湯治③
「たろ坊……」
ゆっくりと晴信くんの前に歩み寄る。小袖の裾が畳に擦れる音が、静かに室内に響いた。開け放たれた障子から吹き抜ける風が、室内をぐるっと回って、また障子から外へ流れていった。
「姉上……」
静かに答える。彼の表情に、ふっと安堵の色が差した。そこには、甲斐と信濃一部を支配する、名門武田家の当主の顔は無かった。晴信くんはゆっくりと手を伸ばした。優しく抱擁しあう、兄弟の美しい絵が想像できた。
だが、晴信くんが伸ばしたその手を、多恵さんが取る事は無かった。
「甘えないで、たろ坊」
ぺしっと、手を叩く乾いた音が響いた。信じられないといった顔をして、呆然と立ち尽くす晴信くんに、凍てつくような鋭い視線を向けた。思わず背中に悪寒が広がった。いつもの冷たい多恵さんのではなく、もっと冷淡で感情の一切こもっていない声だった。室内の気温が、一気に下がったように感じた。まるでホワイトアウトの中に迷い込んでしまったような錯覚に陥る。廊下に置いてある松明の火が、ぼおっと揺らめいた。
「貴方は武田家当主、武田晴信なの。いつまでたろ坊でいるつもりなの?」
「姉上には分かりませんよ。国を背負う責任を、戦場で死んでゆく兵たちへの無念さを」
晴信くんは吐き捨てるように言った。多恵さんの前で、こんな態度をとる晴信くんは初めて見た。
「つまり貴方は、肩の荷が重たいと言いたいのね。それならすぐに降ろせばいいわ。貴方がいなくても、じろ坊がいる、他にも優秀な家臣は大勢いるわ」
目を見開いて、多恵さんの顔に視線を向けた。まるで多恵さんの口から出た言葉とは思えなかった。こんな冷たい言葉を言い放つなんて。非難に近い感情が沸き立つのを覚えた。さっきまでの楽しかった宴会が、はるか昔に感じられた。
じろ坊、信繫くんの幼名は次郎というから、きっと彼の事だろう。信繫くんも同じように目を見開き、多恵さんの顔をまじまじと見つめていた。多恵さんの事をよく知る彼ですら、初めて見る多恵さんの姿なのだろう。
多恵さんは、固まる晴信くんの目の前まで歩み寄り、白い手で彼の頬に振れた。妖艶な所作で晴信くんの首に絡みつき、彼の耳元で囁くように告げた。
「それとも、全てを投げ出して、私と一緒に駿府へ行く? 甲斐と違って、戦に怯える心配もないわ。ねえそうしよう、たろ坊」
「やめてください姉上! 晴信は、晴信は……」
多恵さんの身体を突き飛ばした晴信くんは、一瞬あっとしたような顔をして、すぐに踵を返し部屋を出ていった。兄上と、信繫くんが彼の背中を追いかけた。部屋を出る直前で立ち止まり、振り返らずに言った。
「姉上、今のは出過ぎた言葉にございます。兄上は、懸命に当主としての任を務めています」
それだけ言うと、晴信くんを追って、廊下を駆けていった。僕ら三人だけが取り残された。承芳さんと顔を見合わせる。お互い喋る言葉が見つからず、部屋の中に重たい沈黙が訪れた。
「そんな事分かってる」
多恵さんが苦しげにつぶやいた。彼女は血が滲むほど唇を噛み、虚ろな瞳でただ畳を見つめていた。どちらが先に声を掛けようか、瞬時に互いに目配せをした。ここは夫である承芳さんが声を掛けるべきだ。承芳さんが一歩近寄ろうとした時、ポタっと赤い雫が一滴落ちた。唇から出血したのだと思い、多恵さんの顔を見て、全身の血の気が引くのを感じた。視界の端で、ハッと息を呑む承芳さんの顔が映った。
多恵さんの口元から、鮮血が滴っていた。それは唇からではなく、口の中からだった。直後、背中を丸めて咳き込んだ多恵さんは、夥しい量の血を吐き出した。畳の上が、一瞬にして血だまりに変わった。既に、どちらが先に声を掛けると言っている場合では無かった。
