安祥城攻め
1549年 3月初旬
早朝にもかかわらず、今川館の城門近くは、男たちのむさ苦しい熱気に溢れていた。数日前まで続いていた雪も、今日にはすっかり溶けて、僅かに緑色の葉が見え始めていた。
久しぶりに甲冑を着込み、腰に重々しい刀を二本差す。周りの家臣たちの士気は高いが、僕の心の中には厚い雲がかかっていた。何度と戦場に身を置こうと、慣れることは無かった。重たい気分を嘲笑うかのように、上空には澄んだ青空が広がっていた。
戦には当然、大量の武器と食料、そして人員が必要だ。武器と食料に関しては、館に備えられているため、すぐに調達が可能だった。だが人員となると、今川館を離れ、近くの砦を守る兵を招集しなければならない。また多くの国人衆を抱える今川家は、軍の統率は一筋縄ではいかなかった。
今回の戦は時間との闘いだった。僕らに課されたミッションは、岡崎城の接収と、安祥城に立て籠もる信広の生け捕りだ。この二つのミッションを、織田信秀が戦の準備を整え、松平を攻める前に果たさなければいけないのだった。
岡崎城の接収は容易だろう。当主が横死した松平家に、岡崎城を外患から守る力は残されていない。時代の流れと諦めて織田に滅ぼされるくらいなら、今川家の軍門に下り、家の名前を残したいはずだろう。
問題は、織田信広の生け捕りだ。あまり城攻めを長引かせては、信秀の援軍が到着してしまう。だが力ずくで攻め、万が一信広を生かすことが出来なければ、竹千代くんとの人質交換の、大事なカードを失う事になる。それは即ち、竹千代くんの死だ。
広忠さんの死が伝えられたのは二日前だった。人員の確保は、僅か二日の間で、急ピッチに進められた。目まぐるしく変わる情勢の中で、僕の心にかかった雲は厚みを増していくばかりだった。
「関介様、怖い顔をしてますよ」
馬に跨り、考え事をしているうちに、どうやら周りが見えなくなっていたらしい。隣から聞こえた心地よい声で、心の中に浮かんでいた厚い雲が、少しだけ晴れた気がした。
「いろいろと考えちゃってね。ありがとう、稲穂さん。おかげで、気持ちが少し楽になったよ」
「いえ、そんな。稲穂はただ、関介様の怖い顔が、見たくないだけです」
白い寝間着の上から、淡い黄色の小袖を被る稲穂さんは、どこかほっと安心したように微笑んだ。彼女に心配を掛けたくなかったのに。僕は気丈に笑顔を作ってみせた。
背後に並ぶ農兵隊の先頭に立つ喜介くんが、僕のわき腹をつついた。ひゃっと、女の子のような悲鳴を上げてしまい、思わず顔が紅くなる。馬上から喜介くんを見下ろすと、彼はしてやったりとほくそ笑んだ。
「関介様は、本当に怖がりですよね」
「仕方ないじゃない。農兵隊を率いる責任もあるし、なにより」
一度そこで言葉を切る。喜介くんと、稲穂さんは、不思議そうに僕の言葉を待っている。こんな事を言ったら、二人は馬鹿にするかも。それに、みんなの士気が下がってしまうかもしれない。
「笑わないでね」と念押しし、僕は僅かに頬を上気させ、か細い声で呟いた。
「死ぬのは、やっぱり怖いよ」
二人は顔を見合わせ、ふっと表情を和らげた。
「そんな事、私も同じですよ。私の帰りを待つ、愛する家族がいるのですから。関介様にもいるのでしょう?」
喜介くんは、ちらっと稲穂さんの顔を覗いた。僕も同じように、稲穂さんの顔を見つめる。彼女の視線とぶつかった。優し気に微笑むと、おもむろにピンク色の唇を動かした。
「関介様。確かに、華々しく命を散らす事こそが、武士の本懐なのでしょう。ですが稲穂は、関介様には生きて欲しいのです。生きて駿府を、稲穂を守って欲しいのです。どうか、戦場に命を懸ける事こそが本懐と思わず、稲穂と一生を添い遂げる事こそが本懐であると思ってください。稲穂は、関介様がいなければ生きてはゆけません」
