湯治②
軽い挨拶だけ済ませると、晴信くんは館の奥の方へ歩いていった。身体が大きく、武骨そうな家臣たちが、晴信くんの前で膝をつき首を垂れている。大勢の家臣たちを従わせる晴信くんの背中は、最後に顔を合わせたころよりも、ずっと堂々としているような気がする。会わない内に、やっと武田の当主らしくなったのかと、嬉しさとほんのり寂しさもあった。多恵さんの横顔をそっと覗く。いつもの無表情だけど、心の内ではどう思っているのだろうか。立派になった晴信くんを、誇らしく思っているに違いない。
側近の春日虎綱さんの案内で、僕らも館に上がった。全員で向かうと大変だからと、馬廻りやお付きの者たちはここで解散となり、四人で彼の後を追った。
廊下がやけに冷たく感じる。夕暮れ時の寒さのせいもあるが、館の中の静けさも相まっているのだろう。今川館は、陽が沈んだ後でも、必ず何処かの部屋から騒がしい声が聞こえてくる。普段そこで過ごしていると分からない、温かな雰囲気が、今川館にはあった。甲斐の館は、息を殺すかのようにシンと静まり返っていて、どこか怯えているようにも感じた。外に広がる雑草の伸びきった庭を眺める。灯りの消えた灯篭が、暗がりの中で寂し気に佇んでいた。
こちらですと、虎綱さんが障子を開けた。行燈の灯りに包まれた部屋は、心地よく温かかった。ずらりと並べられた長机には、煌びやかな食事が沢山用意されていた。長旅の道中、満足に食事が取れなかった。美味しそうな香りに、思わず生唾を飲み込んだ。
部屋の奥の障子が開き、晴信くんが顔を見せた。目が合うと、ぱっと顔を綻ばせた。
「ささっ、皆さん。食事を準備したので、適当な所へ座って下さい。長旅で疲れたでしょうし、先ずは腹ごしらえからですよ」
さっきまでの慇懃な態度は消え、ニコニコと楽しそうに言った。僕も承芳さんも、晴信くんのあまりの変わりように、ポカンとした顔でいた。多恵さんの横顔を見ると、若干顔を引きつらせている。僕らの態度に気づく素振りも見せない晴信くんは、さっさと机の前に座り、目の前の大皿の料理を一口つまんで、幸せそうな笑みを浮かべた。
言われた通り机の前に座った。多恵さんは晴信くんのすぐ右斜め前、その隣に承芳さん。僕と稲穂さんは、正面に座った。全員が腰を下ろした時、控えていた虎綱さんが、みんなのお猪口に日本酒を注いだ。感謝を伝えると、ニコッと微笑み軽く頭を下げた。気の利くいい子だ。門の外で会った時は、暗くてよく分からなかったけど、近くで見ると随分と美形な顔をしている事に気が付く。柔和な笑顔の中に、利発そうな雰囲気を感じる。年は十ほど離れているように見えるが、既に晴信くんや承芳さんよりも、大人びた振る舞いをしている。
虎綱さんが部屋を後にしようと奥の障子に手を掛けた時、晴信くんは呼び止める声を上げた。こっちへと手招きすると、虎綱さんは表情を変えず、さっと機敏な動きで、晴信くんのもとへ駆けつけた。頭をポンポンと叩きながら、晴信くんは、少し誇らしげに話し始めた。
「虎綱は気が利くでしょう。小姓の頃から、周りの者と比べて飛びぬけて頭が切れて、百姓の出ですが、こうして晴信の近習に取り立てたのです」
顔がみるみるうちに紅く染まる虎綱さん。ちらちらと晴信くんの顔を窺っては、口元を手で隠した。嬉しいけど、晴信くんを前に、喜びの感情を表に出せないといった様子だ。当主の直ぐ傍に仕えながら、驕ることのない謙虚な虎綱さん。そんな虎綱さんだからこそ、晴信くんは傍に置いているんだろう。晴信くんの、虎綱さんへの信頼関係が伺えた。
正面に座り、日本酒をぐいぐいと煽る承芳さんの顔を見つめる。僕の視線に気が付いたのか、頬を朱色に染めた承芳さんは、目を細めて僕の顔を凝視してきた。
「何だ関介、私の顔に何かついているのか?」
「別に、何でもないですよ」
そうかと、面白くなさそうに呟き、大皿に乗った鴨肉を一気に頬張った。すると、胸を叩いて苦しそうに顔を歪めた。一気に食べるから、喉につかえたのだろう。お酒を流し込み、何度か大きくむせこむと、何とか詰まりが治ったらしい。お酒と合わさって、承芳さんの顔は茹でだこのように真っ赤になっていた。多恵さんは、そんな承芳さんの様子を冷ややかな表情で見つめていた。僕と稲穂さんが笑うと、つられて晴信くんも笑った。宴会の席は、温かな空気に包まれた。