「おい多恵、大丈夫か! 誰か!」
承芳さんは彼女の細い身体を抱き、優しく背中をさすった後、部屋中に響き渡る声で叫んだ。その間も多恵さんの咳は続いた。声を上げて十秒もしないうちに、近習の春日虎綱さんが姿を見せた。承芳さんの声に、ただならぬ気配を感じたのか、その表情は緊張したように硬かった。血だまりを見つけた虎綱さんは、一瞬その場で固まったが、すぐに頭を振って、近くまで駆け寄り膝をついた。
咳が止んだかと思うと、ふつっと糸が切れたように、多恵さんは承芳さんに支えながらその場に力なく倒れた。多恵さんがこんな大変な時に、僕は何もできないのか。僕はただ、多恵さんの手を握る事しか出来なかった。彼女の白く美しい手は面影も無く、指先が青紫色に変色し、氷のように冷たかった。見ると、足の指先も青紫色に変色していた。彼女のか細い身体の中で、一体何が起きているんだ。
「虎綱殿、何処か休める場所は」
「義元様、この部屋を出て直ぐに、客間が御座います。そこまで案内いたします」
多恵さんを抱きかかえ、虎綱さんの案内で客間まで急いだ。僕もすぐに後を追おう。部屋を出る前に、残された血だまりを見た。不安な気持ちを飲み込んで、僕は廊下を駆けた。
八畳ほどの客間は少し埃っぽく、長い間使われていない事が分かった。先程の大広間とは違い、庭の見える廊下側にだけ障子があり、後の三方は白い壁だった。行燈の灯りだけの薄暗い室内に、何処か窮屈さを感じた。
暫く経って、多恵さんの容体は今のところ落ち着いたようだ。呼吸も穏やかで、すうすうと寝息を立てていた。どちらかといえば、目を赤く晴らし、疲れきった表情の承芳さんの方が心配だった。布団に横になってから、ひと時も傍から離れようとしなかった。たまに多恵さんの髪に触れ、愛おしそうに目を細めた。
稲穂さんも遅れて到着した。目に涙を溜め、ぐずぐずと鼻をすすり僕の胸に顔を埋めた。頭を優しく撫でると、がばっと顔を上げ、多恵さんの容体はどうか聞いた。今は落ち着いた事を告げると、ほっと息を撫で下ろし、僕の襟で鼻をかんだ。
水で湿らせた布を虎綱さんから受け取り、多恵さんのおでこにそっと乗せた。んんっと、口元からうめき声が漏れた。僅かに頬を上気させ、気持ちよさそうに身じろぎした。
客間に落ち着いた空気が流れ始めたころ、廊下の奥から、慌ただしい足音が聞こえてきた。足音が近づくにつれ、荒々しい息遣いまで聞こえてくる。足音が背後で止まり、障子が勢いよく開いた。振り返ると、涙で顔をぐちゃぐちゃにした晴信くんが立っていた。少し遅れて、信繫くんが到着した。彼もまた目が赤い。晴信くんは、枕元に滑るように駆け寄り、悲鳴に近い声を上げた。
「姉上! 死んではいけません! 姉上が死んでしまったら、晴信は、晴信は……」
「うるさい。少し眠らせて欲しいのだけど」
やかましい晴信くんの声は、掠れた声にかき消された。全員の視線が、多恵さんの顔に向けられた。まだ苦しそうだが、薄目を開けて晴信くんの顔を真っすぐ見つめていた。ただ、段々と視線に耐えられなくなったのか、多恵さんは顔を赤らめ、目の下まで布団に潜った。
「姉上! 目を覚ましましたか!」
「だから、うるさいと言っているの」
晴信くんの声は、またも多恵さんのか細い声に打ち消された。思わず口をつぐみ、しょんぼりと肩を落とした。多恵さんは、白い腕を布団の中から目一杯伸ばし、晴信くんの袴を掴んだ。驚く晴信くんの顔に、優し気な眼差しを向ける多恵さん。その眼差しには、大広間での冷たさはもう無かった。