稲穂さんの悲痛な祈りは、戦こそが生きる場所だと謡う男たちの熱気にかき消された。だけど彼女の言葉は、確かに僕の心の奥底にまで届いた。馬から飛び降りると、迷わず稲穂さんの細く柔らかな身体に抱き着いた。背中に手を回し、稲穂さんの頬に顔を寄せた。
驚いた稲穂さんは、小さく声を上げ、後ろへ態勢を崩した。二人そろって転倒しかけたところで、喜介くんが僕らの身体を支えてくれた。
「どうしたのですか、関介様。乱心は自室の布団の上だけにしてください」
「ごめん、つい。稲穂さんもごめんね」
喜介くんに支えられている稲穂さんは、僕の常軌を逸した行動のせいで、完全に放心した様子だ。なんて馬鹿な事をしたのか。稲穂さんの心のこもった叫びに、つい心の底に火がついてしまったのかもしれない。
ようやくいつもの表情を取り戻した稲穂さんは、喜介くんの腕から離れ、ずいずいと傍まで歩み寄り、上目遣いで僕の顔を見つめた。
「稲穂さん、どうしたの」
言い終える前に、稲穂さんの顔が目の前に迫って来た。唇に柔らかな感触が広がった。甘い蜜のような香りが、鼻の奥へ通り抜けた。唇を放すと、真っ赤な顔の稲穂さんは、蚊の鳴くような声で囁いた。
「先ほどの仕返しです。関介様、行ってらっしゃいませ」
それだけ伝えると、稲穂さんは猛ダッシュで建物の中へ姿を消してしまった。呆然とする僕の頭上で、雪斎さんの高らかな声が響いた。
「これより、安祥城を目指して行軍を開始する。皆の衆、心してかかるぞ!」
「おう!」
男たちの腹の底に響くような叫び声が山の方へとどろき、遥かな空へやまびことなって舞い上がった。戦の始まりだ。頬を叩き、平常心に戻る。さっきまでの恐怖心は、すっかり消えていた。農兵隊の仲間たちへ視線を向ける。僕が頷くと、総勢二十五名の若者たちも揃って頷いた。心は一つだった。
因みに今回は、何とか桃を説き伏せ、館に置いていく事に成功した。桃は大いに泣き喚いたが、最後には「道場で、皆さまの帰りを待っています」と、力強く言ってくれた。
僕含め、二十六人の農兵隊は、雪斎さんが率いる部隊の後ろについて歩いた。何度か岡崎までは行軍したことがあり、見知った道が続いた。程よい緊張感の中、静かな行軍が続く。枯れ草を踏みしめる音だけが、涼し気な風の吹く駿府の空の下に響いた。
浜名湖を渡り、東三河に入る。途中休憩を挟みながら、ようやく地平線の遥か遠くの方に、微かに岡崎城の天守が見えた。農兵隊の一人が、あっと指を差した。つい視線をそちらに向けると、小さな池のほとりで、白鳥の番が仲良く羽を休めていた。冷たい水で喉を潤しているのだろう。白鳥の近くで魚が跳ね、波紋が広がる。白鳥から逃げ惑っているようにも見える。真白な羽が美しい白鳥も、魚から見れば、恐ろしい捕食者でしかない。見え方は、力の有無で変わる。
岡崎城下に到着したのは、駿府を発って五日目の早朝だった。今川の一万を優に超える大軍勢に恐れをなしてか、住民たちが家から顔を出す事は無かった。何軒もの家が立ち並ぶ大通りには、馬の蹄の音だけが響いた。
城門が間近に見えると、松平の若い近習が隊列の前に現れた。膝をつき、つむじが見えるほど首を垂れる近習は、大軍勢を前にして、全身を小刻みに震わせていた。雪斎さんが自ら馬を降り、近習に語り掛ける。近習は慌てて顔を上げ、すぐに案内いたすと。若い近習を先頭に、大行列が岡崎城の城門を潜った。
城門の先に、一人の青年が立っていた。
「お待ちしておりました、雪斎様。松平広忠様の近習、酒井忠次にございます」
