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弓取りよ天下へ駆けろ  作者: 富士原烏
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崩れゆく松平家

 1549年 3月


 3月の初旬。その報せは突然だった。

 稽古を終えた後、自室で稲穂さんと漢字の練習をしていたところ、血相を変えた承芳さんが部屋の中に飛び込んできた。


「関介、大変だ!」


 危うく筆が宙を舞うところだった。隣の稲穂さんは、驚いた拍子に筆を滑らせ、腕にべったりと墨がついてしまっている。腕まくりしていたおかげで、二人とも小袖を汚すことは免れた。

 僕と稲穂さんの冷たい視線に、息を整えた承芳さんは殊勝に頭を下げた。


「もう、何ですか急に」


 僕が気怠そうに尋ねると、承芳さんは声を低くして言った。


「松平広忠が死んだ」


「へっ? 広忠さんて、竹千代くんのお父さんの? でも、どうして。彼はまだ若く、最近まで織田と何度も戦をしていたじゃないですか」


 声がひっくりかえりそうになるのを堪え、前のめりになって、まくしたてるように言った。言い終えてすぐに、承芳さんが苦しそうな顔をしている事に気が付いた。冷静を取り戻した僕は、姿勢を直して、静かな声で質問を続けた。


「死因は何ですか?」


「殺されたようだ。それも、家臣にな。まさか、父親と同じ運命を辿るとはな」


 そんなっと、多恵さんの悲鳴に近いか細い声が耳の近くで聞こえた。信じられないのは、僕も同じだった。

 松平広忠さんのお父さん、清康さんもまた、家臣に殺された。天文四年の十二月、織田との戦をしていた松平清康は、守山という地で、家臣に惨殺された。丁度僕らが、京都から駿府に戻って来たころだ。

 そして時は流れて、また同じ事件が起きてしまった。僕は唇を噛んだ。承芳さんも、暗い表情で畳を眺めている。室内に重たい沈黙が流れた。庭の外には、季節外れの雪が舞っていた。

 すすり泣く声が、僕のすぐ隣から聞こえた。稲穂さんは顔を手で覆い、肩を震わせて泣いていた。手の隙間から透明な雫が、畳の上にぽたぽたと落ちた。


「義元様、それでは竹千代様はどうなってしまうのですか。生まれ育った地を追われ、お父上を亡くされ。稲穂は、竹千代様が不憫でなりません」


 僕は稲穂さんの肩を優しく抱いた。稲穂さんの体温を感じる。彼女はそっと肩を寄せた。


「心配ない。竹千代を悪いようにはしない。私が約束する。関介、和尚が呼んでおる。支度が出来たら、広間へ来てくれ」


 それだけ言うと、承芳さんは踵を返し部屋を後にした。彼の背中には、いつものお気楽さは無く、重しげな空気が漂っていた。当主としての責任感を抱えているのだと分かった。

 部屋の中に、再び静けさが訪れた。庭から吹き抜ける冷たい風が、二人の体温を容赦なく奪ってゆく。肩に寄りかかった稲穂さんの身体が、細かく震え始めた。

 稲穂さんの背後に回ると、所謂あすなろ抱きをした。突然の事に驚くかと思ったが、意外にも稲穂さんはすんなりと受け入れたようだ。僕の手に触れ、涙声で呟いた。


「温かいです、関介様」


「稲穂さんの身体も温かいよ」


 いつの間にか、稲穂さんの身体の震えは止んでいた。だけど、もう暫くこうしていたい。稲穂さんの髪に頬で触れると、彼女はくすぐったそうに笑った。枝に積もった雪が、地面に落ちて白い痕を作った。雲間から溢れた一筋の光が、縁側を照らした。


 遅れて広間に到着すると、既に何人かの家臣さんたちが集まっていた。僕は体を小さくしながら、なるべく後ろの方を通り、部屋の隅まで移動した。僕が遅れて入室するのはいつもの事で、みな一瞬視線を向けるだけで、すぐに前を向いた。前とは、一段高い上段の間だ。そこには、承芳さんと隣に雪斎さんが座っていた。承芳さんと目が合うと、彼は難しそうな笑みを浮かべ、小さく手を振った。僕も彼にならって、手を振り返した。

 広間の隅には、既に先客がいた。これもいつもの事で、関口親永さんが壁に背をもたれて立っていた。彼は僕の顔を見つけると、優しい笑顔を浮かべた。


「関介殿、遅かったですね。何か用事でも?」


 暫く稲穂さんと抱き合っていた。なんて言えるはずもなく、苦笑いでやり過ごした。親永さんは、それ以上追及することなく、他の家臣さん同様、上段の間へ視線を向けた。僕が顔を向けた瞬間、雪斎さんはがばっと立ち上がり、みんなを見下ろしながら拳を突き上げて高らかに言った。