「たろ坊、手を出して」
晴信くんが、水を掬うように手を重ねた。カランと小気味の良い音が、手のひらの中で響いた。それは、貝殻で作った首飾りだった。晴信くんは、目を見開いて多恵さんの顔を見つめた。
「姉上、これは」
「甲斐は、海がないから。たろ坊が喜ぶと思って。頑張ってるよ、たろ坊は。甲斐に戻ってきて、すぐに分かったの。あのクソ親父の時よりも、みんな嬉しそうだった、幸せそうだった。なれるよ、たろ坊なら何にでも。いい当主にも、いい兄にも……いい弟にも」
畳の上に透明な雫が落ちた。晴信くんの頬を流れるのは、さっきまでの嵐のような雨じゃなく、じんわりと土に染み入るような静かな雨だった。信繫くんが、彼の背中に手を置いた。二人はもう大丈夫だ。そう思えた。
甲斐に滞在するのは二週間の予定だったが、多恵さんが万全な体調で駿府に戻れるまで引き延ばすことになった。多恵さんの体調を考えれば、当然の決断だった。
当主が三週間近く本拠地を離れるというのは、本来は喜ばしい事では無いのだが、今の僕にとっては僥倖だった。晴信くんは、城下に幾つも隠し湯を作ったらしく、僕と稲穂さんは、時間の許す限り秘湯巡りをした。どの温泉も気持ちが良く、効能が効いてきたのか、日々の稽古の疲れもすっかり取れた。それと、ご飯が美味しい。ほうとうを始めとして、数々の山の幸や川で取れた魚は、どれも絶品だった。
気が付けば、甲斐の滞在も二週間が過ぎていた。多恵さんの体調も、初日と比べてすっかり良くなって、今日はようやく温泉に入ることが出来た。館に戻った多恵さんの満足そうな笑顔を見て、思わず笑ってしまった。何よと、不満そうに唇を尖らせたが、表情は穏やかだった。
今日も温泉に浸かり、美味しいご飯を頂いた。夜が近付き、部屋に戻ってからは、縁側に腰掛け日本酒を嗜んだ。とっくりを傾け、なみなみまで注いだ。お猪口をゆっくりと口に運び、日本酒を喉に流す。駿府のお酒も美味しいけど、甲斐のお酒もまた違った味わいがある。山の湧水を使用しており、柔らかく口当たりの良い日本酒だった。
今夜は大きな月が顔を見せ、行灯がなくとも月明りで十分明るかった。背後で足音が聞こえた。遠慮がちな足音は僕の隣で止まり、人影は僕と同じように縁側に腰掛けた。
「今日の温泉も気持ちが良かったですね。それにしても、稲穂まで満喫してしまって、義元様、そして関介様には頭が上がりません」
「いいんだよ。僕は、稲穂さんと来たかったんだから」
稲穂さんの甘い息を直ぐ近くに感じた。二つの唇が重なり、僕らの甘い香りが混ざり合った。目の前の上気した顔は、お酒のせいだろうか、それとも。柔らかな月明りに照らされ、彼女の瞳がキラリと光った。もう一度唇を重ねた。二人の間を通り過ぎた冷たい風は、熱を帯びた温かい空気となり、上空へ消えていった。
少しの間、縁側に静寂が訪れた。だがこの静寂は、気まずいものでは無かった。僕は夜空に向かって喋るように、稲穂さんに話しかけた。
「稲穂さんに聞いておきたかった事があるんだ。初日の事だけど、稲穂さんが先に部屋へ戻った時、多恵さんは凄く冷たい態度で、晴信くんを叱ったんだ。稲穂さんはどうしてだと思う?」
稲穂さんには、喜介くんという弟がいる。僕には分らない、多恵さんの気持ちが分かると思った。稲穂さんは、お酒で口を湿らせ、ゆっくりと話し始めた。
「きっと、お姉さんだからでしょう」
「どういう事?」