深々と頭を下げた青年は、名を酒井忠次と名乗った。僕より十歳ほど下だろうか。彫の深い顔に、荒々しい眉毛。顔の迫力だけなら、三十か四十にも見えた。忠次さんは、今川の大軍勢を前にしても、全く物怖じする様子を見せなかった。
「顔を上げよ、忠次殿。して、松平はどうだ?」
「ははっ。広忠様亡き今、松平家は揺らいでおります。それは、大黒柱を失った家屋と同様、風が吹けば容易く崩れるでしょう。今の松平家には、太く芯の通った一本の柱が必要にございます」
忠次さんの言葉を聞き、雪斎さんは何処か試すような、意地悪な笑みを浮かべた。
「そうか。では、今川はその柱になり得ると思うか?」
一瞬面を喰らったような顔をした忠次さんは、すぐに冷静な顔を取り戻した。
「今川様か織田様か。松平家中でも、意見が真っ二つに割れておりまする。いや、僅かに今川様に傾いていると思われますか。ですが、私の意見としましては、どちらでもございません。松平の柱となるのは、松平竹千代様以外、あり得ませぬ」
忠次さんは、はっきりとした口調で言った。彼の目の奥には、若き当主への確かな信頼が見えた。それは、僕が承芳さんを見つめる目と同じだった。
シンと静まり返る城内。静けさを破ったのは、雪斎さんの笑い声だった。ぶっと噴き出すと、顔を手で覆いながら豪快に笑った。側近たちは、どうしたのかと彼の顔を心配そうにのぞき込んだ。好きなだけ笑った雪斎さんは、忠次さんに向き直り、口角を不気味に吊り上げて言った。
「ほう、今川はあくまで、竹千代が成長するまでの添え木に過ぎぬと言うのか。面白い。忠次、お前は真に面白い男よ。お前のような男がいれば、松平家も向こう三十年は安泰よ」
「雪斎様からのお褒めの言葉、ありがたく頂戴致しまする」
再び膝をつき、深々と頭を下げる忠次さん。彼のつむじを見下ろす雪斎さんは、また豪快な笑い声をあげるのだった。
主に三河方面の守護を担当する、山田景隆さんに岡崎城を任せる事となった。彼は東三河に精通しており、上手く城代を任せられるだろうとの事だった。
雪斎さんを大将とし、朝比奈泰能さん、鵜殿長持さんなどの重臣たちと共に、僕らは安祥城へと兵を進めた。兵の一部を岡崎城に置いてきたとはいえ、その数一万。また松平の援軍を含めれば、一万三千を超える大軍勢だ。対する安祥城に立て籠もる織田信広の兵は、多めに見積もっても三千といったところだ。周りの兵たちの表情にも余裕が見える。だが気を抜いてはいけない。それこそ、小豆坂の屈辱の二の舞となってしまう。気を引き締めなければ。
矢作川を越え、背後に見えていた岡崎城が、段々と小さくなっていき、とうとう小高い山に隠れてしまった。帰る場所が見えなくなると、途端に心細くなる。でも、周りには心強い仲間が沢山いる。不安な気持ちを押し殺し、安祥城へと向かった。
安祥城は、広大な森と深田の中にひっそりと建つ平山城だ。入り組んだ森が自然の要塞となり、戦力差があったとしても、攻め落とすのは容易ではない。森に囲まれていると、それだけ視界が狭くなる。深追いしすぎると、思わぬ伏兵に横腹を突かれかねない。油断ならない城であると再確認できた。
僕らは安祥城を望む小高い山頂に布陣した。だがそこに、行軍を共にしていた朝比奈泰能さんと鵜殿長持さんの姿がなかった。どこかで放浪しているわけも無く、勿論雪斎さんの作戦だった。泰能さんと長持さんが、それぞれの部隊を率い、安祥城を守る砦を破る。そして最後に残る、丸裸となった安祥城を攻め落とすという算段だ。なるほど、雪斎さんらしい、いやらしく勝ちにこだわった作戦だ。
重たい沈黙が流れる陣中に、吉報が訪れた。泰能さん長持さんがそれぞれ攻めていた砦が落ちたと。これで、織田からの援軍も届かない。安祥城は今、四面楚歌の状態だ。