「よく聞け、松平広忠が死におったぞ!」


 満面の笑みとはまさに今の雪斎さんの顔の事で、隣に腰掛ける承芳さん含め、この場にいる全員が、複雑な顔になった。死んだのが織田信秀なら、百歩譲って分からなくもないが、味方であるはずの広忠さんの死を喜べるのは、駿府にいて雪斎さんだけだろう。


「なんだお主ら、今日は随分と静かだな。かような好機、中々起こるものでは無いぞ」


「広忠殿が死んで好機と見るのは、和尚だけだ」


 尚も意気揚々と話す雪斎さんに、承芳さんが呆れたようにつっこみ入れた。そうかと目を丸くする雪斎さん。言葉には出さないが、広間にいたほぼ全員が、そりゃそうだという顔をした。

 腰を折られて、やや不満そうな雪斎さんは「まあ良い」と呟き、ごほんと一度咳払いをして話し始めた。


「好機というのは語弊であったな。ただ、広忠の死を知れば、織田信秀は好機と見て、必ず岡崎城を落としにくる。我らはそれまでに、岡崎城を接収せねばならん」


 ざわついていた室内の空気も、雪斎さんの真剣な顔に気圧され、少しずつ落ち着きを取り戻した。最初からそう言えばいいのに。


「では和尚、岡崎へはいつ向かうのだ?」


「明日には駿府を発ち、数日の内に岡崎城を今川のものとする。松平家中で、織田に与する者が出て来るやもしれぬからな」


 松平家にとっては大変な時期だ。当主を失い、織田からは領地を狙われている。その上、今川に岡崎城を取られれば、松平は完全に独立性を失う。織田と戦うのか、今川の軍門に下るのか、はたまた独立するのか。当主のいない松平は、どの道を選ぶのか。一つ言えるのは、どの道を選んでも、多くの苦難が待ち受ける地獄のような道に繋がっているという事だ。


「此度は私が兵を出そう。ついて来てもらう者は既に決めてある。その者には後ほど伝える。此度の軍議は、これにて解散だ」


 雪斎さんが言うと、家臣さんたちがぞろぞろと部屋を後にし始めた。親永さんも、まだ仕事が残ってますのでと、足早に部屋を去っていった。僕も自室に戻ろうとしたところ、上段の間から声がかかった。


「関介殿、こちらへ」


 雪斎さんに呼び止められ、仕方なく向かった。早く戻って、稲穂さんと漢字の練習の続きがしたいのに。僕以外の家臣さんは、既に全員部屋を後にし、残っているのは僕と承芳さん、雪斎さんの三人だけになった。


「関介殿は、何故そうも軍議に遅れて来るのですか? やる事がとろいというか、鈍間というか」


 呆れたように頭を掻く雪斎さん。僕を呼んでおいて、とんでもない悪口を言う。流石は腹黒だ。雪斎さんの背後で、広げた地図を眺める承芳さんが目に入った。僕は雪斎さんに適当に愛想笑いを返し、承芳さんのもとへ向かった。


「何を見てるんですか?」


「三河の勢力図だ。東三河は完全に今川が支配しているとはいえ、西三河の一部はいまだ織田の領地だ。織田信広が安祥城に残っている以上、こちらからも迂闊には動きにくいな」


「そうですね、岡崎に今川の兵が入れば、織田との戦闘は不可避ですし。また一年前のような戦はこりごりです」


 安祥城は、矢作川を挟んで岡崎城と向かい合うような位置にある、織田家の対松平の最前線だ。今川に変な動きがあれば、即座に兵を出すだろう。一年前の戦は不意打ちで何とか勝てたが、次の戦はどうなるか分からない。