「男子は、兄弟への愛情を、素直に口にできるのでしょう。ですが女子は、時に素直になれない時があるのですよ。冷たく言い放つこともあるでしょう。ですがそれは、愛情の裏返しなんです」
愛情の裏返しか。冷たい多恵さんも、温かな多恵さんも、きっと同じ多恵さんなのだ。胸につかえていた、ほんのわだかまりが、やっと解消された。僕は小さくありがとうと呟いた。お猪口のお酒が揺れた。お酒に映った月も、ユラユラと揺れていた。
日本酒が美味しくて、つい飲む速度もいつもより早かった。いつの間にか、とっくりは空になっていた。今日のお酒はもうお終いだ。だけど、今夜の楽しみはまだこれからだった。僕は正面を向いたまま、稲穂さんの横顔に話しかけた。
「稲穂さん、寒くなってきたね。そろそろ部屋に戻ろっか」
「ええ、関介様」
室内に戻り、障子を閉める。畳に敷かれた布団は一つだけだった。
布団の中に入る。行燈の仄かな灯りが、稲穂さんの顔をそっと照らした。彼女の顔が真っ赤なのは、お酒のせいだろうか、行燈の灯りのせいだろうか、それとも。
「稲穂さん、人の命って儚いんだね」
つい傷心気味な言葉を口にしてしまった。すると稲穂さんは、微笑みながらで言った。
「そうですね。稲穂は、今とても幸せです。儚いこの浮世で、幸せを感じられるのは、関介様のお陰なんですよ」
「僕も、稲穂さんのお陰で幸せだよ」
二人の吐息が、静かな室内で混ざり合いこだました。重なった二つの身体は、誰よりも幸せに包まれていた。戦国の世は、命の灯火がいつ消えてしまうか分からない、そんな儚い時代だった。だったら、僕らは今を全力で生きるしかないのだ。二つの命の灯火は、暗い部屋の中で、全力で燃えていた。
多恵さんの体調も随分と回復した。血色もよくなった気がする。やはり体調を直すには、美味しいものを食べ、お風呂に入る。これに尽きるのだと、改めて実感した。
館の城門が大仰な音を立てて開く。大勢の家臣と兵たちが見守る中、僕らはゆっくりと門を潜り抜けた。空気が澄んでいて、富士の山がよく見えた。雪を被った姿は、頭から白い小袖を被った多恵さんそっくりだった。
「姉上、お体にお気をつけて。これが今生の別れになる事も無いでしょう、またいつでも帰ってきてくださいね」
「そうね。今度は、たろ坊が駿府に来なさい。何もないけど、きっと手厚く迎えてくれるわ」
晴信くんの顔は、晴れ晴れとして迷いを少しも感じなかった。
輿に入ろうとした多恵さんは、一瞬固まった後、踵を返して晴信くんの前まで戻ってきた。少し離れたところで控えていた信繫くんに手招きする。横に並び不思議そうな二人を前にして、稲穂さんは、すうっと息を吸っておもむろに口にした。
「たろ坊、じろ坊、大きくなったね。二人は、私の自慢の弟よ」
そっと前に出ると、信繫くん、晴信くんの順に、頬にキスをした。呆然とする二人の前で、今にも溶けてしまいそうな雪のような、儚い微笑みを浮かべた。
「また……会えるわ」
囁くように言った言葉は、僕にはそのように聴こえた。二人はほぼ同時に目を潤ませ、それを隠すように頭を下げた。二人の背後で、家臣たちが膝をついて首を垂れた。
多恵さんが輿の中へ入ったのを確認して、従者がそれぞれの足を持ち上げた。一瞬だが、確かに僕は見た。輿に入る瞬間、多恵さんの頬に、涙がつたっているのを。
甲斐の館が遠ざかっていく。駿府へと帰る旅が始まった。でも、足取りは軽かった。空は澄んで、青空が広がっていた。空高くに、数羽の鳥の群れが見えた。僕らと同じように、駿府の方角へ飛んでいった。