時は来た。敵は安祥城にあり。誰が言い出した訳でもないが、みなの視線の先は、当然安祥城を指していた。
「欲するは織田信広のみ。それ以外は斬れ。さあ、いざ参るぞ!」
雪斎さんが声高に叫ぶ。周りの家臣たちが威勢よく返事する。それに呼応するように、兵士たちも叫び声を上げる。小高い山が震えた気がした。
雪斎さんと、松平、農兵隊連合軍の二部隊に分かれた。松平の兵を指揮するのは、若き将である本田忠高さんだ。南方から攻める雪斎さんと別れた僕は、大将である忠高さんのもとへ駆け寄る。
僕の存在に気が付いた忠高さんは、全身を舐めるように見つめ、何故か不機嫌そうに顔をしかめた。気にしない振りをして、あくまで低姿勢で声を掛けた。
「よろしくお願いします、忠高さん。敵兵はこちらよりも少ないですが、油断せず攻めましょう」
「ふん、お前があの関介か。剣の腕が立つ、今川きっての猛将と聞くが。そのなりでは、所詮噂話に尾が付いたに過ぎぬわけか」
初対面でその言い草にポカンとしていると、忠高さんは、嘲笑気味に鼻を鳴らし、続けて声を一段低くして言った。
「この戦で織田信広を捕らえる活躍を見せれば、今川義元殿は、我ら本田の家を重く見て、重臣に置いてくださることだろう。お前たちのような雑兵は、くれぐれも俺たちの邪魔をするでないぞ」
そう吐き捨てると、忠高さんが指揮する足軽たちまでもが、僕らを指さして嘲笑っていた。お揃いの重厚な武具を身に着けた彼らとは違い、僕ら農兵隊は、有り合わせで出来た軽装備を身に着けていた。確かに彼の言う通り、農兵隊のメンバーは、農民出身の雑兵に過ぎないのかもしれない。だけど、命をかけて戦に臨む戦士には変わりないはずだ。
農兵隊の中には、悔しさのあまり、目に涙を溜める子もいた。喜介くんは、歯ぎしりし今にも飛び掛かりそうな勢いだ。こんなところで、仲間割れしてどうする。僕は忠高さんの前に歩み寄り、凛とした態度で対峙した。
「忠高さん。今は言い争いする暇なんてないんじゃないかな。身分なんて、戦中では何も意味無いよ」
「そう思っているのは、お前だけだ。俺たちは、お前たちのような武士の真似事とは違う」
僕の伸ばした手を払うと、足軽隊を率いて、安祥城の城門近くまで移動していった。彼らの背中を見送りながら、大きな息を吐いた。そして無意識のうちに、舌打ちをしていたらしい。驚いた喜介くんが、僕の顔を覗いた。どうやら僕は、久しぶりに本気で怒っているのかもしれない。
「みんな、言いたい事は沢山あるかもしれない。でも今は、目の前の敵に集中しよう。分かったね」
「はいっ!」
農兵隊二十五名の若い声が、綺麗に揃って響いた。彼らの目に、一切の雑念は無かった。みんな分かっている。油断や侮りがどれだけ怖いかを。
少し遅れて、忠高さんの部隊の後ろに並んで布陣する。先鋒隊は松平。僕らはその後方支援だ。
遠くの方から、法螺貝の野太い音が響き渡った。それが開戦の合図だった。
「お前たち、かかれ!」
忠高さんの声で、足軽隊たちが猛スピードで城門まで駆け寄り、手持ちの武器を使い僅かな時間で門を打ち破った。誰かの、一番槍もらったの声が聞こえた。
門の内側に控えていた織田の軍勢と、先鋒隊が激しく衝突する。刀と刀がぶつかる重たい金属音が、辺り一帯に響く。それに混じって、野太い悲鳴や、死ぬ間際の声にならない叫び声が次々とあがる。鼻に香るのは、血と肉片の匂いだ。
先鋒隊の動きを注視する。織田の兵は、押されていると見るや、一旦後方に退いた。これ隙と、先鋒隊たちは、織田の兵の背後を追い、城のより内部へ侵入していった。僕らも先鋒隊に続き、城内に入る。織田と松平の家紋を持つ甲冑を纏った死骸が、無数に転がっている。中には、絶命寸前で、小太刀を自らの喉元に突き付ける武士もいた。彼の胸には、大仰に松平の家紋が描かれていた。