「はぁ、お主らは戦となると、本当に頭が回らないのだな」


 何とも気怠そうな雪斎さんの声が聞こえた。ムッとして顔を上げ振り返る。雪斎さんは、僕の反抗的な目を見て、まるで子供をあやす親のような、小馬鹿にした視線を向けた。


「じゃあ、雪斎さんには何か考えがあるんですか?」


「当たり前だ。だが、簡単に答え合わせをしてもつまらん。一度自分たちで考えてみなさい」


 僕たちで考えるか。承芳さんと顔を見合わせる。この難局を打開する解決策とは何か。二人で考えれば、答えが見つかるのか。

 黙っていても答えが出るものでもないはずだ。僕はおずおずと口を開いた。


「やっぱり、織田信広が立て籠もる安祥城を攻めるのはどうですか? そうすれば、織田の力は西三河から離れるわけですし」


「だが、信秀のもとには竹千代がいる。迂闊に信広を殺せば、竹千代の命も危ない。広忠、竹千代と、当主と跡取りを立て続けに失った松平家中は分断し、国衆たちも次々と離反するだろう。そうなれば、三河にはさらなる混乱が訪れる。今川の三河支配は、より困難になってしまう」


「でも、だからといって、安祥城をそのままにするわけにはいかないでしょう。安祥城を拠点にし、いずれ信秀は松平を攻めるはずです。また織田と戦になれば、今度はより大勢の命が」


「稲穂殿に言ったのだ。竹千代を悪いようにはしないと。竹千代が死んでしまったら、もう意味が無いんだ」


 承芳さんは苦痛に顔を歪ませながら言った。分かってる。承芳さんの気持ちも、稲穂さんの気持ちも分かってる。だけど、竹千代くんを助け、織田との大きな戦を回避し、三河支配を進める策が思いつかないのだ。

 地図がくしゃっと潰れる。無意識に手に力が入ってしまった。頭を振って冷静を取り戻す。こういう時は、最高の結果から逆算していこう。最高の結果はもちろん、竹千代くんが無事で、三河の地を支配する事だ。

 次に、その障壁となっている事を挙げよう。一番の障壁は、竹千代くんが信秀のもとにいる事だ。そのせいで、目先の脅威である安祥城を攻められない。何故なら城主の信広を殺せば、竹千代くんの命も危ないからだ。ではこの問題を長引かせたらどうだろう。力を取り戻した信秀が、大戦を仕掛けてくるに違いない。それは最悪のシナリオだ。織田が力を取り戻す前に、何とかしなければいけない。くそ、竹千代くんをお金で交換してくれるのなら、幾らでも出すのに。竹千代くんを交換できたら……ん、交換?


「そうだ承芳さん、竹千代くんを交換してもらうのとかどうですか?」


「は? 何と交換するんだ、金か、馬か? もう少しまともな策を」


「違いますよ。信広を捕らえて、竹千代くんと交換してもらうんですよ。流石の信秀も、長男をみすみす見殺しにするなんてことは無いでしょう」


 僕の案に、最初は懐疑的な反応だった承芳さんも、頭の中で反芻する内に現実的だと思ったのか、力強く頷いた。


「それなら、竹千代を守りつつ、安祥城を手に入れ、三河を支配する事ができるやもしれん。どうだ和尚、関介の策は」


 僕らは自信を持って、雪斎さんの顔を見据える。雪斎さんはやれやれと手を振り、及第点だなと呟いた。


「今日のところは合格にしておいてやろう。まぁ私ほどになれば、広忠の死を知った瞬間に、今の策を思いつくがな」


 さいですか。折角合格を貰ったのに、何だか素直に喜べなかった。


「関介殿には、私と共に安祥城攻めに同行して欲しいのです。一年前の小豆坂での見事な手腕、もう一度見せてくだされ。期待していますよ」


 雪斎さんが手を伸ばし、僕の肩を力強く叩いた。べしっと、鈍い音が室内に響く。骨に当たってかなり痛かったのだが、痛がる僕を気にする素振りも見せない雪斎さんは、ガハハと笑いながら上機嫌に部屋から出ていった。

 取り残された僕らは、互いに顔を見合わせた。


「関介、かような策をよく思いついたな。私は何の策も浮かばなかったよ。やはり私には、戦の才が無いのだな」


「そうですね。承芳さんには、戦の才はありません。それに武芸の才も、全くと言っていいほどありません」


 僕の直球の言葉に、承芳さんはがっくりと肩を落とした。僕は承芳さんの肩に手を置いた。ゆっくりと顔を上げる承芳さんに、今度は優しく言った。


「承芳さんは、駿府で政をしてください。僕には政の才は、これっぽちもないですから。武芸の才を持つ僕と、政の才を持つ承芳さん。僕たち、最強の二人ですね」


 にっと笑いかけると、気落ちしていた承芳さんも、いつもの調子を取り戻しへらっと笑った。僕ら二人なら何でもできる。この難局も切り抜けられる。そんな気しかしなかった。

 外を見ると、すっかり雪は止み、空には澄んだ青空が広がっていた。明るい光が、縁側を照らしていた。

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