本当は、承芳さんがどうして僕を傍に置いてくれているのか聞いてみたかった。だけど、このタイミングで聞いたら、褒めて欲しいのかと揶揄われると思って止めたのだ。でも、聞かなくても分かる気がする。別に驕っているのでも、自分を過大評価しているのでもない。これまで一緒に過ごして、今更理由なんていらない気がするのだ。ただ僕が傍に居たいから。そして、承芳さんが拒否しないから。それだけでいいのだ。
宴会はつつがなく進み、開け放たれた障子から見える空はすっかり暗くなっていた。遠くからフクロウの鳴き声が聞こえる。夜の帳が落ち、辺りに夜の静寂が訪れていた。ただ、宴会は変わらず盛り上がりを見せ、話し声で絶えなかった。弟の信繫くんは途中から出席した。顔を赤く染める晴信くんを、飲みすぎですよと軽く諫めた。
一方の僕も、いい感じに酔いが回り、顔が火照ってくるのを感じた。ふと隣を見ると、稲穂さんの笑顔が目に入った。だが目は一切笑っていない。言葉に出さずとも、言いたい事はすぐに分かった。飲みかけたお猪口を咄嗟に置き、ははっと乾いた笑い声が口から漏れた。酔いはすっかり醒めてしまった。
「姉上、こちらの猪肉美味しいですよ。あと、こちらの鹿肉も。姉上は身体が弱いのですから、沢山食べて、滋養をつけてくださいね」
晴信くんは、多恵さんの取り皿にせっせと料理を運んでいる。あれもこれもと選んでいるうちに、多恵さんの取り皿に小高い山ができていた。気が付かないのか、沢山食べて下さいねと無邪気に笑った。多恵さんは、弟の親切心を無下にできず、困ったように苦笑いを浮かべた。
その後も晴信くんは、多恵さんの隣に座り、べたべたしている。きっと久しぶりにお姉さんの顔を見られたのが、相当に嬉しいのだろう。多恵さんも鬱陶しそうな顔をしつつ、満更でもなさそうだ。信繁さんは、陽気なお兄さんとは違い、落ち着いた様子で接している。ただやはり、久しぶりの兄弟水入らずに、言葉が弾んでいるように聞こえる。三人の微笑ましいやり取りを肴に、僕はお猪口にそっと口を付けた。
「関介様、袴の替えは持って来ていませんよ?」
冷たい声が隣から聞こえてきた。傾けようとしたお猪口をその場に置き、肩を落とした。ぶすっと頬を膨らませる。僕だって、自重してお酒くらい飲めるのに。鮎の丸焼きに手を伸ばし、お腹からかぶりつく。油が乗っていて美味しい。お酒と食べたら、もっと美味しいのに。
「関介様、こちらに」
「なに、稲穂さっ、むぐっ」
振り返ると、口の中を何かで塞がれた。まさか稲穂さんの唇じゃ、と思ったが、直ぐに鴨肉だと分かった。塩のみのシンプルな味付けで美味しい。もしゃもしゃと咀嚼する僕を、稲穂さんは微笑みながら見つめている。てっきり怒っているのかと思った。
「稲穂には、記憶が飛ぶほどお酒を飲む意味がよく分かりません。これほど楽しい記憶を、関介様との楽しい記憶を、稲穂は忘れたくありません」
稲穂さんは、顔を赤らめて俯きがちに言った。
稲穂さんの名前を呼ぶ。顔を上げた彼女の口に、鮎を近づける。控えめに一口噛みつく。パリッと小気味よい音が聞こえた。
「美味しいですね、関介様」
「うん、美味しいね、稲穂さん」
稲穂さんがふっと笑うと、僕も笑い返した。お酒が無くても、今日の料理は、今までで一番美味しかった。
「関介殿、こちらも美味しいですよ」
晴信くんが指さすのは、大きな土鍋だった。中には、大根やねぎ、その他様々な葉物野菜が入っていた。無数の野菜に混じって、白い細長いものが入っていた。うどんのように見えるが、やけに平たくて幅が広い。とそこで、ここが現代でいうところの、山梨県である事を思い出した。
「こちらは、ほうとう鍋になります。大変熱いので、気を付けて食べてくださいね」
晴信くんがよそってくれたお椀を受け取る。汁を一口。やや薄味に感じるが、味噌のコクと野菜の甘みが合わさって美味しい。肝心のほうとうも、モチモチとした食感と小麦の芳醇な香りを感じ、これまた非情に美味しい。みな口々に、美味しいと絶賛だった。多恵さんも、目を見開いて、これはと呟いた。あの多恵さんの舌を唸らせるとは、恐るべしほうとう。みんなの高評価に、晴信くんは照れくさそうにはにかんだ。