死骸には目もくれず、僕らは先鋒隊の背中を追った。彼らは、次々と曲輪を打ち破っていく。本丸までもう少しだ。僕はそこで、脳裏に嫌な直感を抱いた。何かがおかしい。あまりにも順調すぎる。確かに、忠高さんたちの部隊の勢いはすさまじい。だけど、それにしても、容易に攻め落とせすぎだ。冷静になると、視界が広がる。辺りには、背の高い草木が生い茂る。ここは、敵陣の森の中だった。気が付けば、僕は叫んでいた。
「忠高さん! 伏兵がいるかもしれない、ここは慎重に!」
僕の高い声は、前方の忠高さんの耳に届いたようだ。彼は振り返り、訝し気な表情を浮かべた。忠高さんとの距離は、三十メートルほどだった。
その瞬間だった。突如として、森の中に潜伏していた織田の軍勢が姿を現した。僕らは、敵軍の陣地のど真ん中に、のこのこと誘い込まれたのだった。
「ここは退きましょう忠高さん!」
彼の耳には届かなかった。物理的な距離のせいではない。
何処からか飛んできた矢が、忠高さんの眉間を突き刺した。彼の身体は一瞬硬直し、すぐに力なくその場に倒れた。指揮官を失った部隊は、実に脆かった。目の前に広がるのは、阿鼻叫喚が渦巻く地獄絵図だった。
「みんな、ここは一旦退こう。退却、退却!」
僕の声は、彼らの命を繋ぎとめる一本のか細い蜘蛛の糸だった。退却の声が届いた足軽たちは、我先にと城を後にした。声が聞こえなかった足軽たちは、みな織田の兵に殺された。
松平の部隊は、指揮官を失い瓦解、混乱状態に陥った。雪斎さんは、それ以上の戦闘は不可能と判断し、全軍の退却を命じた。織田は、逃げる僕らの背中を、必要以上に攻めてこなかった。
開戦前に布陣した小高い山に戻った。農兵隊は後方支援がメインだったため、多少怪我人は出たが、全員ほぼ無事だった。酷いのは先鋒隊だ。殺された兵の数自体は、直ちに立て直せない程ではないのだが、やはり大将の忠高さんの死が一番大きかった。動揺する松平が立ち直るには、かなりの時間が必要だろう。
南方を攻めていた雪斎さんたちが、遅れて到着した。雪斎さんは無造作に甲冑を脱ぎ捨てると、僕の顔を見つけ、鬼のような形相で近づいてきた。
声を掛ける間もなく、目の前に火花が散った。口の中が切れて、鉄の味が広がる。雪斎さんは、何も言わずに頬を殴りつけた。キーンと甲高い音が耳の奥で鳴り響き、周りの悲鳴がやけに遠くに聞こえる。よろけて倒れそうになる僕の胸倉を掴むと、もう一度今度は逆の頬を殴った。血と涙が舞う。
「関介! 何故深追いする松平を止めなかった!」
腹を殴られたような怒声が、耳のすぐ近くで響く。鬼気迫る雪斎さんは、僕の胸倉をぐわんぐわんと揺さぶった。
「忠高さんが……僕の声を無視して」
「黙れ! それでお前は、むざむざ本田を犬死にさせたのか! お前のせいで、私の策は全て水の泡だ! お前のせいで!」
叫びたいだけ叫び、もう一発、二発、頬に硬い拳がぶつかった。見かねた誰かが、雪斎さんを羽交い絞めにし、僕から引き剥がしてくれた。僕は力なく、冷たい地面の上に横たわった。口から流れる血と、涙が止まらなかった。他の誰かが、恐らく農兵隊だと思う誰かが、介抱してくれた。大丈夫ですかと、心配そうな声。これは多分喜介くんだ。大丈夫だよと返したかったけど、身体がピクリとも動かなかった。
情けなかった。雪斎さんに怒鳴られて、僕は咄嗟に罪を忠高さんに擦り付けようとした。そんなところも、雪斎さんは見透かしていたのかもしれない。近くで誰かのすすり泣く声が聞こえた。遠ざかる意識の中、それが僕自身の声だと気が付いた。




