招きしていた。
「関介殿、こちらへ」
表情は穏やか。怒ってはいなさそうだ。前回の城攻めの後、気まずくて話しかけられないでいた。逃げ出したい気持ちを抑え、素直に頷いて駆け寄った。幕を手でどかし入ると、中には雪斎さん以外誰もいなかった。
「どうしたんです、雪斎さん」
「いえ、特に深い理由は無いのですが」
雪斎さんは、僕の肩に手を置くと、何とも言えない含みのある笑みを浮かべた。何を言われるのだろうか、戦々恐々となる。肩へ置かれた手のひらに力が入る。
「前回の城攻めの事を覚えていますか?」
忘れるはずが無かった。僕は思い切り首を縦に振った。満足そうにゆっくりと頷くと、雪斎さんは続けて口を開いた。
「引いたら死ぬと思って戦いなさい。次は、ありませんよ」
「行きなさい」と雪斎さんが後ろを指さし、僕は操り人形のようなぎこちない動きで陣幕を後にした。背後に鋭い視線を感じたが、気にしない振りを続け
時刻は正午を少し回った頃。さあ決戦の時だ。信広さんが立て籠もる安祥城は、目と鼻の先だ。北方と南方を同時に攻める手筈になっており、僕らは北方に布陣した。少数先鋭の僕ら農兵隊は、前回と同じ後方支援だ。前回と違うのは、先鋒隊を務めるのが、歴戦の武人である朝比奈泰能さんである点だ。彼は僕らが農民の出である事を馬鹿にしないし、能力を認めてくれている。何とも頼もしい背中だった。
「皆の衆、此度は後ろに、頼もしい味方が付いている。思い切り暴れようぞ!」
武士たちの野太い叫び声が一斉にこだました。
誰かの一番槍の声が上がった。武士たちの駆ける音が、地ならしのように辺りに響き渡った。僕らもあとに続いて、城の中に侵入した。
踏み入った瞬間、鼻に纏わりつくのは死の香りだった。傍らに転がる骸には目もくれず、僕らは信広が籠る本丸へと急いだ。
次々と曲輪を落とし、先鋒隊は本丸のすぐ近くまで迫っていた。今回も敵は、一見攻め気が無いように、後退を繰り返すだけの防戦一方に見えた。その実、先鋒隊を狭い場所へおびき寄せ、草木に隠れた伏兵が取り囲む作戦だろう。前回はその作戦にまんまとはまり、先鋒隊が壊滅する手痛い敗戦を喫した。そうはさせない。
この七か月、ただ同じように剣を振るっていただけじゃない。とある練習を取り入れていたのだ。
「みんな、周りの雑木林に目掛けて、構え! 放て!」
ひゅっと風に乗って飛ばされたのはただの矢じゃない。先端に油の染みこませた紙を巻きつけ、そこに火を付けて放つ火矢だった。囂々と燃える矢は、敵が潜伏しているであろう草木に着地するや、辺り一面を火の海へと変えた。無数の敵兵の叫び声が響いた。火の海から飛び出してきた兵士たちは、全身焼け爛れ、一心不乱に水のある所へ走った。
伏兵による挟撃に失敗した敵は、見るからに戦意を失った顔をした。先鋒隊はさらに勢いを増し、戦意の下がった敵兵をなぎ倒していく。作戦は成功だった。
全身焼け爛れた一人の兵士が僕の目の前に現れた。ゾンビのように両手を前に、声にならないうめき声を上げていた。腰の刀を抜きさり、感情を一切捨て真横に振る。首から血を噴き出し、兵士はその場に倒れた。喜介くんも、背中を向けて走る兵士に矢を放った。胸を貫かれた兵士は、勢いよく前方に転んだ。少し遅れて、死体の周りに血だまりが広がった。
前方は朝比奈軍に、後方を農兵隊に囲まれた伏兵たちは、まさに前門の虎後門の狼の状態だった。辛うじて生き残った兵士たちはこれから、僕らの手によって殺されるか、自ら喉に刃を突き立てて自殺するか、または迫りくる炎に焼かれて死ぬかの三択を迫られていた。極限状態が続く中、喧騒を突き抜けるような、高らかな声が聞こえた。
「敵将、捕らえたり!」
敵将、つまり織田信広を捕らえたというのだ。今や城を背に戦う兵士たちは、誰のために戦えばいいか分からないはずだ。その証拠に、声を聞いた敵兵たちの顔に、明らかな動揺と混乱が浮かんだ。
敵兵の一人が、刀を捨ててその場から逃げ出した。向かった先は、本丸とは反対方向だった。矢をつがえる喜介くんを手で制す。不思議そうな顔をする喜介くんに、僕は優しく声を掛けた。
「もう追う必要はないよ。戦は終わったんだ」
「そうですね、関介様」
逃げ出す敵兵の背中を見送り、僕らは本丸へ向かった。今回の戦で、農兵隊の中で怪我人こそ出たが、被害はほぼゼロだった。これも先鋒隊を務めた朝比奈泰能さんのおかげだ。
本丸に辿り着くと、雪斎さん他、家臣さんたちが、縄で縛られた信広の前で談笑していた。囚われの身となった信広は、覚悟を決めたように、目を閉じ微動だにしなかった。
「安心しろ信広よ、お前をむざむざ殺したりしない。織田の手にある、竹千代との交換に必要だからな」
「流石は雪斎殿。卑怯な事を考えましたな」
「卑怯といえば、先に竹千代を奪ったのは、織田ではないか」
それ以上の会話は無駄だと察したのか、信広は地面を睨み口を閉ざした。
「おお、関介殿。よくぞ戦ってくれました。流石はこの雪斎の期待した男よ」
よく言うよ。斬って犬の餌にしようとしたくせに。僕は乾いた笑みを浮かべ、適当にやり過ごした。
ふと視線を感じた方を向くと、信広のギンと光る双眸とぶつかった。僕に興味があるのか、つま先から頭のてっぺんまで、舐めるように視線を動かす。不審そうな顔をすると、ふっと鼻を鳴らし、あい分かったと口を開いた。
「其方が関介殿か。父上が大層気にいっておりました故、よく耳にしておりました」
なぜ信秀が僕の事を?
尋ねようとしたが、信広は僕の言葉を遮るように言った。
「父上が言っておりました、関介殿は奇跡を見せる男だと。確かに、まるで私の弟である、信長を見ているようだ。関介殿は、さぞ信長と気が合うでしょうな」
言い終えた信広は、空を見上げ肩を震わせながら不気味な笑い声をあげた。気がおかしくなったかと、雪斎さんは呟いたが、僕にはそうは思えなかった。
信長と気が合う。冗談じゃない。戦乱の世の中でしか生きられない男と一緒にしないで欲しい。そう思った直後、僕は自らの心に問うた。何人もの伏兵を焼き殺した時、僕はどう思ったか。作戦が成功して、気持ちよくなっていなかったか。逃げ惑う敵を殺した時、何も思わなくなったか。
身震いを覚え、思わず両肩を抱いた。恐ろしくなった。僕が知らずの内に、戦乱に染まっているのではないか。両手を見ると、敵の返り血で真っ赤に染まっていた。