「実はこの料理、晴信が考案したのです」
ほう、それは凄い。みなが感心する中、得意げになった晴信くんは説明を続けた。
「ある時台所に立つと、包丁が見当たりません。そこで晴信が手にしたのは、武田家に代々伝わる宝刀でした」
そこまで話したところで、晴信くんの言いたい内容を、この場にいる全員が理解した。恐らく何度も同じ話を聞いたのであろう信繫くんは、額を手で隠しやれやれと首を振った。みんなの反応に目もくれず、晴信くんは気持ちよさそうに話しを続けた。
「宝刀で作った料理は、今までになく美味しくできたのです。そう、まさに、伝家の”ほうとう”と言う訳です!」
室内が一瞬にして静まり返った。外からやけに冷たい風が吹きつける。みんなの白けた視線を浴び、不思議そうに首を傾げる晴信くん。片付けに顔を出した虎綱さんだけが、流石晴信様と、尊敬の視線を向けていた。これにて、宴会はお開きとなった。
お腹も満たされ、段々と眠たくなってきた。稲穂さんも、口に手を当て大欠伸をしている。湯治を目的に甲斐へやって来たが、お風呂はまた明日にしよう。
虎綱さんがせっせと片づけを始め、僕らも部屋に戻ろうかと話したその時、多恵さんがぽつりと口を開いた。
「たろ坊、私を元気づけようとしてくれているのは嬉しいのだけど、私にはたろ坊が無理をしているように見えるのだけど。何をそれほど落ち込んでいるの?」
僕には、何の事だかさっぱり分からなかった。晴信くんは、宴会が始まってから、誰よりも楽しそうに見えたから。他のみんなも同じ様子だ。
晴信くんはしまったといった様子で、流石は姉上と、自嘲気味に笑った。
「やはり、姉上には隠せませんね。姉上、聞いてもつまらぬ話にございますよ。そう、身内の問題にございますから」
「話して、たろ坊」
多恵さんは、まじろぎもせず、ジッと晴信くんの顔を見つめた。真剣な眼差しに折れたのか、晴信くんはその場に力なくしゃがみ込んだ。そこでようやく、彼の顔に、深い疲労感が浮かんでいる事に気が付いた。身内と言った。武田の家中の中で何かが起こったのだろう。
「稲穂さん、僕らは先に戻っていようか」
稲穂さんは、首をおもむろに横に振り、悲し気な微笑みを浮かべて言った。
「私の事は大丈夫です。関介様は、晴信様のお話を聞いて上げてください」
「そっか、ありがと、稲穂さん」
虎綱さんが直ぐに駆け付け、稲穂さんを部屋まで案内すると言ってくれた。彼に稲穂さんを任せ、再び晴信くんの方を振り返る。晴信くんは、疲れきった顔で、ぽつぽつと語り始めた。
「あれは去年の二月、北信濃を支配する、村上義清との戦での事です。これまで戦をしては、連戦連勝。父上が育て上げた優秀な家臣団のおかげだというのに、晴信の胸の中には驕りがあったのです。そして来たる二月、上田原にて、晴信は油断していました。村上義清の攻撃はすさまじく、侮っていた晴信は、大敗北を喫したのです。失ったのは数百の兵だけになく、甘利と板垣を戦中で。甘利は晴信を守り討たれました。板垣は、慢心する晴信を日々諫めてくれていました。にもかかわらず、晴信は忠言に耳も貸そうとせず、結果二人を失ったのです」
そこで大きく息を吐き、呼吸を落ち着かせた。畳の上に、ぽたぽたと大粒の涙が落ちた。室内には、晴信くんの嗚咽だけが響いた。
「信繁を始め、多くの家臣は晴信を励ましてくれました。ですが中には、晴信の器量を疑う者もいました。当然ですよね、驕り高ぶった末に、多くの兵と重臣を失ったのですから。晴信にはもう、上に立つ自信が無いのです」
誰も何も言い出せなかった。僕も承芳さんも、これほど憔悴した晴信くんにかける言葉が見つからなかった。
大きく息を吸う音が聞こえた。それは、承芳さんでも、信繫くんでもなかった。
僕には最初から分かっていた。晴信くんを助けられるのは、僕でも承芳さんでもない、それこそどんな高名な医者でもない。彼女にしか、彼の心の傷は癒せない事を。




